【時代】 戦国時代
【生誕】 大永7年(1527年)
【死没】 永禄5年3月5日(1562年4月8日)
【改名】 千満丸、彦次郎、之相、之虎、実休
【別名】 物外軒
【官位】 豊前守
【主君】 細川晴元→持隆→三好長慶
【氏族】 三好氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代の武将。

三好氏の家臣。

三好元長の次男。

『三好記』『阿州足利平島傳来記』『平島殿先祖並細川家三好家覚書』『阿州古戰記』などでは諱をよしかた(義賢、義形)としている。

しかし、福島克彦らの調査によるとこの名は一次資料では確認されておらず、天野は十河存保の別名で自署も残っている「三好義堅」(十河義堅)が後世に混同されたものとしている。

また、天野の話によれば室町幕府将軍・足利義輝と対立していた時期の三好氏が、足利氏の通字の「義」の字を名乗るとは考えづらいとも指摘する。

『古城諸将記』では三好豊前守義賢は長慶の子で足利義輝を殺したとし、『三好別記』でも三好義堅は長慶の次男で若江城で自害したとしており、実休の甥(十河存保からは従兄弟)の三好義継との混同がある。

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大永7年(1527年)、三好元長の次男として生まれる。

生年には大永6年(1526年)説もある。

兄に三好長慶、弟に安宅冬康、十河一存、野口冬長がいる。

早くに父が戦死したことで、幼少期から政治的に重要な立場となった。

署名に長慶と実休の幼名が記されている「三好千熊丸・千満丸寄進状」の日付は天文元年8月9日(1532年9月8日)であり[9]、これは父の死から数えて49日にあたる。

兄・長慶は細川京兆家の当主・細川晴元に仕えたが、実休は晴元の従兄弟で阿波細川家の当主・細川持隆に仕えた。

四国における影響力を保持する狙いがあったと見られる。

天文8年(1539年)には、持隆に付き従い、伊予国における河野氏との合戦に三好勢の責任者として参加した。

天文13年(1544年)、兄に従って京都に入り、天文15年(1546年)までに豊前守を名乗るようになった。

細川晴元と対立する細川氏綱、畠山政国、遊佐長教らに対抗するため、天文15年秋に阿波の軍勢を渡海させ、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いで大勝した。

その後も兄・長慶の勢力拡大に従って伊予・讃岐・和泉など各地に転戦している。

また、弟の十河一存が和泉岸和田城主となったため、讃岐も事実上支配下に組み込むなど、三好家の四国方面の政治・軍事を担当した。

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天文22年(1553年)6月に細川持隆を見性寺で自害に追い込み、その子・細川真之を阿波細川家の当主として擁立した。

この時、持隆派であった久米義広、佐野丹波らが反抗したが、実休はこれも打ち破り(鑓場の戦い)、阿波細川家の実権を完全に掌握、阿讃衆と呼ばれる国人衆を三好政権の統制下においた。

実休は、持隆とその一党を、兄・長慶の政権安定の為に排除し、阿波を掌握しようとした。

しかし、実休を憎む者、妬む者、また細川真之に接近する者が少なくなく、その者達との暗闘を実休は強いられ、完全に阿波を掌握することは出来なかった。

天文23年(1554年)から天文24年(1555年)の播磨遠征、永禄元年(1558年)の北白川の戦いでは四国勢を率いて参戦。

永禄3年(1560年)に兄と共に河内守護・畠山高政や安見宗房らと戦い大勝し、彼らを追放した後の河内の守護を任された。

しかし永禄5年(1562年)、紀伊国の根来衆の援助を得た畠山高政の反撃を受け、久米田の戦いで戦死した。

享年36。

また、寵愛の小姓や近習らも悉く討ち死にしたという。

跡を子の三好長治が継いだ。

実休が討死した際、長慶は飯盛山城で連歌の会の最中であった。

実休の訃報を聞いた長慶は動ずることなく、「蘆間に混じる薄一むら」(「薄に交わる蘆間のひとむら」とも)という前句に対して、「古沼の浅き潟より野となりて」と返し、参加者達を感嘆させた。

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