【時代】 戦国時代 – 安土桃山時代
【生誕】 弘治2年(1556年)
【死没】 慶長2年6月2日(1597年7月16日)
【改名】 安田作兵衛国継→天野源右衛門貞成
【別名】 通称:作兵衛
【主君】 明智光秀(斎藤利三)→羽柴秀勝→羽柴秀長→蒲生氏郷→立花宗茂→寺沢広高
【氏族】 安田氏
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[sengoku-1]概要 (説明はWikipediaより)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
通称は作兵衛。
講談では安田作兵衛の名で知られ、明智三羽烏の一人とされている。
弘治2年(1556年)、美濃国安田村にて誕生。
[sengoku-2]はじめ、織田氏の重臣・明智光秀配下の斎藤利三に仕えた。
天正10年(1582年)に光秀が主君・織田信長に対して起こした本能寺の変では、その先鋒となり出陣。
信長を槍で攻撃し、行く手を阻んだ森成利(蘭丸)に十文字槍で下腹部を突かれるも、これを討ち取る功を挙げたという武勇伝がある。
ところが明智氏が山崎の戦いにて敗走すると、出奔して天野源右衛門と改名して浪人した。
羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷と仕えたがいずれも長続きしなかった。
立花宗茂に仕え、豊臣氏による九州平定にて功があったという。
また、文禄・慶長の役では朝鮮へ出陣。講談では『天野源右衛門覚書』(『立花朝鮮記』または『朝鮮軍記』)を執筆したことになっているが、これは幕末に別人が書いた偽書(赤本)で、フィクションである。
[sengoku-3]最後は寺沢広高に仕え、8,000石を有した。
なお『翁草』によれば、若き日の国継と寺沢広高が、どちらかが立身出世したら、もう片方を十分の一の俸禄で召抱える約束をしたといわれる。
晩年は姓を平野に改名した。
慶長2年(1597年)に死去。
享年42。
死因は頬の出来物の悪化を苦にしての自害という。
なお、死んだ日は織田信長の命日と同日であり、信長を刺した祟りと噂された。
[sengoku-4]安田国継(最新無料動画を楽しみましょう♪)
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