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合戦名 四国の役
合戦の年月日 1585年
合戦の場所 阿波・讃岐・伊予
合戦の結果 長宗我部氏の降伏
交戦勢力 羽柴秀吉 長宗我部元親
指導者・指揮官 羽柴秀長、宇喜多秀家、小早川隆景 香宗我部親泰、谷忠澄、金子元宅
戦力 105,000~123,000人 40,000人

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概要 (説明はWikipediaより)

秀吉はたびたび背後を長宗我部氏に脅かされたため、四国出兵を考えるようになった。

秀吉・元親とも当初は交渉による和解を模索したが、領土配分を巡る対立を解消できず、交渉は決裂した。

『長元記』によると、元親は秀吉に進物を贈って和解を試みたが、秀吉は讃岐・伊予の返納を命じた。

元親は伊予一国を返還することで妥協を見出さんとするも秀吉は認めず、交渉は決裂した。

一方『小早川文書』によると、一度は阿波・讃岐の返還、伊予・土佐の安堵という条件が成立したが、その後ご破算になったとされる。

この案は天正11年に検討されたとされる案と同じとみられているが、当時と異なり毛利氏が長宗我部氏と対立して秀吉の従属下にあった中、長宗我部氏と毛利氏の間の調整が上手く行かなかったことが原因とみられている。

さらに秀吉も自分に従おうとしない元親に業を煮やして毛利氏に伊予・土佐を与えることを示唆したり、それが毛利氏の勢力を強くし過ぎると考えると今度は土佐一国は長宗我部氏に安堵する方向に修正したりと、方針を二転三転変更させた。

そのため秀吉と長宗我部・毛利両家との交渉はまとまらず、最終的には秀吉が求める讃岐・阿波の返還と毛利氏が求める伊予の割譲を軍事的に実現させる方向に向かわせることになったとみられる。

1585年(天正13年)5月4日、秀吉は黒田孝高に四国攻めの先鋒として淡路に出るよう命じ、また一柳直末には明石で待機するよう命じた。

8日、秀吉は四国出陣の準備として、羽柴秀長に対して和泉・紀伊の船舶の数を調査するよう命じた。

また同日紀伊の国人白樫氏・玉置氏に対しても四国攻めの準備と船の手配を命じた。

これに従って秀長は翌9日、船数調査の実施と紀伊・和泉の船を同月27・28日までに紀ノ湊(現和歌山市)へ集結させることを命令している。

6月、秀吉は四国への出陣を決定し、淡路から阿波・備前から讃岐・安芸から伊予の三方向から四国への進軍を命じた。

当初秀吉は6月3日を四国出陣の日に予定していたが、越中の佐々成政がなお健在であり、また病を得たため自身の出馬を諦め、代わって弟の羽柴秀長を総大将、副将を甥の羽柴秀次と定めた。

6月16日、秀吉は岸和田城に在陣しつつ、秀長以下の諸将を四国へ侵攻させた。

元親は、この年の春より秀吉の侵攻に備え土佐勢6,000を含む2万から4万の軍勢を動員した。

5月には四国4ヶ国の境にあり各方面と連絡が取れる阿波西端の白地城に元親の本陣を置き、全軍を督戦した。

また羽柴方が阿波方面から侵攻することは長宗我部側も予測しており、阿波諸城に重臣らを配置して防備を固めていた。

また讃岐でも植田城(現高松市)を築いた。

この戦いの最中の7月、秀吉は関白に就任した。

以後、四国攻めは天下平定戦争の一環という色合いを強める。

宇喜多秀家率いる備前・美作の兵に加えて播磨から蜂須賀正勝・黒田孝高、さらに仙石秀久が加わり計2万3000(1万5000とも)の軍が屋島に上陸した。

秀家等はまず200の長宗我部軍が守る喜岡城(当時の高松城)を攻略して高松頼邑を討ち取り、香西城・牟礼城を攻略した。

しかし、戸波親武の守る植田城の守りの堅さを見てとった孝高はこれを放置して阿波攻撃を優先することを主張したため、他の諸将もこれに同意して大坂越えより阿波に入り、秀長軍との合流を図った。

この転進について山本は「元親の防衛策は早くも失敗したのである」と述べている。

毛利輝元配下の中国8ヶ国の軍勢は、3万から4万(2万5,000とも)に達した。

輝元は備後三原に残り、6月下旬に三原及び安芸忠海の港を発し、同月27日に小早川隆景の第一軍が今治浦に上陸した。

続いて7月5日、吉川元長・宍戸元孝・福原元俊らの第二軍が今治浦もしくは新間(新麻、新居浜)に上陸した。

その最初の攻撃目標は宇摩を支配する石川氏と、同氏家臣団の実力者である新居郡の金子元宅であった。

元宅は東伊予の実質的な指導者であり、長宗我部氏とは同盟関係にあった。

元宅は自らは高尾城に在城し、高峠城に当時8歳の主君石川虎竹丸を置いて近藤長門守以下800余の兵で守らせ、金子城には弟の対馬守元春を配した。

高尾城には土佐から派遣された長宗我部氏の援兵も籠城に加わった。

7月14日に中国勢は黒川広隆が守る丸山城(高尾城の出城)を攻略(丸山城の戦い)し、続いて15日から元宅と片岡光綱(長宗我部からの援軍)の籠る高尾城を包囲して17日には落城させた。

中国勢は続いて新居郡の高峠城を攻め、高峠城兵は石川虎竹丸を土佐に逃がしたのち野々市原(現西条市)にて迎撃、全滅した。

その結果、高峠・生子山・岡崎など新居郡の諸城はことごとく陥落し、金子氏の本拠地である金子山城を守っていた金子元春も敗走して同郡での抵抗は終息した(以上、いわゆる伊予に於ける天正の陣)。

金子元宅の嫡男の毘沙寿丸は土佐へ落ち延びて長宗我部元親の庇護を受けた。

中国勢はさらに東進して土佐勢の妻鳥氏が守る宇摩郡川之江の仏殿城を攻略中の25日に元親が降伏し、講和となった。

この頃には南伊予の長宗我部勢も撤退した。

東予二郡の制圧後、中国勢は進路を西に転じ、周敷・桑村・越智・野間・風早郡を制圧して道後平野に達し、8月末には河野通直の湯築城が攻囲され、隆景の薦めにより開城し通直は道後の町に蟄居した。

隆景配下の桂元綱は喜多郡の諸将を攻め、帰順させた。

西園寺公広・大野直昌は隆景の元に赴いて降伏し、大野直之・曾根宣高らは捕らえられ、伊予全域の制圧が完了した。

羽柴秀長率いる大和・和泉・紀伊の軍勢3万は6月16日に堺から船出し、海路洲本に至る。

羽柴秀次率いる摂津・近江・丹波の兵3万は明石から淡路へ渡り、両軍は福良(現南あわじ市)で合流して大小800余艘の船団で阿波の土佐泊へ上陸した。

対する長宗我部方は木津城に東条関兵衛、牛岐城に香宗我部親泰、渭山城に吉田康俊、一宮城に谷忠澄・江村親俊、岩倉城に比江山親興、脇城に長宗我部親吉をそれぞれ配した。

秀長の軍は阿波上陸後、まず木津城を攻撃した。

八昼夜にわたる攻撃の上に蜂須賀正勝によって水の手も絶たれたため、城将の東条関兵衛は秀吉方についた叔父の東条紀伊守の説得に応じて開城した。

関兵衛は土佐へ退いたが、立腹した元親によって切腹させられた。

双方が主力を投入した阿波の戦いだが、戦力を伊予・讃岐にも分散せざるを得なかった長宗我部方の劣勢が明らかとなった。

牛岐城の香宗我部親泰、渭山城の吉田康俊は木津落城を聞いて城を捨てて逃れ、残る長宗我部方の拠点は一宮・岩倉・脇の三城のみとなった。

この頃秀吉は自ら出陣する意思を示し、7月3日にはその先鋒が淡路に達した。

しかし秀長は秀吉の出陣を諌止し、自ら一宮城攻撃の指揮を執り、秀次に脇・岩倉城攻めを任せた。

秀長は7月19日付の小早川隆景に宛てた書状で、一宮・脇城攻めの近況を報告している。

9,000(または5,000)とされる一宮城兵は善戦したが、筒井定次・藤堂高虎・蜂須賀正勝・増田長盛など5万の秀長勢に兵糧を絶たれ、また城への坑道を掘り水の手を断つという寄手の奇策もあって、7月中旬には開城した。

前後して脇・岩倉城も秀次・黒田・蜂須賀勢らによって陥落し、東の秀長・秀次勢、西の中国勢で元親の白地城を挟撃する態勢となった。

元親は、一度も決戦せずに降伏するのは恥辱であり、たとえ本国まで攻め込まれても徹底抗戦すると言い、また降伏を勧めた谷忠澄を罵倒し、腹を切れとまで言っている。

しかし忠澄を始めとする重臣らの説得を受けて、元親も最後には折れ、7月25日付の秀長の停戦条件を呑んで降伏した。

交渉に当たっては蜂須賀正勝が仲介を務め、8月6日までには講和が成立した。

講和の条件は、長宗我部氏に土佐一国安堵、長宗我部家当主が毎回兵3000を率いて軍役を務めること、人質の提出、徳川家康との同盟禁止とされている。

これに従い、長宗我部氏は阿波・讃岐・伊予を割譲した。

8月23日、秀長は戦後処理を終えて大坂に帰還した。

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