【生誕地】 益州建寧郡兪元県
【生誕】 不明
【死没】 建興9年(231年)
【字】 徳昂
【主君】 劉璋→劉備→劉禅

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概要 (説明はWikipediaより)

中国後漢末期から三国時代の武将、政治家。

字は徳昂。

益州建寧郡兪元県の人。

子は李遺(または李蔚)。

甥は李球。

『三国志』蜀志に伝がある。

建寧郡の督郵を務めていた時、建伶県令であったおばの夫の爨習が罪を犯したため、連座して免職となりかけた。

だが太守の董和は、爨習が豪族出身であったことを理由に罪を許し、李恢の免職を認めなかった。

その後、董和は李恢を州に推挙した。

なお爨習は孟獲の反乱に同調したが、諸葛亮の南方征伐を受けて帰順し、行参軍・偏将軍となり次いで領軍となって北伐にも加わっている。

ちょうどその頃、劉備は劉璋を攻撃するために葭萌城から出陣した(劉備の入蜀)。

李恢は劉備が勝利すると考え、郡の使者と称して綿竹に赴いて劉備と対面した。

劉備は李恢を気に入ったので雒城まで伴わせ、張魯の下にいた馬超を味方に引き入れるよう命じた。

まもなく馬超は劉備に投降した。

劉備が成都を降し益州を手に入れると、李恢は功曹書佐主簿に任じられた。

ある時、李恢は謀反の罪ありとして誣告されたが、劉備は事実無根であることを明らかにした上で、別駕従事に昇格させた。

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221年、庲降都督の鄧方が死去した。

誰を後任にすべきか劉備が李恢に問うと、李恢は 「人間には長所と短所があり、それゆえ孔子は『人を用いるには、その能力に応じた使い方でなければならない』と申しております。そして、明主が上にあれば臣下は情を尽くします。このため、先零の役において趙充国は自分を推薦したのです」と答えた。

劉備はこの返答を気に入り、李恢を庲降都督・使持節・交州刺史とした。

223年に劉備が死去すると、南中で高定・雍闓・朱褒が反乱を起こした。

224年、諸葛亮は呉に使者を送って友好関係を回復させた上で、225年に自ら兵を率いて南中へ親征した(「後主伝」)。

李恢は諸葛亮に従って南征に参加し、別働隊を任された。

昆明で倍の兵に囲まれたが計略を用いて撃破し、逃げる敵を追って牂牁郡まで至った。

この功により、安漢将軍・漢興亭侯となった。

諸葛亮が去った後、南中では再び異民族の反乱が起きたため、李恢は兵を率いて反乱を鎮圧した。

また、南中の有力者たちを成都に送り、牛馬・金銀などの貢物を納入させたので、一時的に軍事費は大いに潤った。

229年、交州は呉に従属したので、交州刺史を解任され建寧太守となった。

その後漢中に移り、231年に死去した。

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小説『三国志演義』では、馬超を降伏させた功績が大きく取り上げられており、弁舌の士として描かれている。

民間伝承では、李恢の子の李蔚(架空人物)が関索の妹(関羽の三女)を妻に迎えており、諸葛亮が李恢を派遣して南中へ進攻した際、李蔚夫婦は関索とともに先鋒となって反乱を平定している。

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