【生誕地】 荊州南郡枝江県
【生誕】 不明
【死没】 不明
【字】 幼宰
【主君】 劉璋→劉備

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概要 (説明はWikipediaより)

中国後漢末期の武将・政治家。

荊州南郡枝江県の人。

字は幼宰。

子は董允。

孫の名は不詳。

曾孫は董宏。

『三国志』蜀志に伝がある。

先祖は益州巴郡江州県の出身だという。

後漢末期、一族を引き連れて益州へ移住した。

劉璋に取り立てられ、牛鞞県長・江原県長・成都県令を歴任した。

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董和は任地において法を厳格にし、自身も倹約に努めたため、奢侈に乱れた風俗は改まり、法を犯す者はいなくなった。

地域の有力者らは董和のやり方を嫌い、劉璋に董和を遠ざけるよう進言すると、董和は巴東属国都尉に転任が決まった。

しかし、領民は董和を慕っており、留任を乞う者が数千人に及んだことを受け、転任は2年間保留になった。

その後、益州太守に昇格となった。

清廉さと倹約ぶりは以前と変わらなかったという。

異民族とも協調したため、南方はよく治まった。

ある時、李恢のおばの夫である爨習は法を犯し、李恢も連座して免職となるところであった。

だが、董和は爨習が豪族出身であることを理由に罪を許し、李恢の辞職を認めなかった。

後に董和は李恢を州に推挙している。

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劉備が益州に入ると、董和は掌軍中郎将に任じられた。

諸葛亮と共に左将軍大司馬府の事務を担当し、仕事の無駄を省くと共に、諸葛亮と親しく付き合った。

内外の重職を務めること20余年、死去した際、家に財産は全く残されていなかった。

後に諸葛亮は董和を追慕し、部下の官吏に董和の仕事ぶりを見習うよう訓示した。

子の董允は費禕と並んで優秀であると評判だったが、董和は許靖の子の葬儀での一件から、董允より費禕の方が優れていると考えるようになったという。

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