【生誕地】 豫州沛国譙県
【生誕】 初平3年(192年)
【死没】 太和6年11月28日(232年12月27日)
【字】 子建
【主君】 曹操→曹丕
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[sangokushi-1]概要 (説明はWikipediaより)
中国後漢末期から三国時代にかけての人物。
字は子建(しけん)。
魏の皇族。
豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。
陳王に封じられ、諡が思であったことから陳思王とも呼ばれる。
唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた。
才高八斗(八斗の才)・七歩の才の語源。建安文学における三曹の一人。
曹操の五男で、生母は卞氏。
異母兄は曹昂・曹鑠。
同母兄は曹丕(文帝)・曹彰。
同母弟は曹熊。
妃は崔氏(崔琰の兄の娘)。
子は曹苗・曹志。
娘は曹金瓠(夭折)・曹行女(夭折)。
曹昂・曹鑠が早世すると、建安2年(197年)頃に卞氏が正室に上げられ、曹植は曹操の正嫡の三男となった。
幼い頃より詩など数十万言を諳んじた。
群を抜いて文章に異才を放つ彼を怪しんだ曹操は「誰かに代筆を頼んだのか」と尋ねた。
これに対し曹植は「言出ずれば論と為り、筆を下せば章を成す。顧だ当に面試すべし。奈何ぞ人に倩わんや」といい、曹操に特別寵愛された。
建安16年(211年)、平原侯(食邑5000戸)に封じられた。
[sangokushi-2]曹植は礼法に拘泥せず、華美を嫌い、酒をこよなく愛し、闊達さと奔放さを合わせ持った天才肌の貴公子であった。
ただし少々それが行き過ぎてしまうこともあり、天子の専用通路(司馬門)を勝手に通ってしまい、曹操を激怒させてしまったこともあった(このことは相当な禍根となったようで、後々まで曹操はそれを嘆いた)。
詩人としてのみならず、実際には父の遠征に従って14歳から従軍し、烏桓遠征・潼関の戦い・張魯征討など数多くの戦役に従軍しており、兄たちと同じく戦場で青年時代を送っている。
建安19年(214年)には臨淄侯に転封された。
この頃より詩・賦の才能がさらに高まり、さらに曹操の寵愛が深くなった。
同時に曹丕との後継争いが勃発した。
曹植には楊修・丁儀・丁廙・邯鄲淳・楊俊・荀惲・孔桂・応瑒・応璩らが側近としてつき、曹丕には東曹の人がつくようになり、彼らよりもそれぞれの側近たちの権力闘争といった様相が強かったが、建安22年(217年)に正式に曹丕が太子に指名されると、以降は曹植と側近者たちは厳しく迫害を受けることになった。
建安25年(220年)に曹操が没すると側近が次々と誅殺され、黄初2年(221年)には安郷侯に転封、同年の内に鄄城侯に再転封、黄初3年(223年)にはさらに雍丘王(食邑2500戸)、以後浚儀王・再び雍丘王・東阿王・陳王(食邑3500戸)と、死去するまで各地を転々とさせられた。
[sangokushi-3]この間、皇族として捨扶持を得るだけに飽き足らず、曹丕と曹叡(明帝)に対し幾度も政治的登用を訴える哀切な文を奉っている。
特に曹叡の治世になると、親族間の交流を復することを訴える文章が増えた。
曹叡は族父の曹植を起用しようとしたが、讒言で断念した。
その後も鬱々とした日々を送り、太和6年(232年)11月28日、「常に汲汲として歓びなく、遂に病を発して」41歳で死去。
子の曹志が後を継いだ。
曹植は中国を代表する文学者として名高いが、詩文によって評価されることをむしろ軽んじていた節がある。
側近の楊修に送った手紙では「私は詩文で名を残すことが立派だとは思えない。揚雄もそう言っているではないか。男子たるものは、戦に随って武勲を挙げ、民衆を慈しんで善政を敷き、社稷に尽くしてこそ本望というものだ」と語っており、曹丕が「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」(『典論』論文より)と主張しているのとは、好対照である。
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