【時代】 安土桃山時代 – 江戸時代初期
【生誕】 天正2年2月8日(1574年3月1日)
【死没】 慶長12年閏4月8日(1607年6月2日)
【改名】 松平於義伊、羽柴秀康、結城秀康、秀朝、秀康、松平秀康
【別名】 越前卿、越前黄門、越前宰相、結城少将、徳川三河侍従(通称)
【官位】 従五位下侍従、三河守、従四位下左近衛権少将、従三位権中納言、正三位、贈正二位
【主君】 豊臣秀吉、秀頼、徳川家康、秀忠
【氏族】 徳川氏、羽柴氏、結城氏、越前松平家

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概要 (説明はWikipediaより)

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。

越前国北ノ庄藩初代藩主。

越前松平家宗家初代。

天正2年(1574年)2月8日、徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村で生まれた。

母は三河国池鯉鮒明神の社人・永見吉英(永見氏)の娘で、家康の側室の於万の方(長勝院、通称おこちゃ、小督局)。

誕生地は、今川氏の時代より代官や浜名湖周辺の船・兵糧の奉行を務める源範頼の系譜である領主・中村正吉の屋敷であった。

現存する同屋敷(建築物は江戸初期)内には、家康お手植えの松「秀康の胞衣塚」が残る。

この縁により、のちの歴代福井藩主は参勤交代の際、中村家で供応を受ける慣例が続いた。

あくまで伝承ではあるが秀康は双子で誕生し、もう一人はすぐに亡くなったとする言い伝えがある。

その後、家康が正室・築山殿の悋気を恐れたために、秀康を妊娠した於万は重臣の本多重次のもとに預けられたという。

幼名を於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)と名づけられた秀康は、父・家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。

その対面も、あまりの冷遇を受ける異母弟を不憫に思った兄・信康による取りなしで実現したものであったという。

冷遇の理由は、築山殿を憚ったためとも、双子で生まれてきたことにあるともされるが、寛永11年(1634年)に書かれた『中村家御由緒書』には「本多作左衛門が家康に委細を言上に及んだところ、家康には何か考えることがあり、お取り上げが難しいということになり」とだけ書かれており、研究者の小楠和正は武田勝頼との戦いに直面していたために家康は秀康を浜松城に引き取る機会も、対面する機会も持てなかったのではないかと推定している。

天正7年(1579年)、武田勝頼との内通疑惑から織田信長の命令により、兄・信康が切腹させられる(近年では信康が家康と対立したために切腹させられた、ともされる)。

このため、次男である秀康は本来ならば徳川氏の後継者となるはずであった。

しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和睦の条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出され、家康の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされた。

母親の身分は秀忠の方が上であり、信康切腹前に生まれた秀忠が当初から後継者だったと考えられる。

大坂へは、傅役の小栗大六(小栗重国)と小姓の石川勝千代(石川康勝)・本多仙千代(本多成重)がつき従う。

家康より「童子切」の刀と采配を餞別として授けられた。

天正12年(1584年)12月12日、羽柴秀吉の養子として「羽柴三河守秀康」と名乗る。

天正15年(1587年)の九州征伐で初陣を果たし、豊前岩石城攻めで先鋒を務めた。

続く日向国平定戦でも抜群の功績を挙げた。

天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。

天正18年(1590年)の小田原平定、天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも参加した。

天正17年(1589年)、秀吉に実子の鶴松が誕生すると、秀吉は鶴松を生後4ヶ月で豊臣氏の後継者として指名。

そのため他の養子同様に、再び他家に出される。

天正18年(1590年)、実父の家康が駿遠三甲信から、関東一円(旧北条領)に国替えになり240万石を得た。

秀吉は、関東平定の功労者である家康へ更なる加増として、秀康を北関東の大名結城氏の婿養子とすることを考えついた。

結城氏は下野国の守護に任命されたこともある名家であった。

秀康は関東に下り黒田孝高の取り成しで結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督および結城領11万1,000石を継いだ。

また改めて羽柴姓を賜り、官位から羽柴結城少将と呼ばれた。

秀吉死後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦である会津征伐に参戦する。

上杉景勝に呼応する形で石田三成が挙兵すると、家康は小山評定を開いて諸将とともに西上を決める。

このとき家康によって、本隊は家康自らが率いて東海道から、そして別働隊を秀忠が率いて中山道(東山道)を進軍することが決められ、秀康は宇都宮に留まり上杉景勝の抑えを命じられた。

慶長5年9月7日、徳川家康が伊達政宗にあてた手紙には秀康と相談して上杉に備えるよう指示していることから、家康は秀康の武将としての器量を評価しており、父子がそれぞれの立場をわきまえて生涯認めあっていたことは確かである。

関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城10万1,000石から越前北庄68万石に加増移封された。

結城旧来の家臣の中には越前への移転を拒否するものが少なくなく、それ故この越前移封は最終的な在地離脱の強制として機能したもので、その結果秀康は自らの権力における旧族結城氏よりの継承面をほぼ払拭することができた。

慶長9年(1604年)には松平氏に復することも赦されているとする史料も存在する。

慶長10年(1605年)、権中納言へ昇進。

越前宰相から越前中納言によばれかたが変わった。

慶長11年(1606年)9月21日には伏見城の留守居を命じられる。

だが病を得て職務を全うできなくなったため、慶長12年3月1日に越前へ帰国し、そのまま閏4月8日に死去。

享年34。

死因は『当代記』に「日来唐瘡相煩、其上虚成」とあるから、梅毒ではなかったかとされる。

また梅毒が直接の死因ではなく、梅毒による衰弱症が死因とする指摘もある。

なお曲直瀬玄朔の『医学天正記』には、「越前宰相殿、瀉利・発熱・咽渇・五令ニ加滑」とあり、他の難病にもとりつかれていたようである。

始めは結城家の菩提寺である曹洞宗孝顕寺で火葬され、孝顕寺殿前三品黄門吹毛月珊大居士と追号されたが、徳川家・松平家が帰依していた浄土宗による葬儀でなかったことを家康が嘆いたため、知恩院の満誉上人を招いて新たに運正寺を作り、ここに改葬して戒名も浄光院殿前森巖道慰運正大居士と浄土宗での戒名も新たに授与された。

越前68万石は、嫡男・松平忠直が継いだ。

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