【生誕地】 徐州下邳国淮浦県
【生誕】 不明
【死没】 不明
【字】 元龍
【主君】 陶謙→劉備→呂布→曹操

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概要 (説明はWikipediaより)

中国後漢末期の武将、政治家。

字は元龍。

徐州下邳国淮浦県(現在の江蘇省淮安市漣水県)の出身。

父は陳珪。

兄弟は陳応。

子は陳粛。

『三国志』魏志「呂布伝」とそれが引く『先賢行状』などに記述がある。

誠実であり思慮深く、文学的才能にも秀でていたため、25歳で孝廉に推挙され、東陽県長となった。

老人を労わり、孤児を養育するなど、民衆のためになる統治を行なった。

その後、飢饉が勃発すると、陶謙に推挙されて典農校尉となり、どのような作物がその土地に育つのかよく調べ、堀を造り灌漑を整備したので、稲が豊かに実り貯えられた。

陶謙の死後は劉備に仕えた。

このとき、陶謙の後継となることを躊躇する劉備に対し、積極的に徐州の主となるよう勧めたという(「先主伝」)。

後に、徐州が呂布によって奪取されると呂布に仕えた。

しかし、陳登は父と同じく密かに呂布を嫌っていたという。

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袁術が呂布と縁組を結ぼうと韓胤を遣わして来た時、当初は乗り気であった呂布を父が説得し、袁術と絶縁させた。

また、韓胤を捕らえて曹操の下へ送り、斬らせている。

陳登は呂布に曹操と結ぶよう勧めた。

呂布は乗り気ではなかったが、曹操が朝廷に働きかけ呂布を左将軍に任じさせると、喜んで使者の派遣に同意した。

使者として赴いた陳登は、曹操に対し「呂布を早く滅ぼすべき」と進言した。

これを聞いた曹操は陳珪父子に信頼を寄せるようになり、陳登を広陵太守に任命し、密かに徐州の安定を委ねた。

呂布は、自身が徐州牧に任じられることを期待していたが、陳登だけが官職を得て戻ってきたことから不審を抱いた。

しかし陳登は呂布を鷹に例えて誉めそやし、気持ちを抑えさせたという。

呂布が袁術軍の張勲率いる大軍に攻められた時は、袁術軍の内部分裂の可能性を予見し、それを父に伝えた。

父はそれを受けて呂布に対し、袁術の同盟軍である楊奉・韓暹を味方に引き込む策略を提案した。

呂布がこの策略を実行し、楊奉・韓暹を味方に引き込んだため、呂布軍は大勝することができた。

陳登の統治下、広陵の治安が安定したため、陳登は人々に畏怖・敬愛された。

また陳矯を功曹に採り立てた(「陳矯伝」)。

当時、陳登は傲慢で自惚れていると思われることが多かったようで、陳矯を許に遣わした時、都での自らの評価を観察し教えてほしいと依頼したことがあったという(「陳矯伝」)。

曹操が呂布を攻めて下邳まで進軍してきた時、陳登は曹操に帰順して呂布討伐の先駆けを務めた。

呂布が籠る下邳城には陳登の弟3人がおり、呂布は彼等を人質として利用し陳登に圧力をかけた。

しかし陳登は屈することなく、呂布への包囲を次第に狭めていった。

まもなく城内から裏切り者が出て、陳登の弟らを連れて脱出した。

呂布が滅亡すると、その功績により伏波将軍となった。

呂布討伐後、陳登は長江・淮水流域で非常に人望が厚かったので、江南を併合する野望を抱くようになったという。

孫策とは呂布が健在であった頃から敵対関係であり、一族の陳瑀が揚州で孫策と戦ったが敗れている(「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』)。

まず、孫策が西上した隙を狙って、かつて呉郡の有力者であった厳虎の残党を扇動して、孫策に叛かせようとした(「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』)。

反乱を鎮めた孫策が報復として徐州に攻め込んできたが、孫策は孫権を派遣して匡奇城に進攻した、陳登は匡奇城に籠り、援軍要請の使者として陳矯を曹操の下へ派遣した。

孫策は江東で征伐準備をしている間、刺客に襲撃された際に負った傷が原因で急死した。

曹操の援軍が来て孫権軍が撤退すると、陳登はこれを追撃して、伏兵を多数設け孫軍配下の周章軍を大いに破った、10倍以上の敵を計略を用いて大いに壊滅した。(「陳登伝」「陳矯伝」が引く『先賢行状』。

陳登が敵軍を追撃した結果、この戦果は孫氏軍閥の総兵力を超えた。

『先賢行状』の正確性については批判的な評価が多い。

また『三国志』魏書国淵伝には「魏軍が賊軍を破った場合、それを報告する上奏文では、討ち取った首級・戦果を10倍に誇張して記載することが通例となっている」という旨の記述がある。)

孫策は許を急襲しようとして横死したとされるが、本当の標的は許ではなく陳登であったと孫盛は考察しており、裴松之も陳登が第一の標的であったとしている(「孫破虜討逆伝」が引く『異同評』)。

その後、東城太守に転任したが、広陵の民衆が陳登を慕い付いて行こうとしたため、陳登はこれを立ち戻らせたという。

39歳で死去した。

204年に夏侯惇が伏波将軍を拝命しているため、陳登の没年はそれ以前の可能性が高い。

時期は不明だが、まだ広陵太守であったころ、陳登は魚の膾を食し、それゆえ胃に寄生虫が湧いてしまったことがあった。

このときは華佗の投薬によって一度は治癒したが、華佗は3年後にこの病気が再発することを予言し、良い医者を側におくよう忠告した。

それから3年後、果たして病気が再発したが、そのとき既に華佗が不在であったため、陳登は病死してしまったという(「方技伝」)。

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劉備は荊州の劉表を頼ったとき、陳登を低く評価する許汜に対し、陳登のことを「文武と胆志を兼ね備えており、彼に匹敵する者を見つけることは難しい」と賞賛したという。

陳登もまた劉備を「傑出した雄姿を持ち、王覇の才略を備えている」と敬意を示したという(「陳矯伝」)。

曹操は後に、陳登の計略を早く採用せず、孫権を保護して長江の北まで支配させてしまったことを後悔したという。

後に魏帝国が成立すると、曹丕(文帝)は陳登の功績を思い起こし、子を郎中に採り立てたという。

小説『三国志演義』では一貫して親劉備の人物として描かれる。

陶謙配下の一人として劉備を後継に迎えようと尽力し、以後も父とともに劉備に忠義を尽くし続け、劉備の敵である袁術や呂布を徐州から排除するために策略を巡らす。

曹操の任命した車冑の殺害にも協力するが、曹操が劉備らを徐州から駆逐すると降伏している。

その後は、華佗の患者の一人として名だけが登場する。

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