【時代】 戦国時代 – 江戸時代初期
【生誕】 弘治2年(1556年)
【死没】 慶長12年10月2日(1607年11月21日)
【改名】 長法師丸、鎮賢、久家、政家
【別名】 太郎四郎(通称)
【官位】 従五位下民部大輔、従四位下侍従、肥前守
【主君】 豊臣秀吉
【氏族】 龍造寺氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。

肥前国の戦国大名。

戦国大名としての龍造寺氏最後の当主。

官位は従四位下・侍従、肥前守。

弘治2年(1556年)、肥前国の戦国大名・龍造寺隆信の嫡男として誕生。

永禄4年(1561年)に元服し、近隣の強大勢力・大友義鎮(宗麟)から偏諱(「鎮」の字)を賜って鎮賢(しげとも、通称は太郎四郎)と名乗った。

のちに久家(ひさいえ)、政家と改名。

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天正6年(1578年)に父から家督を譲られるが、形式的な家督相続であり、政治・軍事の実権は隆信が握り続けたままであった。

天正12年(1584年)に有馬晴信が龍造寺氏から離反すると、父から有馬氏討伐を命じられた。

しかし、正室が有馬氏の出身でこれに消極的であったため、隆信自ら有馬討伐に向かい、政家は留守を守った。

この有馬攻めの最中、隆信は沖田畷の戦いで戦死する。

父の死後、祖母と共に国政を行うが、島津氏が来襲するという流言があり、政家の叔父・信周は宿老と相談して鍋島直茂を柳河より呼び戻した。

また、隆信の死で勢いづいた島津氏の侵攻は如何ともしがたく、政家は島津氏に降った。

天正15年(1587年)、交誼のあった豊臣秀吉により嫡男の長法師は、藤八郎と改名した。

さらに九州平定により、龍造寺政家は肥前国7郡30万9902石を安堵されたが、朱印状は龍造寺高房(藤八郎)宛となっている。

鍋島直茂はうち3万石余(直茂・勝茂の合計高4万4500石)を与えられ 、秀吉は鍋島氏に政家に代わって国政を担うよう命じた。

天正16年(1588年)、政家は羽柴の名字と豊臣姓を下賜された。

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病のため政家は隠居し、天正16年(1591年)11月28日、政家は鍋島直茂を養子とし、藤八郎(後の高房)を直茂の養子とした上で羽柴の姓が与えられた。

関ヶ原で龍造寺氏は西軍に属したが(鍋島勝茂は伏見城攻めや安濃津城攻めに西軍主力として参加)、同じ西軍の立花宗茂を攻略することで所領を安堵された。

慶長12年(1607年)3月に子・高房は江戸で室を刺殺し自身も自殺未遂を起こしこれが元で死去。

同年に政家も後を追うように死去したため、これにより大名としての龍造寺宗家は断絶した。

その後は、鍋島氏が高房の死により35万7千石の朱印高を幕府に公認され、佐賀藩として龍造寺の遺領を継承していく。

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