【時代】 戦国時代 – 江戸時代初期
【生誕】 天文元年10月18日(1532年11月14日)
【死没】 慶長13年8月15日(1608年9月23日)
【官位】 安房守、左馬頭
【主君】 龍造寺隆信、政家、高房、鍋島勝茂
【氏族】 龍造寺氏(須古鍋島家)
無料の動画を楽しみましょう♪(↓をクリック)
YouTube responded with an error: Permission denied: Consumer 'api_key:AIzaSyCDrKuaF8iycbq8AoHMuLngEmpnFFM7Tq8' has been suspended.
[sengoku-1]概要 (説明はWikipediaより)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。
須古鍋島家初代当主。
兄の龍造寺隆信と共に各地を転戦し、武功を挙げたといわれている。
天文元年(1532年)、龍造寺周家の次男として誕生。
[sengoku-2]隆信の次弟だが、異母兄弟であったため、隆信と同母弟の長信より地位は低かったらしい。
元亀元年(1570年)に大友氏と龍造寺氏が戦った今山の戦い後、局地戦では大勝した龍造寺軍ではあったが、国内情勢は不安定であった為に、大友氏とこのまま抗争状態になるのは不利と判断。
大友氏からの要請により、人質として大友氏へ派遣され、和議を成立させている。
天正12年(1584年)に沖田畷の戦いでの兄・隆信が戦死した後に須古城へ移り、豊臣秀吉の九州平定、朝鮮出兵などを経て、龍造寺氏から鍋島直茂への権力の移譲が進むと、この流れに従って、鍋島氏の肥前国支配体制を認めた。
[sengoku-3]龍造寺高房の龍造寺氏復権への動きに対し、幕府が事情聴取のために、信周と弟・長信、龍造寺家晴の三人を江戸に招聘した際、三人は鍋島氏の肥前支配を認めたこともあり、鍋島氏の肥前支配は決定的となった。
なお、信周の子孫は須古鍋島家(龍造寺四家の一つ)として、佐賀鍋島家の重臣として明治維新を迎えた。
慶長13年(1608年)死去。
跡を次男・信昭が継ぐ。
[sengoku-4]龍造寺信周(最新無料動画を楽しみましょう♪)
[sengoku-sita]