【時代】 戦国時代 – 安土桃山時代
【生誕】 明応2年(1493年)
【死没】 天正17年11月1日(1589年12月8日)
【改名】 伊勢菊寿丸(幼名) → 長綱 → 北条長綱 → 幻庵宗哲(号)
【別名】 通称:三郎、駿河守、渾名:鞍打幻庵
【官位】 北条早雲 → 氏綱 → 氏康 → 氏政 → 氏直
【氏族】 伊勢氏 → 後北条氏
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[sengoku-1]概要 (説明はWikipediaより)
戦国時代の武将。
伊勢盛時(北条早雲)と駿河の有力豪族であった葛山氏の娘との間に生まれた四男。
箱根権現社別当。
金剛王院院主。
北条早雲の男子の中では末子となる。
幼い頃に僧籍に入り、箱根権現社の別当寺金剛王院に入寺した。
箱根権現は関東の守護神として東国武士に畏敬されており、関東支配を狙う早雲が子息を送って箱根権現を抑える狙いがあったと見られる。
永正16年(1519年)4月28日、父から4400貫の所領を与えられた(『箱根神社文書』)。この頃の名乗りは菊寿丸である。
[sengoku-2]大永3年(1523年)に兄・氏綱が早雲の遺志を継いで箱根権現を再造営している。
この時の棟札には39世別当の海実と並んで菊寿丸の名が見える。
大永2年(1521年)から近江・三井寺に入寺し、大永4年(1524年)に出家する(『宗長手記』)。
この出家した年かその翌年に箱根権現の40世別当になったと思われ、天文7年(1538年)頃まで在職した。
別当になった際に長綱と名乗り、天文5年(1536年)頃から宗哲と名乗った(『藤川百首奥書』)。宗哲の名は大徳寺系の法名である(大徳寺系は宗・紹・妙・義の中から一字取ることを古格慣習としていた)。
天文11年(1542年)5月、甥(氏綱の3男)の玉縄城主・北条為昌の死去により、三浦衆と小机衆を指揮下に置くようになる。
天文12年(1543年)、「静意」の印文が刻まれた印判状を使用し始めた(『石雲寺文書』)。
これは幻庵が自らの支配地強化に乗り出したものと思われ、その本拠地・久野(現在の小田原市)の地名を取って「久野御印判」と呼ばれる。
永禄2年(1559年)2月作成の「北条家所領役帳」によれば、家中で最大の5457貫86文の所領を領有した。
これは次に多い松田憲秀(2798貫110文)のほぼ倍で、直臣約390名の所領高合計64250貫文の1割弱を一人で領有したことになる。
このように政治家か僧侶としての活躍が目立つが、馬術や弓術に優れ、天文4年(1535年)8月の武田信虎との甲斐山中合戦、同年10月の上杉朝興との武蔵入間川合戦、天文15年(1546年)河越城の戦いなどでは一軍を率いて合戦に参加しており、また永禄4年(1561年)3月の曽我山(小田原市)における上杉謙信との合戦で戦功のあった大藤式部丞を賞するように氏康・氏政らに進言している(『大藤文書』)など、一門の長老として宗家の当主や家臣団に対し隠然たる力を保有していた。
永禄3年(1560年)、長男の三郎(小机衆を束ねた北条時長と同一人物説あり)が夭折したため、次男の綱重に家督を譲った。
また北条氏康の弟・北条氏尭を小机城主とした。
しかし程なく氏尭が没し、永禄12年(1569年)に武田信玄との駿河(静岡県)の蒲原城の戦いにおいて次男の綱重、3男の長順らを相次いで失ったため、同年に氏康の7男・北条三郎(後の上杉景虎)を養子に迎えて家督と小机城を譲り、隠居して幻庵宗哲と号した。
永禄12年(1569年)、越相同盟の成立により、三郎(景虎)が越後の上杉謙信の養子となった後は、大甥である北条氏光に小机城を継がせ、家督は氏信(綱重)の子で孫・氏隆に継がせた。
[sengoku-3]天正17年(1589年)11月1日に死去。
享年97。
幻庵の死から9ヵ月後の天正18年(1590年)7月、後北条氏は豊臣秀吉に攻められて敗北し、戦国大名としての後北条家は滅亡した(小田原征伐)。
ただしこれは『北条五代記』の記述によるもので、現在の研究では妙法寺記などの同時代の一級史料や手紙などの古文書などと多くの矛盾が見られることから、その信頼性に疑問が持たれており、黒田基樹は幻庵の生年を永正年間と推定している。
その根拠として、大永3年(1522年)に兄・氏綱が箱根権現に棟札を納めた際、幻庵の名が菊寿丸と記されており、この時点で幻庵は当時の成人と見られる15歳未満だった可能性が極めて高いことを挙げている。
これが事実とすれば享年は15年以上若くなる。
一説に文亀元年(1501年)生まれという説がある。
また、没年に関しても現在では疑問視されており、天正12年(1584年)、天正13年(1585年)などの説もある。
[sengoku-4]北条幻庵(最新無料動画を楽しみましょう♪)
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