【生誕地】 雍州安定郡臨涇県
【生誕】 不明
【死没】 太康9年(288年)2月
【字】 玄威
【主君】 曹髦→曹奐→司馬炎

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概要 (説明はWikipediaより)

中国三国時代末期から西晋にかけての武人。

魏・西晋に仕えた。

字は玄威。

雍州安定郡臨涇県の人。

父は胡遵。

兄に胡広。

弟に胡烈・胡岐。

子は男子・女子(胡芳)1人。

性格は明朗で、知略に優れ、若年から武事を好んだ。

景初2年(238年)、公孫淵の討伐に従軍。

下働きの身で司馬懿に侍従して厚遇され、遠征が終わると校尉に任じられた。

甘露3年(258年)2月、大将軍司馬(司馬師の属官)の官にあり、寿春で反乱した諸葛誕の包囲に参加。

進退窮まった諸葛誕が出撃すると、迎撃してこれを斬った。

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晋の時代に当たる泰始7年(271年)、匈奴の劉猛が反乱すると、胡奮は監軍・仮節に任じられ、討伐軍の後詰めとして硜北に駐屯した。

泰始9年(273年)、娘の胡芳が、司馬炎(武帝)の貴嬪(最高階の妃嬪)となった。

胡奮はこれを喜ばず、また一人息子が早逝していたこともあり、「男子は九地の下に入り、女子は九天の上に上ってしまった」と嘆いた。

咸寧2年(276年)2月、并州の蛮族が砦を侵犯したが、監并州諸軍事の官にあった胡奮がこれを防いだ。

咸寧3年(277年)9月には都督江北諸軍事となった。

咸寧5年(279年)11月、晋は大軍を挙げて呉の征伐を開始。

平南将軍の官にあった胡奮は夏口への進軍を命じられた。

太康元年(280年)2月には江安を攻略し、同年の呉降伏に貢献した。

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代々武門の家柄にあったが、長じてからは学問も好むようになり、文才も備えた。

各任地で功績を立て、辺境にあっては特に威厳と恩恵を広めた。

娘が後宮に入ったこともあり司馬炎の厚遇を受け、位は尚書僕射・鎮軍大将軍・開府儀同三司にまで昇ったが、その後ろ盾を頼みとすることはなかった。

楊皇后の父の楊駿が傲慢に振る舞うと、毅然とした態度でそれを咎めた。

太康9年(288年)に死去。

車騎将軍を追贈され、壮侯と諡された。

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