【生誕地】 幽州涿郡
【生誕】 不明
【死没】 221年6月
【字】 益徳
【諡号】 桓侯
【主君】 劉備
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[sangokushi-1]概要 (説明はWikipediaより)
中国後漢末期から三国時代の蜀の将軍、政治家。
字は益徳。
幽州涿郡(現・河北省涿州市)の人。
『三国志』蜀志に伝がある。
封号は新亭侯、のち西郷侯。
諡は桓侯。
子は張苞・張紹・敬哀皇后張氏・張皇后。
孫は張遵。
後漢末の群雄の1人である劉備の挙兵に当初から付き従った人物で、その人並み外れた勇猛さは中原に轟いた。
その武勇は後世にも称えられ、小説『三国志演義』を始めとした創作作品でも多くの脚色を加えて取り上げられており、現在でも中国や日本を中心にその人柄を大いに親しまれている。
同郡に住む劉備が黄巾の乱に臨んで義勇兵を集めようとした時(188年)、他所から流れてきた関羽と共にその徒党に加わり、身辺警護を務める事と成ったが、この時の年齢は「少」であった。
以後は関羽と共に劉備から兄弟のような親愛の情を受けることとなり、大勢の前では劉備を主君として立て、命がけで護衛の任務を務めたという。
また、関羽の方が数歳年長であったため、関羽を兄のように敬愛して仕えていた。
やがて劉備が公孫瓚に採り立てられて平原郡の相となると、関羽と共に別部司馬に任じられ、それぞれが一軍の指揮を執る将となった。
興平元年(194年)、劉備は身を寄せていた徐州で、徐州牧の陶謙に位を譲られて徐州牧となった。
建安元年(196年)、劉備が徐州に侵攻した袁術と戦っている最中、張飛は本拠地である下邳の留守を任されていたが、そこで下邳の相曹豹と対立した。
劉備に身を寄せていた呂布が、劉備と袁術が1カ月睨みあっている隙に下邳を攻撃すると、曹豹が寝返り呂布に呼応したため、張飛は敗北し、劉備の妻子を捕虜にされてしまった。
劉備と呂布は一旦は和睦した。しかし再び仲違いを起こし、劉備は曹操の元に身を寄せた。
張飛は曹操の呂布討伐に劉備と共に従軍し、その戦いでの功績を認められ、許に戻ったときに曹操から中郎将に任命された。
その後、劉備が曹操に背き、袁紹・劉表に相次いで身を寄せると、それにも付き従って、各地で転戦した。
建安5年(200年)、薪を伐採していた夏侯覇の13-14歳の従妹を、張飛は捕えて妻とした。
後に女児を産んだ。
[sangokushi-2]建安13年(208年)、荊州牧の劉表が死去し、曹操が荊州へ進軍すると劉備は江南へと逃げた。
曹操は昼夜をかけてこれを追い、当陽県の長坂まで到着した。
劉備は曹操がやってきたと聞くと妻子を棄てて逃走し、張飛は20騎ほどを従えて殿軍を引き受けた。
張飛は川に拠って橋を落とし、目を怒らせ矛を横たえて「燕人(えんひと)張飛、これにあり!俺と勝負したい奴はいるか!」と曹操軍に向け大喝一声したところ、誰もあえて近づこうとしなかった。
これによってついに劉備は落ち延びることができた(長坂の戦い)。
劉備が赤壁の戦いの後、荊州南部を攻略すると、張飛は宜都太守・征虜将軍に任命され新亭侯に封じられた。
しばらくして張飛は南郡に転任することになった。
建安16年(211年)、劉備が劉璋に招かれて益州入りした(劉備の入蜀)。
建安17年(212年)、劉備が法正らと謀って益州攻略を企てると、張飛は諸葛亮・趙雲・劉封らと共に援軍として益州に攻め込み、手分けして郡県を平定した。
江州では巴郡太守の厳顔を生け捕りにした。
このとき、張飛は自身が大軍でやってきたのに、厳顔が少数で抗い、降伏しなかったことに腹を立て、厳顔を詰問した。
厳顔は「お前達は無礼にも、我が州(益州)に武力をもって侵略した。我が州には断頭将軍(首をはねられる将軍)はいても、降伏する将軍はおらぬ」と張飛を面罵した。
腹を立てた張飛は、部下に彼の首を切らせようとしたが、厳顔がそこでさらに「匹夫め、さっさと斬れ!怒るだけ無駄だ」といったので、張飛は厳顔を見事だと思い彼を釈放し、以後は賓客として扱った。
張飛は劉璋軍との全ての戦いで勝利し、成都で劉備と落ち合った。
劉備は益州奪取における張飛の功績を評価し、諸葛亮・法正・関羽と同等に金五百斤・銀千斤・五千万両・綿千匹の褒賞を与えた。
張飛は巴西太守に任じられた。
建安20年(215年)、曹操は漢中の張魯と戦って降伏させると、配下の夏侯淵と張郃に漢中を守備させた。
張郃は巴東、巴西に攻め込みその住民を漢中に移住させた。
その後さらに渠宕・蒙頭・蕩石に軍を進めたところ張飛に拒まれ、張飛は、張郃の軍と50日あまり対峙した後、精鋭の1万人ほどを率い山道の隘路を利用し、迎え撃つ作戦を立てた。
張郃は狭い山道の中で軍が前後で間延びしたために各個撃破され、たった数十人の部下と共に脱出する羽目になった。
張飛は張郃の軍を撃退することに成功し、これにより巴の地は安寧を取り戻した。
建安22年(217年)、張飛は劉備の漢中攻略戦に従軍し、下弁方面での作戦に馬超・呉蘭らと共に参加したが、曹洪・曹休らに阻まれ、目立った戦果を挙げることなく撤退した(『三国志』魏志「武帝紀」及び「諸夏侯曹伝」)。
建安24年(219年)春、劉備が漢中を攻略すると、成都に政庁を置くことにしたため、前線の漢中の守備を誰に任すべきかということになった。
周囲は張飛が任されるものと思い、張飛自身もそう考えていた。
しかし劉備は魏延を抜擢した。
盧弼によれば、張飛はその暴虐な性格によって兵卒から嫌われていたので、漢中の守備から外されたのだという。
同年秋、張飛は他の群臣達と共に劉備を漢中王に推挙した。
劉備が漢中王になると、張飛は右将軍・仮節に任命された。
[sangokushi-3]章武元年(221年)、劉備が即位し蜀(蜀漢)を建国すると、張飛は車騎将軍兼司隷校尉に任命され、西郷侯に昇進した。
同年、劉備が呉に対して侵攻することになると、張飛は1万の兵士を率いて閬中を出発し、江州で劉備と合流することになった。
その準備をしている最中である同年6月、恨みを抱いていた部下の張達・范彊に殺された。
劉備はかねてより張飛が死刑を頻繁に行い、鞭打ちした部下を自分の近侍として仕えさせていることを戒めていたといい、この時張飛の都督から上奏文が届けられたと聞くと、その内容を聞く前に「ああ、(張)飛が死んだ」と悟ったという。
長男の張苞は若死していたため、次男の張紹が跡を継いだ。
景耀3年(260年)秋、劉禅によって桓侯と諡された。
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