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合戦名 法華一揆
合戦の年月日 1532~1536年

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概要 (説明はWikipediaより)

日本の戦国時代の京都における天文(てんぶん)年間に起きた宗教一揆である。

日本の戦国時代に起きた、京都における宗派間の紛争である。

日蓮宗の立場からは「天文法難」、ほかの宗派からは「天文法華の乱」などと呼ばれる。

天文年間、京都では六条本圀寺などの日蓮宗(法華宗)寺院を中心に、日蓮宗の信仰が多くの町衆に浸透し、強い勢力を誇るようになっていた。

天文元年(1532年)、浄土真宗本願寺教団の門徒(一向一揆)の入京の噂が広がり、日蓮宗徒の町衆(法華衆)は細川晴元・茨木長隆らの軍勢と手を結んで本願寺教団の寺院を焼き討ちした。

当時の京都市街から東山を隔てた山科盆地に土塁に囲まれた伽藍と寺内町を構えていた山科本願寺はこの焼き討ちで全焼した(山科本願寺の戦い)。

この後、法華衆は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大した。

こうした法華衆の勢力拡大を、ほかの宗派の立場からは「法華一揆」と呼ぶ。

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天文5年(1536年)2月(旧暦)、法華衆は比叡山延暦寺に対して宗教問答をすることを呼びかけた。

延暦寺もこれに応じ、3月3日(旧暦)に延暦寺西塔の僧侶・華王房と上総茂原妙光寺の信徒・松本久吉(松本新左衛門久吉)とが問答したところ、松本久吉が華王房を論破した(松本問答)。

延暦寺の僧侶が日蓮宗の一般宗徒に論破されたことが噂で広まると、面目を潰されたと感じた延暦寺は日蓮宗が「法華宗」を名乗るのを止めるよう、室町幕府に裁定を求めた。

だが、幕府は建武元年(1334年)に下された後醍醐天皇の勅許を証拠にした日蓮宗の勝訴とし、延暦寺はこの裁判でも敗れた。これにより、延暦寺は京都法華衆の撃滅を決議した。

同年7月(旧暦)、延暦寺の僧兵集団が法華衆の撃滅へと乗り出した。

延暦寺全山の大衆が集合し、京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山に対して、延暦寺の末寺になり上納金を払うように迫った。

日蓮宗側は延暦寺のこうした要求を拒否。

要求を拒否された延暦寺は朝廷や幕府に法華衆討伐の許可を求め、越前の大名・朝倉孝景を始め、敵対関係にあった他宗派の本願寺・興福寺・園城寺・東寺などにまで協力を求めた。

いずれも延暦寺への援軍は断ったが、中立を約束した。

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延暦寺は近江の大名・六角定頼の援軍を得ると、7月23日に延暦寺・六角勢が総勢6万人を動員して京都市中に押し寄せ、法華衆2万と交戦した。

他方、法華衆は5月下旬から京都市中に要害の溝を掘って延暦寺の攻撃に備えていため、戦闘は一時法華宗が有利であったが、次第に劣勢になっていった。

そして、27日までに延暦寺・六角勢は法華衆に勝利し、日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払い、法華衆の3000人とも1万人ともいわれる人々を殺害した(天文法難)。

28日には、最後まで抗戦していた本圀寺が陥落している。

さらに延暦寺・六角勢が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。

兵火による被害規模は応仁の乱を上回るものであった。

こうして、隆盛を誇った京都の法華衆は壊滅し、法華衆徒は洛外に追放された。

以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となった。

天文11年(1542年)に六角定頼の斡旋で朝廷から京都帰還を許す勅許が再び下り、天文16年(1547年)には定頼の仲介で延暦寺と日蓮宗との間に和議が成立した。

その後、日蓮宗二十一本山のうちの15か寺が再建された。

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