【生誕地】 幽州遼東郡襄平県
【生誕】 不明
【死没】 紹漢2年8月26日(238年8月23日)
【字】 文懿
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[sangokushi-1]概要 (説明はWikipediaより)
中国三国時代の武将。
字は文懿。
遼東の地で自立し燕王を称した。
晋代に編纂された史書『三国志』では、晋の祖である司馬懿の避諱により、字が省略されている。
また、唐代に編纂された史書『晋書』宣帝紀と『北史』では、唐の高祖李淵の避諱により字の公孫文懿で記されている。
父の公孫康が死去した時はまだ幼少であったため、叔父の公孫恭が遼東太守となった。
やがて公孫淵が成人すると、公孫恭を太和2年(228年)に脅迫して、遼東太守の座を奪った。
この時、魏の明帝から揚烈将軍の官位を与えられている。
その後、公孫淵は魏の他に呉とも通じるなど、巧みな外交を見せている。
この経緯から嘉禾2年(233年)、呉から九錫を受け燕王に封じられた。
しかし、後に心変わりして呉の使者として来訪した張弥・許晏・賀達らを殺害し、その首を魏に差し出した。
この功績により、大司馬・楽浪公に任じられている。
[sangokushi-2]しかし、こうした公孫淵の二枚舌外交は、魏の強硬政策を招いた。
景初元年(237年)、毌丘倹は明帝の名で公孫淵に出頭命令を出した。
しかし公孫淵は従わずに迎撃の構えを見せ、毌丘倹と一戦に及びこれを撃退した。
この結果、公孫淵はついに自立を宣言し、燕王を称した。
賈範・綸直らに諫められたが、聞かずに処刑した。
また文武百官を置き、年号を紹漢とした。
領土は帯方郡と楽浪郡であった。
翌紹漢2年(238年)、司馬懿自ら指揮を執る魏軍が向かってくると、公孫淵は呉に援軍を求めた。
呉は過去の恨みから、嫌味を書いた書簡を送り返したが、それでも魏への牽制には役立つとみて、援軍を差し向けた。
また、公孫淵は鮮卑の族長を単于に任じ、味方に取り込もうともした。
しかし呉の援軍が間に合わず、止むを得ず単独で戦うも魏軍に大敗、籠城するも食料が尽き遂に降伏した。
この時、公孫淵は降伏ではなく和議の形での終結を図ろうと考え、相国に任じた王建(中国語版)と御史大夫に任じた柳甫を使者に立て、その旨を伝えさせた。
しかし、司馬懿は二人をその場で斬ると「お前たちは楚と鄭の故事を知らないのか。私も魏帝から列侯に封ぜられた身、王建ごときに『囲みを解け』、『軍を退け』と指図される筋合いはない。王建は耄碌して主命を伝え損なったのだろう。次は若く頭のよい者を遣すように」と警告した。
このため公孫淵は次に衛演を遣わして、人質を送り恭順する旨を伝えさせた。
しかし司馬懿は「降伏も出来ぬ者は無様に死ね。人質など無用である」とこれを追い払った。
[sangokushi-3]同年8月23日、公孫淵と子の公孫脩をはじめとする廷臣はみな斬首され、さらに遼東の成年男子7000人も虐殺された。
その首は高く積まれ京観(高楼)と呼ばれたという。
また公孫淵の首は都の洛陽に送られた。
このことで、洛陽に留まっていた兄公孫晃の一族も死を賜ることになり、遼東公孫氏は滅亡することになった。
なお、叔父の公孫恭は反乱の際に疑われ城内に幽閉されていたが、司馬懿から忠士であると評価され、反乱鎮圧後に釈放されたという。
また賈範・綸直は司馬懿により厚く葬礼され、両名の遺族もまた厚遇されたという。
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