【生誕地】 不明
【生誕】 不明
【死没】 景初3年1月1日(239年1月22日)
【字】 元仲
【諡号】 明皇帝
【廟号】 烈祖
【主君】 曹操→曹丕→曹叡

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概要 (説明はWikipediaより)

三国時代の魏の第2代皇帝。

文帝曹丕の長男。

生母は甄氏。

延康元年(220年)、数え15歳で武徳侯、翌年に斉公、黄初3年(222年)には平原王に封ぜられた。

16歳の時、母の甄氏は父の文帝に誅殺された。

当初、文帝は曹叡を好まず、他の夫人(徐姫)の子供である京兆王曹礼を後継ぎにしたいという気持ちをもっていた。

そのため曹叡は長期間太子になれなかった。

黄初7年(226年)に文帝が病床で重体に陥ってから、皇太子に立てられた。

母の甄氏が曹丕の勘気に触れて死を賜っていたこともあり、即位以前の曹叡は公の場に出ることが少なく、曹叡の人物を知る者は司馬懿など限られた人々しかいなかったという。

黄初7年(226年)5月、文帝が崩御すると皇帝に即位した。

即位後、ただちに母の甄氏に皇后の位を追贈し、文昭皇后と諡した。

同年、呉の孫権が江夏を攻撃した。

群臣は兵を出して救援しようと意見したが、明帝は「水戦に習熟した孫権が敢えて陸戦を行っているのは、奇襲を狙ったからである。

しかし文聘が江夏を固守しているため、戦線は既に膠着状態に陥っており、長く留まりはしないだろう」と推測した。

明帝に派遣された治書侍御史荀禹が前線を慰労し、山に登って火を挙げると、孫権は撤退した。

しかし孫権は孫奐率いる別働隊によって魏軍の退路を封鎖したため、江夏郡の高城が奪われた。

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227年、麹英が西平で反乱を起こすと、郝昭らを派遣し鎮圧した。

12月には新城太守の孟達が蜀漢の諸葛亮と内通して反乱。

司馬懿が鎮圧に当たり翌月には早くも孟達を斬った。

228年、正月には諸葛亮が祁山に進出すると曹真、張郃を派遣して当たらせ、街亭の戦いにおいて打ち破り、諸葛亮の北伐は全て敗北した。

その後の2月には論功行賞のため長安へ行幸した。

同年、孫権の謀略によって偽りの内通をした呉の周魴の誘いに乗った曹叡は曹休に10万の兵を与えて呉を攻撃させ、全ての関西の守備軍(雍・涼など)を派遣して江陵に攻撃させ、賈逵らに命じて東関に出撃させる。

皖や江陵や濡須東関のルートから一斉に侵攻する大規模なものであったが、司馬懿・張郃らは江陵城を落とすことができず、曹休の大敗によって犠牲者も数万人以上となり、呉への三方面侵攻は全て敗北した。

その直後、諸葛亮は曹休の大敗や関西の手薄に乗じて二度目の北伐を行い、率いる数万人が陳倉城を攻囲した。

曹真が侵攻路を想定して陳倉城の強化を行わせており、守備を任されていた郝昭は曹真の命を厳格に守ったため、一千人程度のわずかな軍隊で諸葛亮の軍勢を寄せ付けず、頑健に防衛した。

二十日余りの包囲した後、諸葛亮は陳倉を落とせないまま兵糧が底をついてしまい、魏の援軍も迫ったので撤退した。

王双(223年に朱桓に敗れて生け捕られた)が諸葛亮軍を追撃したが、反撃に遭って戦死した。

同年、賈逵らに命じて再度呉領の濡須へ侵攻するも敗北した。

孫権・諸葛亮によって、以後数度にわたる侵攻が開始されると、皇族の曹真や司馬懿・張郃など祖父の曹操以来の宿老達を用いて、これらを防がせた。

また第一次北伐時には親征して長安方面の動揺を鎮めている。

229年、諸葛亮は第3次の北伐を行い、武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。

雍州刺史の郭淮が救援に向かうが、諸葛亮が退路を断つ動きを見せると撤退したため、陳式は無事に武都・陰平の2郡を占拠した。

230年、大司馬となった曹真は曹叡に対し、蜀を征伐することの必要性を説き、これを認められた。

同年8月、長安を出発し子午谷より蜀に攻め入った。

この作戦は、荊州方面の司馬懿に漢水を遡って漢中の南鄭を攻撃させるなど、蜀への二方面侵攻だった。

しかし秋の長雨が30日続き、桟道が一部崩壊するなどしたため失敗した。

曹叡は曹真に命令し撤退させた。

同年、孫権の謀略で偽りの投降をした呉の孫布を迎えに行くために魏軍が出兵するも、孫権に大敗した。

231年、諸葛亮ら蜀軍は第4次の北伐を行い、曹叡は杜畿らを派遣し司馬懿に加勢させた(祁山の戦い)。

諸葛亮らは三千人の魏軍を斬るが兵糧不足で撤退し、追撃を行った張郃が射殺された。

司馬懿は蜀軍の陣地を破り、万余人を追撃して斬り、蜀軍を大破した。

232年以降、田豫や王雄に命じ遼東に対して何度か軍事行動を行なうと、蔣済は信義を失うべきではないと批判した。

曹叡は諫言を受け入れず、結局、曹叡の侵攻は失敗して帰還した。

青龍元年(233年)、曹操の廟庭に夏侯惇、曹仁、程昱の3人を功臣として祭った(その他の功臣は曹芳の代に21人、曹奐の代に1人を追加して祭られている)。

尚、251年に司馬懿が死去すると、特別扱いとしてすぐ曹操の太祖廟の功臣に加えられた。

その際、官位の高い者順に並べ替えるべきとの意見が出され、司馬懿が太祖廟功臣の最上位にされた。

234年、呉・蜀漢が同時に魏に侵攻し、呉は合肥・襄陽・祁山を攻撃した。

士気の高い呉軍が合肥を包囲したため、魏軍が苦戦に陥っていた。

これを恐れていた満寵は「合肥の守備は放棄し、孫権を寿春で迎え撃つ」という計画を立てた。

それに対して曹叡は「合肥・襄陽・祁山は魏の重要な防御拠点であり、敵は決して落とす事が出来ない。

私が軍の指揮を執って合肥へ討って出る故、諸将に堅守させよ」との詔を出して計画を改めさせ、中央朝廷の大軍の指揮を自ら執り、合肥へ親征した。

守将の張穎らの前に攻めあぐね、満寵の奇襲攻撃を受け、呉軍は依然として頑強に猛攻した。

魏の援軍が迫ったので、孫権は大損害を受ける事を避けて、曹叡の中央軍が戦場に到着する前に合肥から無事に撤退した。

一方で陸遜と諸葛瑾は襄陽から撤退の途上、白囲まで来たところで、表向きは狩猟をすると偽って奇襲の準備をし、将軍の張梁と周峻に命じて江夏の新市・安陸・石陽を急襲させ、魏軍千余人を斬った。

特に石陽の人々は油断していたため、動揺した魏の将は城内に避難しようと殺到する多くの民を殺害した上でやっとのことで城門を閉ざすことが出来た有り様であり、数千人が斬られる大損害を受けた。

結局魏領の安陸・石陽城は陸遜と諸葛瑾らに攻め落とされた。

また、五丈原で諸葛亮と対峙する司馬懿には、「決戦を回避して持久戦に持ち込み、撤退時には追撃するべし」との詔を出し、防衛の成功に貢献した。

結局、司馬懿は蜀軍を破り、五百余首級を斬り、千余人を捕虜にし、降伏者も六百余人という戦果を挙げた。

景初元年(237年)には七廟の制を整備するとともに、祖父の武帝曹操・文帝に対して太祖・高祖の廟号を定めるとともに、自身の廟号を烈祖と定めた。

同年、呉の孫権が朱然率いる2万の兵を派遣して江夏に侵攻して来るが、荊州刺史の胡質はこれを攻撃し、朱然を撤退させる。

魏軍はそのまま追撃を続けたが、殿軍の朱然彼800人が逆撃し、魏軍の追撃を大いに破ったので、相次いで魏の大軍を敗走させる(魏志「明帝紀」、なお呉志「朱然伝」では242年の出来事としている)。

景初2年(238年)、遼東の公孫淵が燕王を自称して魏に対する謀反を起こすと、明帝は群臣の反対を押し切って征討を決行した。

司馬懿の判断を信用し、全権を委ねて鎮圧に当たらせた結果、反乱の早期鎮圧に成功した。

孫権は部将達を公孫淵への援軍として遼東に派遣するも既に公孫淵が戦死していたため、彼等は魏軍を破り、遼東の男女を連れて帰国した。

同年、蜀漢の廖化が攻めよせると、郭淮が游奕と王贇を率いて対応したが、明帝は郭淮の兵力分散策の危険性を懸念した。

明帝の予測は的中し、游奕は敗北し、王贇は戦死した。

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遼東制圧が完了した前後、首都洛陽にあった曹叡は病によって重篤に陥り、登女という巫女の言う神を信じて神水を求めたりするなど失態が目立った。

神水を飲んでもよくならなかったので、登女も処刑された。

死期を悟った曹叡は曹宇を大将軍とし、夏侯献・曹爽・曹肇・秦朗と共に曹芳を補佐させようとした。

しかし夏侯献と曹肇は共に、劉放・孫資が政治の中枢にあることを不満であるかのような発言をしたことがあった。

また曹宇は謙虚な性格であったため、これを固辞した。

これを受けて曹叡は側近の劉放と孫資を寝室内に招き入れて相談し、孫資・劉放らは曹宇・夏侯献・曹肇らの登用を快く思わずに曹叡に讒言し、曹宇に代えて曹爽を登用すべきだと勧め、さらにその補佐として司馬懿を当たらせるよう進言した。

曹叡は劉放と孫資の言に従い、曹爽と司馬懿を用いようとしたが、途中で考えを変え、勅令によって前の命を停止させた。

すると、劉放と孫資が再び入宮してに曹叡に謁見し、再び讒言で改めて説得した。

曹叡がまた二人の意見に従うと、劉放が「手詔(直筆の詔書)を為すべきです」と言った。

曹叡は「私は病が篤いのでできない」と言うと、劉放はすぐ寝床に登り、曹叡の手を取って無理に詔書を書かせた。

完成するとそれを持って退出し、大言で「詔によって燕王・曹宇らの官を免じる。宮中に留まってはならない」と宣言した。

曹宇らは解任され、最終的に司馬懿・曹爽らを後見人に改めて立て、曹宇・夏侯献・曹肇・秦朗らは皆、涙を流して宮中から出て行った。

曹叡は景初3年(239年)1月に崩御し、高平陵に葬られた。

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