【生誕地】 荊州襄陽郡
【生誕】 不明
【死没】 天紀4年(280年)
【字】 巨先
【主君】 孫休 → 孫晧
無料の動画を楽しみましょう♪(↓をクリック)
YouTube responded with an error: Permission denied: Consumer 'api_key:AIzaSyCDrKuaF8iycbq8AoHMuLngEmpnFFM7Tq8' has been suspended.
[sangokushi-1]概要 (説明はWikipediaより)
中国三国時代の呉の政治家・武将。
字は巨先。
荊州襄陽郡の人。
若くして道理にかなった人物として知られ、孫休の時代に屯騎校尉となった。
幼少の頃、諸葛靚の一族で、後に丞相となる人物(諸葛恪)から抜擢されたという。
[sangokushi-2]魏の司馬昭が蜀漢討伐の兵を起こすと、張悌は必ず司馬氏が勝利すると皆に語った。
呉の人々は張悌の言葉を笑ったが、果たして蜀は魏に降伏した(蜀漢の滅亡)。
建衡元年(269年)、陸凱は亡くなる直前、国の支えとなる人物の一人として張悌の名を挙げている。
孫晧の時代には軍師となった。
279年、丞相に昇進し、その直後に呉は晋の侵攻を受けた。
張悌は孫晧の命を受け、沈瑩・諸葛靚らと共に3万の軍勢を率い、晋軍の長江渡河を迎撃しようとした。
沈瑩は「河を渡って戦えば、勝てたとしてもこの地を維持するのは難しい。また、敗北すれば国家の危機は決定的となる。今は渡るべきでない」と言った。
だが、張悌は「呉が滅びかかっているのは賢者でも愚者でも知っている。このまま敵の進撃を許せば、不安になった兵が逃散し、戦わずして降伏せねばならない。国難において死ぬ者が一人もいないのは、国の恥ではないか」と言って長江を渡り、王渾率いる晋軍に決戦を挑んだ。
[sangokushi-3]しかし、呉軍は敗北し壊滅した。
諸葛靚は使者を送って張悌に退却を勧めたが、張悌はその場を動かなかったという。
このため、諸葛靚は自ら張悌の元に赴き再度退却を促したが、張悌は「身を以て国に殉ずることができるならば、どうして避けたりしようか」と言ってこれを退け、乱戦の中で戦死した。
[sangokushi-4]張悌(最新無料動画を楽しみましょう♪)
[sangokushi-sita]