【時代】 安土桃山時代 – 江戸時代前期
【生誕】 不明
【死没】 正保2年(1645年)4月25日
【改名】 正祥(初名)
【別名】 今木源右衛門
【主君】 豊臣秀頼→前田利常→前田光高
【氏族】 浅井氏

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概要 (説明はWikipediaより)

安土桃山時代から江戸時代にかけての武士。

近江浅井氏の一族で、豊臣秀頼に今木源右衛門(いまき げんえもん)の名で仕えた。

大坂夏の陣の後は加賀藩に仕え、第3代藩主前田光高に殉死した。

大坂の陣の記録として『浅井一政自記』を書き残している。

近江浅井氏の一族で、東福門院に上臈女房として仕えた対馬局は妹にあたる。

加賀藩が藩士に提出させた資料『先祖由緒并一類附帳』によれば、一政の祖父は浅井掃部之政といい、本家当主である浅井亮政の娘を娶った。

2人の間に生まれた浅井采女定政が、一政の父に当たる。

一政の生年は不詳。

天正元年(1573年)に浅井長政が滅びると、定政の一家は越前国敦賀に逃れた。

なお『東浅井郡誌』所収「浅井氏略系」によれば、弟に作左衛門良政がいる。

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一政は慶長年間、豊臣秀頼の代に豊臣家に仕え、片桐且元の麾下に属した。

この際、豊臣秀吉が滅ぼした「浅井」の姓を名乗ることを憚ったためか、「今木」を称している。

『浅井一政自記』によれば、豊臣秀頼とは直接面会もできる間柄で、信頼を受けていたようである。

慶長19年(1614年)9月、大野治長らと対立し、暗殺計画があることを知らされた片桐且元が自邸に立て籠もった際には、事態の打開を図るべく、豊臣家(秀頼および淀殿)と片桐家の間を奔走した。

且元の大坂城退去に際し、且元は一政もともに退去するよう促したが、一政は固辞して大坂城に残った。

一政は且元の助言に従い、伊東長実を介して秀頼に詫びを入れて許されたが、疑いの目は向けられたようであり、『浅井一政自記』に大坂冬の陣についての記述がないのは城内に留め置かれたためと考えられる。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において、一政は城内と陣営との取次(伝令役)に任じられた。

この際に、取次に専念するよう、戦闘に参加しないことを誓約させられた。

5月7日には、真田信繁ら七手組が陣取る茶臼山への伝令に当たった。

この際、先の誓約があったにも関わらず茶臼山付近で敵兵と槍を交え、首級を得た。

その後、一政は城内に引き上げた。

『浅井一政自記』には落城が間際に迫る中での秀頼との会話や城内の状況も記されている。

秀頼は一政に、天守で自害するからその用意をせよと言ったため、一政は畳を重ねて自害の場所をしつらえた。

しかし、秀頼の自害は大野治長と速水守久によって阻まれた。

秀頼は天守から下りて戦況把握のため月見櫓に入ったが、落城寸前であることが確認され、戦闘で重傷を負った渡辺糺が自害した。

渡辺糺の母(正栄尼)も後を追って自害し、一政が介錯を務めた。

一政も月見櫓で自害しようとしたが、津川近治と毛利勝永によって櫓から連れ出され阻まれたという。

5月8日朝、豊臣秀頼の命で常高院(淀殿の妹)の許に、おそらくは淀殿の助命について徳川家との交渉を依頼するための使者として派遣された。

京極家当主の京極忠高(常高院の養子、小浜藩主)からは協力を断られた上、井伊直孝の部隊に拘束されて城内への帰還を果たせず、城外から大坂城の炎上を見、秀頼以下の切腹を伝え聞くこととなった。

一政は京都に護送された。

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一政は大坂方の落人として処刑される危険もあったが、生き延びることができた。

常高院による助命嘆願などがあったと考えられる。

以後、京都で牢人生活をするが、片桐孝利(且元の子)からの合力米500石の仕送りを受けており、生活には余裕があったようである。

片桐家からの支援は、一政が且元のために尽くしたことに報いるものである。

『浅井一政自記』には夏の陣で首級を挙げた時の証人の現住所も把握しており、大坂方参加者との交流も長期にわたって続いていたことが窺える。

大名家への仕官に向け、互いの戦功を証明する手段として書簡をやり取りしていたようである。

元和年間(1615年 – 1624年)に加賀藩第2代藩主前田利常に1000石で召し抱えられ、馬廻組に属した。

加賀藩への仕官には、利常の正室が珠姫(徳川秀忠と江の娘、すなわち淀殿の姪)であったことが関わっており、淀殿の助命のために奔走した一政に報いたと伝えられている。

加賀藩では再び「浅井」を称した。

利常の子・前田光高には幼少時より傅役として仕えた(『加賀藩史稿』等によれば世子側用人として仕えたとある)。

寛永16年(1639年)に利常が隠居し、光高が第3代藩主となった。

光高からの信頼は厚く、300石が加増された。

その後、老齢を理由として隠居し、越中国氷見に居住した。

正保2年(1645年)4月5日に光高が江戸で急死した。

一政は金沢に帰る光高の柩を途中まで出迎え、柩に従って金沢に入り、4月25日に殉死した。

一政は光高とともに金龍院天徳院(金沢市小立野)に埋葬された。

その後昭和に入り、光高が加賀藩歴代藩主が眠る野田山墓地に改葬されると、一政の墓もともに移された。

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