【時代】 戦国時代 – 安土桃山時代
【生誕】 永正12年(1515年)又は享禄2年(1529年)
【死没】 天正3年5月21日(1575年6月29日)
【改名】 飯富源四郎、山県昌景
【別名】 三郎右兵衛尉
【主君】 武田信玄→勝頼
【氏族】 飯富氏→山県氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から安土桃山時代にかけての日本の武将。

甲斐武田氏の家臣で、譜代家老衆。

後代には武田四天王の一人に数えられる。

武田家の譜代家老飯富虎昌の弟とされているが、甥であるとも言われている。

戦国時代の飯富氏の一族では武田信虎家臣・飯富道悦の子息とみられる「源四郎」が永正12年(1515年)10月17日に西郡の国人・大井信達との合戦で死去している。

この「源四郎」は山県昌景の仮名と一致するため、「源四郎」は虎昌・昌景の父親にあたると考えられている。

『甲陽軍鑑』に拠れば、昌景ははじめ武田信玄の近習として仕え、続いて使番となる。

『甲陽軍鑑』では晴信期の信濃侵攻における伊奈攻めにおいて初陣を果たし、神之峰城攻めで一番乗りの功名を立てたとし、天文21年(1552年)、信濃攻めの功績により騎馬150持の侍大将に抜擢される。

その後も虎昌に勝るとも劣らない武者振りを発揮し、「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われたとしている。

確実な初見史料は弘治2年(1556年)8月2日で、昌景は飯富源四郎として水科修理亮に対し与えられた信濃善光寺との往来に関する諸役免許の朱印状奏者を務めている。

『信長公記』の長篠の戦いの部分で、討ち取った首の表の筆頭に上げられているのは、昌景の名前である。

それほど彼の名は敵方にも広く知れ渡っており、武田家重臣の筆頭格であったことがわかる。

武田四天王、武田二十四将の一人に数えられている。

山県隊は部隊の軍装を赤一色に統一し編成したことから、「赤備え」として諸大名から畏怖された。

赤備えを見ただけで勇猛な兵ですら震え上がったと言われる。

山県隊があまりにも強すぎたことから赤備えは最強部隊の代名詞となり諸大名に大きな影響を与えた。

なお、昌景の死後、徳川家康の重臣・井伊直政や真田昌幸の次男・真田信繁らも赤備えを採用しているのを見ても、その強さがいかに畏敬されていたかがわかる。

武勇に優れる昌景ではあったが、風采は冴えなかったとされている。

身長は130cmから140cmの小柄で、体重も軽く、痩身で兎唇の醜男だったと言われている。

永禄6年(1563年)、三郎兵衛尉を名乗る。

その後も順調に戦功を挙げて、譜代家老衆に列せられて300騎持の大将となったという。

永禄7年(1564年)7月には飛騨国に侵入し、江馬氏、三木氏を降している(『江馬家後鑑錄』)。

永禄8年(1565年)10月には信玄の嫡男・武田義信と彼の傅役だった虎昌が謀反を起こし、同15日に虎昌は成敗されたという(義信事件、高野山成慶院『甲斐国過去帳』)。

『甲陽軍鑑』によれば、昌景は血族である虎昌が関与している事を承知の上でこれを信玄に訴えたという逸話を記している。

この功績により虎昌の赤備え部隊を引き継ぐとともに、飯富の姓から信玄の父・信虎の代に断絶していた山県(山縣)氏の名跡を与えられて山県昌景と名を改めたといわれ、永禄9年8月時点での改姓が確認される。

昌景は原昌胤ともに武田家の政治職である「両職」を務めたとされているが、文書上からは確認されない。

その後も西上野侵攻における箕輪城攻略戦、駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)、甲相同盟の破綻後の相模後北条氏の戦いなどに参加したとされるが、文書上では主に信玄側近として諸役免許や参陣命令、寺社支配など武田氏朱印状奏者としての活動が確認されるほか、美濃国の遠山氏、陸奥国(会津)の蘆名氏、三河国徳川氏など遠方国衆や松尾小笠原氏、室賀氏、赤須氏などの信濃国衆や三枝氏、横田氏など甲斐武田家臣との取次を務めている。

永禄12年(1569年)には駿河江尻城代に任じられた。

元亀2年(1571年)に武田氏は大規模な遠江・三河侵攻を行い、昌景は山家三方衆ら奥三河の国衆を服属させ、抵抗した菅沼定盈に対しては同年4月28日に居城・大野田城を押し潰し、定盈を退散させ、さらに吉田城を攻囲したとされるが、近年はこの元亀2年の侵攻は根拠となる文書群の年代比定が天正3年に下り、一連の経緯は長篠の戦いの前提である可能性が指摘されている。

『当代記』によれば、元亀3年(1572年)10月、信玄が「西上作戦」を開始すると、秋山虎繁とともに別働隊を率いて信濃から三河に侵攻したという。

武田氏に従属した菅沼氏や奥平氏など奥三河国衆は山県の指揮下に組み込まれていたため、これらに先導させて三河東部の長篠城経由で浜松方面へ進軍する。

三河八名郡の柿本城、更に越国して遠江の井平城も落とし南進し、浜松城を圧迫する下地作りを完了させた上で信玄本隊に合流した。

同年12月22日には武田勢と三河の徳川家康との間で三方ヶ原の戦いが発生し、『甲陽軍鑑』では山県勢が崩れかかったところを武田勝頼が助けたとする逸話を記している。

元亀4年(1573年)4月12日、信玄は信濃伊那郡駒場において死去する。

『甲陽軍鑑』によれば、信玄は「わしの死を3年間秘せ。そして勝頼を補佐してくれ」、「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺命を託され、馬場信春とともに重鎮の筆頭として信玄の嫡子・武田勝頼を補佐することになった。

しかし、勝頼との折り合いは悪く、疎まれたという。

勝頼の家督相続後、天正元年(1573年)8月21日には三河長篠城(愛知県新城市)への後詰の指揮を命じられている。

明知年譜によると、天正2年(1574年)、武田勝頼の東美濃侵攻における明智城をめぐる戰いでは、救援に来た織田信長本隊3万人に対し山形は6000人の別働隊を任され、山岳地帯の地形を利用して撃退した。

戦闘では退却する信長軍を追撃して4里退かせ、信長の周囲を固めた16騎のうち9騎が打ち取られて7騎が逃げ出すなど、一時は信長を瀬戸際まで追い詰める場面もあったという。

『甲陽軍鑑』『当代記』によれば、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは山県や内藤昌秀、馬場信春、原昌胤らが撤退を進言したが、勝頼と側近の長坂光堅(釣閑斎)・跡部勝資が決戦を主張し、勝頼は決戦を決断したという。

そして5月21日の設楽原決戦では、『甲陽軍鑑』や『長篠合戦図屏風』によれば内藤、原らと武田軍左翼の中核を担ったという。

『甲陽軍鑑』によれば、山県は300騎を率い、駿河の朝比奈氏、信濃の松尾小笠原氏、相木依田氏、大熊氏、三河の田峯菅沼氏、長篠菅沼氏、遠江の三浦氏、孕石氏らの国衆を相備にしていたという。

『信長公記』『松平記』『大須賀記』によれば武田勢の攻勢は九ツ始め(午前11時)に始まり、左翼の山県勢が徳川軍を襲撃したという。

『信長公記』によれば山県勢は「一番」に攻撃を仕掛けたが敗退し、『信長公記』『松平記』によれば武田勢は未刻(午後2時頃)には退却し、山県、真田信綱ら武田勢の武将は追撃戦の最中に戦死したという。

享年47。

高野山成慶院『甲斐国供養帳』には山県の戦死時刻を「未ノ刻」と記している。

長篠合戦屏風に、戦死した昌景の首級を家臣の志村又左衛門が敵に奪われない様持ち去る描写がある。

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