【生誕】 青龍4年(236年)
【死没】 太熙元年4月20日(290年5月16日)
【字】 安世
【諡号】 武皇帝
【廟号】 世祖

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概要 (説明はWikipediaより)

西晋の初代皇帝。

諡号は武帝。

魏から禅譲を受けて晋を建て、さらに呉を滅ぼして、分裂状態が続いていた中国をおよそ100年ぶりに統一した。

しかし統一後は政治への興味を失い、後の八王の乱の遠因を作った。

魏の有力者であった司馬昭と王元姫(王粛の娘)との間に長男として生まれた。

中撫軍などを歴任した。

若くして「寛恵にして仁厚、沈深にして度量あり」と評され、九品中正制度に基づく郷品を定める際、その出身地の河内郡では比較の対象者がいないというほどの貴公子であった。

そのため、祖父司馬懿や伯父司馬師の就いた官職を歴任した。

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咸熙元年(264年)に司馬昭が晋王になると、その後継者に指名された。

当初、司馬昭は三男の司馬攸を後継者にと考えていた。

これは司馬攸が司馬師の養子となっていたためであり、司馬昭は兄の方の家が司馬氏の正統と考えたからである。

しかし重臣の反対により、咸熙2年(265年)5月には司馬炎が正式に晋王の世子とされている。

同年8月に司馬昭が没すると、晋王・相国の位を継いだ。

同年12月には、賈充・裴秀・王沈・羊祜・荀勗・石苞・陳騫らと計って、元帝(曹奐)に禅譲を迫って皇帝の位を奪い、新王朝を「晋」と名付け、元号を泰始と改めた。

即位した翌年1月には、一族27人を郡王として各地に封じ、土地と兵力とを与えた。

これは魏が皇族に力と土地をあまり多く与えず、皇族の力が弱かったことが滅亡の原因となったと考えての対策であった。

泰始4年(268年)1月には泰始律令が完成している。

司馬炎の初期治世は重臣に多く学識と礼教を重んじる名望家を配したことと、西晋成立時に民心を得るために庶民への民爵の賜与を行なっていることが挙げられている。

また後漢や魏の皇族の任官禁止を解除し、曹植の子曹志や諸葛亮の子孫を任用するなど、後漢末期から魏にかけて戦乱で苦しんだ民情や心情などを考慮して皇族間の友愛、礼教に基づく国家構築などを行なおうとしていた。

咸寧5年(279年)11月から賈充・楊済をそれぞれ主将・副将として呉討伐の詔を発布し、東西から20万の大軍が大挙して呉を攻めた。

咸寧6年(280年)2月には晋軍が江陵を陥落させ、3月には石頭城が陥落して晋による統一を達成した(呉滅亡)。

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統一後の司馬炎は朝政への興味を失った。

また統一を達成したことにより平時体制に戻すとして、軍隊の縮小も実施された。

司馬炎の業績として特筆すべきは太康元年(280年)から始まった占田・課田法である。

司馬炎は女色にふけったことでも知られる。

統一以前の泰始9年(273年)7月には、詔勅をもって女子の婚姻を暫時禁止し、自分の後宮に入れるための女子を5千人選んだ。

さらに呉を滅亡させた後の太康2年(281年)3月には、呉の皇帝であった孫晧の後宮の5千人を自らの後宮に入れた。

合計1万人もの宮女を収容した広大な後宮を、司馬炎は毎夜、羊に引かせた車に乗って回った。

この羊の車が止まったところの女性のもとで、一夜をともにするのである。

そこで、宮女たちは自分のところに皇帝を来させようと、自室の前に竹の葉を挿し、塩を盛っておいた。

羊が竹の葉を食べ、塩をなめるために止まるからである。

この塩を盛るという故事が、日本の料理店などで盛り塩をするようになった起源とも言われている。

後漢末の混乱期から、匈奴・鮮卑といった異民族が中原の地に移住するようになり、従来の漢人住民と問題を起こすようになっていた。

侍御史の郭欽は、統一した機会にこれら異民族を辺境に戻すべきだと上奏したが、司馬炎はこれに聞く耳を持たなかった。

また、皇太子の司馬衷が暗愚であったため、衆望は司馬炎の12歳年下の同母弟で優秀だった斉王司馬攸の後継を期待していた。

ところが統一を果たした司馬炎は司馬攸に対して斉への赴任命令を出し、周囲の諫言を封殺した上に司馬攸を支持する派閥を徹底的に粛清した。

司馬攸はこの命令に憂憤し、太康4年(283年)に死去した。

この一連の迫害は、司馬炎は太子の司馬衷が無能で惰弱な性格であり、統一の5年前に洛陽で疫病が流行した際に司馬炎も重病に倒れたことが、司馬攸排除の動きにつながったとされる。

太康5年(284年)以降は天災が相次ぎ、日食もしばしば起きて人心は荒廃した。

晩年には政治の実権は皇后楊芷(最初の皇后であった司馬衷の生母楊艶の同族)の実父である楊駿に掌握されて、かつての後漢のように外戚専権の様相が再現される予兆もできた。

こうした中、太熙元年(290年)夏4月、司馬炎は含章殿において56歳で崩御し、その遺体は峻陽陵に葬られた。

記事の引用元であるWikipediaはここをクリック

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