『足利義昭』(戦国時代)を振り返りましょう

足利義昭と織田信長 傀儡政権の虚像 (中世武士選書) [ 久野雅司 ]

足利義昭と織田信長 傀儡政権の虚像 (中世武士選書) [ 久野雅司 ]
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傀儡政権の虚像 中世武士選書 久野雅司 戎光祥出版アシカガ ヨシアキ ト オダ ノブナガ クノ,マサシ 発行年月:2017年11月 ページ数:220p サイズ:単行本 ISBN:9784864032599 久野雅司(クノマサシ) 東洋大学大学院文学研究科日本史学専攻博士後期課程退学。現在は、東洋..
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【時代(推定)】:室町時代~安土桃山時代

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■ 概要・詳しい説明

室町幕府最後の将軍として生きた足利義昭

足利義昭は、戦国時代のただ中に生まれ、室町幕府の最後を背負うことになった人物です。室町幕府第15代征夷大将軍であり、一般には「最後の室町将軍」として知られています。父は第12代将軍・足利義晴、母は近衛尚通の娘である慶寿院、兄には第13代将軍・足利義輝がいました。生年は天文6年、すなわち1537年で、没年は慶長2年、1597年です。つまり、戦国時代の最も激しい変動期をほぼ丸ごと見届けた人物であり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちの時代をまたいで生きた、非常に特殊な立場の武家貴族でもありました。義昭の人生をひと言で表すならば、「滅びゆく権威を背負いながら、最後まで将軍の名を政治的な武器として使おうとした人物」と言えます。単なる無力な将軍、信長に追放された敗者、時代遅れの象徴という見方だけでは、義昭の実像を十分に捉えることはできません。彼はたしかに軍事力では戦国大名たちに及びませんでしたが、将軍家の血筋、朝廷との関係、諸大名への命令権、格式と官位を利用しながら、自分の存在価値を保とうとした政治家でした。室町幕府そのものはすでに長い衰退の道を歩んでいましたが、「将軍」という肩書きにはなお重みがあり、多くの大名たちはその権威を無視しきれませんでした。義昭はその残された権威を使い、時に信長を頼り、時に信長に対抗し、時に毛利氏や上杉氏、武田氏、本願寺などに働きかけながら、戦国の巨大な政治構造の中で生き延びようとしました。

将軍家に生まれながら、最初から将軍になる道を歩んだわけではなかった

足利義昭は、はじめから将軍となることを期待されて育ったわけではありません。兄の足利義輝が将軍職を継いでいたため、義昭は幼いころに仏門へ入れられ、「覚慶」という名を名乗りました。将軍家や公家の子弟が寺に入ることは、当時としては珍しいことではありません。政治的な争いを避ける意味もあり、また高い格式を持つ寺院で教養を身につけることは、名門の子弟にふさわしい進路でもありました。覚慶となった義昭は、興福寺一乗院に入り、僧としての生活を送ります。もし兄の義輝が平穏に将軍職を続けていれば、義昭はそのまま高位の僧として生涯を終えた可能性もありました。しかし、戦国時代の将軍家に安定はありませんでした。足利義輝は武家の棟梁として自らの権威回復を目指しましたが、その姿勢は三好氏や松永久秀ら畿内の有力勢力にとって脅威でもありました。永禄8年、1565年に起きた永禄の変で、義輝は京都の二条御所を襲撃され、激しい抵抗の末に討たれます。この事件は、義昭の運命を大きく変えました。兄が殺害されたことで、仏門にいた覚慶は一気に「将軍家の正統な後継候補」として注目される存在になります。義輝の死後、三好方は足利義栄を将軍に擁立しますが、義昭を支持する勢力も少なくありませんでした。ここから義昭は僧侶としての静かな人生を捨て、戦国政治の中心へ引き戻されていくことになります。

兄・義輝の死と、命がけの脱出

永禄の変によって兄の義輝が討たれた後、義昭自身も危険な立場に置かれました。将軍家の血を引く者は、敵対勢力にとって利用価値がある一方で、邪魔になれば排除すべき存在でもあります。義昭は一乗院にいたものの、三好勢力に監視されるような状態に置かれ、自由に行動できる立場ではありませんでした。しかし、義輝を支持していた幕臣たちは、義昭を救い出して新たな将軍候補として担ぎ上げようとします。細川藤孝、和田惟政、一色藤長、三淵藤英らは義昭の脱出を助け、彼を畿内から逃がすために動きました。この脱出劇は、義昭の人生における最初の大きな転機でした。彼は僧侶のままではなく、還俗して足利義秋、のちに足利義昭と名乗り、将軍職を目指す立場となります。ここで重要なのは、義昭が単に他人に担がれただけの存在ではなかったという点です。もちろん彼には強大な軍事力はありませんでしたが、兄の死を受けて将軍家を再興しようとする意思を持ち、自ら諸大名に働きかける政治的行動を開始しました。義昭は越前の朝倉義景を頼り、次に織田信長へ接近していきます。将軍家の正統性を持つ義昭と、天下への足がかりを求める信長。この両者の利害が一致したことで、足利義昭は歴史の表舞台へ大きく躍り出ることになりました。

織田信長に奉じられて上洛した将軍

足利義昭の名を歴史上に強く刻んだ出来事のひとつが、織田信長による上洛です。義昭は当初、越前の朝倉義景を頼りましたが、朝倉氏は積極的に上洛軍を起こそうとはしませんでした。義昭にとって、将軍になるためには京都へ入ることが不可欠でした。将軍とは単なる名乗りではなく、京都を中心とした政治秩序の中で朝廷から任命され、諸大名に認められてこそ意味を持つ地位だったからです。そこで義昭は、勢力を急速に拡大していた尾張・美濃の織田信長に期待を寄せます。信長にとっても、義昭を奉じて京都へ入ることは大きな意味を持ちました。信長は単なる地方大名として畿内へ攻め込むのではなく、「将軍候補を助け、乱れた京都の秩序を回復する」という大義名分を得ることができたのです。永禄11年、1568年、信長は義昭を奉じて上洛し、三好勢力を退けました。そして義昭は朝廷から征夷大将軍に任じられ、室町幕府第15代将軍となります。この時点で義昭は、表向きには将軍家再興を果たした人物でした。しかし、その将軍就任は最初から大きな矛盾を抱えていました。義昭が将軍になれたのは信長の軍事力によるところが大きく、信長の支えなしには京都の政治を動かすことが難しかったからです。つまり、義昭は将軍という最高の格式を持ちながら、実際の軍事・政務の主導権を信長に握られやすい立場にあったのです。

将軍としての理想と、信長とのすれ違い

足利義昭は、将軍になった後、ただ信長の操り人形でいることを望んだわけではありません。むしろ義昭は、室町幕府の将軍として自ら政務を行い、諸大名を統制し、幕府の権威を立て直そうとしました。彼にとって信長は、自分を京都へ連れてきた有力な協力者ではあっても、将軍の上に立つ存在ではなかったはずです。しかし信長の側から見れば、義昭は天下秩序を整えるために必要な権威でありながら、自分の政策を妨げる存在にもなり得ました。ここに両者の関係悪化の根本があります。義昭は将軍としての独立性を守ろうとし、信長は実力に基づく新たな支配秩序を築こうとしました。信長は義昭に対して、政務のあり方を制限するような条目を突きつけ、将軍の行動を統制しようとします。これにより、義昭は名目上の将軍でありながら、実権を失っていく危機感を強めていきました。義昭が反信長勢力と結びついていく背景には、単なる恩知らずや感情的な反発だけでなく、将軍職の自立を守ろうとする政治的な意識がありました。信長が強くなればなるほど、義昭の将軍権威は信長の飾り物にされる恐れがあったのです。義昭にとって信長は、自分を将軍に押し上げた恩人であると同時に、将軍の権限を奪いかねない最大の脅威でもありました。

信長包囲網と、京都追放

義昭は信長との対立が深まるにつれて、諸勢力に呼びかけ、信長を牽制しようとしました。武田信玄、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺、比叡山延暦寺、三好勢力、松永久秀ら、信長に対抗する勢力は各地に存在していました。義昭は将軍としての名分を使い、これらの勢力をつなぐ中心になろうとします。これがいわゆる信長包囲網の一角です。義昭自身が大軍を率いて華々しく戦場を駆けたわけではありませんが、将軍の御内書や政治的呼びかけには大きな意味がありました。戦国大名たちは自らの利害で動いていましたが、「将軍が信長討伐を望んでいる」という形になれば、反信長の行動に一定の正当性が加わります。義昭はこの権威を活用し、信長に対抗しようとしました。しかし、信長はその動きを見逃しませんでした。元亀から天正にかけて両者の対立は決定的となり、天正元年、1573年、義昭は京都で挙兵します。しかし信長の軍事力の前に敗れ、義昭は京都から追放されました。この出来事は、一般に室町幕府の滅亡を示す大きな節目とされています。もっとも、義昭自身はこの時点で将軍職を完全に手放したわけではなく、その後も長く「将軍」としての意識を持ち続けます。京都を追われたからといって、義昭の政治活動がすぐに終わったわけではありませんでした。

追放後も消えなかった将軍としての存在感

京都を追われた足利義昭は、すぐに歴史の舞台から消えたわけではありません。むしろ、彼のしぶとさはここからよく表れます。義昭は河内や紀伊、備後などを転々とし、最終的には毛利氏の庇護を受けるようになります。鞆の浦に身を置いたことから、義昭の政権構想は「鞆幕府」と呼ばれることもあります。もちろん、京都を支配していない以上、かつての室町幕府と同じような実体を持っていたとは言えません。しかし、義昭は諸大名に書状を送り続け、信長に対抗するための政治的な働きかけを継続しました。毛利氏、本願寺、上杉氏などとの関係を通じて、反信長勢力の精神的なよりどころになろうとしたのです。この時期の義昭を見ると、彼が単なる敗北者ではなく、政治的な肩書きを最後まで使い続けた人物であったことが分かります。将軍という地位は、すでに実効支配の力を失っていましたが、完全な無価値になったわけではありませんでした。義昭はその残り火を抱えながら、信長の天下統一を阻むために活動を続けました。信長にとっても、義昭はすでに京都を追った相手でありながら、反信長勢力を結びつける名分になり得る厄介な存在でした。義昭の存在は、室町幕府の実力が衰えても、その名前がなお政治的効果を持っていたことを示しています。

豊臣秀吉の時代に生き残った元将軍

織田信長が本能寺の変で倒れた後、天下の主導権は豊臣秀吉へ移っていきます。義昭は信長の死によって再び将軍として京都に復帰できたわけではありませんでした。時代はすでに、足利将軍家を中心とする政治秩序へ戻る方向には進んでいなかったのです。秀吉は信長の後継者として全国統一を進め、関白・太閤という朝廷権威を利用した新しい政権の形を築きました。義昭はその流れの中で、かつての将軍として一定の格式を保ちながらも、政治の中心からは遠ざかっていきます。天正16年、1588年、義昭は征夷大将軍を辞したとされます。ここに名実ともに室町幕府の将軍職は終わりを迎えました。その後、義昭は秀吉から山城槇島に所領を与えられ、晩年を過ごします。完全に冷遇されたわけではなく、かつての将軍家の人物として一定の扱いは受けていました。秀吉にとっても、義昭は利用すべき相手というより、すでに歴史上の権威として遇すべき存在だったのでしょう。義昭は慶長2年、1597年に亡くなります。死去した時、戦国の大勢はすでに豊臣政権のもとで統一されており、彼が背負った室町幕府の時代は遠い過去になりつつありました。

足利義昭という人物をどう見るべきか

足利義昭は、織田信長に逆らって敗れた将軍として、しばしば否定的に見られることがあります。信長の力で将軍になったにもかかわらず、その信長に敵対したため、「恩を仇で返した人物」として語られることもあります。しかし、義昭をそのように単純化してしまうと、彼が置かれていた政治状況を見誤ることになります。義昭は将軍であり、信長はその家臣という建前がありました。たとえ実力では信長が圧倒していたとしても、義昭の側から見れば、信長が将軍の権限を制限し、幕府政治を支配しようとすることは受け入れがたいものでした。つまり義昭の反発は、個人的なわがままだけではなく、将軍という立場を守るための抵抗でもあったのです。もちろん、彼の判断がすべて成功したわけではありません。反信長勢力をまとめきる力も、独自の軍事基盤も不十分でした。その結果、義昭は京都を失い、室町幕府は終焉へ向かいました。しかし、政治的な駆け引き、諸大名への働きかけ、将軍権威の利用という面では、彼は決して何もしなかった人物ではありません。足利義昭は、戦国時代における「名分」と「実力」の衝突を象徴する存在でした。武力の時代に、血筋と官職と伝統がどこまで通用するのか。義昭の生涯は、その問いに対するひとつの答えでもあります。

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■ 活躍・実績・合戦・戦い

足利義昭の活躍は「戦場で槍を振るう活躍」ではなく「名分を動かす政治戦」だった

足利義昭の活躍を考える時、まず重要になるのは、彼を一般的な戦国武将と同じ尺度だけで見ないことです。織田信長や武田信玄、上杉謙信のように大軍を率いて前線に立ち、合戦で勝敗を決める人物ではありませんでした。義昭の武器は、刀や鉄砲よりも「足利将軍家の血筋」「征夷大将軍という官職」「幕府を再興するという大義名分」でした。つまり、彼の戦いは軍事だけでなく、書状、命令、同盟、交渉、呼びかけを駆使した政治戦だったのです。もちろん、義昭自身も槇島城で挙兵するなど、軍事行動をまったく行わなかったわけではありません。しかし彼の本当の影響力は、直接兵を動かす力よりも、諸大名に「将軍の意向」という名分を与え、反信長勢力を結びつけようとした点にありました。戦国時代は実力の時代でしたが、それでも多くの大名は完全に旧来の権威を無視していたわけではありません。朝廷の官位、将軍の命令、幕府の格式は、政治的な正当性を補強するために利用価値がありました。義昭はその残された価値を最大限に使おうとした人物であり、その意味で彼の活躍は「室町幕府最後の政治的抵抗」と呼べるものでした。

永禄の変後、将軍家再興の旗印となったことが最初の実績

足利義昭の最初の大きな実績は、兄である足利義輝が討たれた後、混乱する将軍家の後継者として生き延び、反三好勢力の旗印になったことです。永禄8年に起きた永禄の変で、義輝は三好三人衆や松永久通らに襲撃され、京都の二条御所で命を落としました。この事件は単なる将軍暗殺ではなく、室町幕府そのものの権威が踏みにじられた象徴的な出来事でした。当時、義昭は僧侶として一乗院にいましたが、将軍家の血筋を引く人物である以上、彼もまた政治的に重要な存在でした。三好方にとっては利用する価値があり、同時に危険な存在でもありました。そのため、義昭は容易に自由を得られる立場ではありませんでした。しかし細川藤孝、和田惟政、一色藤長、三淵藤英ら、義輝に近かった幕臣たちは義昭を救い出し、彼を将軍家再興の中心に据えようとしました。ここで義昭が生き残ったことは、後の歴史に大きな影響を与えます。もしこの時点で義昭が排除されていれば、織田信長が「足利将軍家の正統な後継者を奉じて上洛する」という大義名分を得ることもなかったかもしれません。義昭の存在は、単に本人の生命が助かったというだけでなく、戦国後期の政治構図を動かす重要な軸になったのです。

朝倉義景を頼った越前時代と、実現しなかった上洛構想

義昭は還俗して将軍を目指す立場になると、まず越前の朝倉義景を頼りました。朝倉氏は名門であり、越前一国を支配する大きな勢力を持っていました。また、京都に近い北陸の有力大名であったため、義昭にとっては上洛を支援してくれる相手として期待できる存在でした。義昭は朝倉義景に対し、自分を奉じて京都へ進軍するよう求めたと考えられます。もし朝倉義景がこの機会を積極的に利用していれば、朝倉氏が将軍擁立の主導権を握り、畿内政治に大きな影響力を持つ未来もあり得ました。しかし、朝倉義景は慎重で、義昭の期待に応えるほど大胆には動きませんでした。越前の安定を優先したとも言えますし、畿内の複雑な情勢へ深く関与する危険を避けたとも言えます。義昭にとってこの時期は、将軍家再興への道を探りながらも、思うように進まない停滞の時間でした。ただし、この越前時代も無意味ではありません。義昭はここで、自分の将軍就任には強力な軍事支援者が不可欠であることを痛感します。将軍家の血筋だけでは京都を奪回できず、幕臣だけでは三好勢力を打ち破れない。義昭はその現実を理解したからこそ、次に織田信長へ接近していくことになります。これは義昭の政治判断として非常に重要な転換でした。

織田信長との連携と、永禄11年の上洛

足利義昭の最大の活躍のひとつは、織田信長という新興の実力者と結び、永禄11年に上洛を実現したことです。信長は尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を破り、さらに美濃を攻略して勢力を拡大していました。義昭から見れば、信長は朝倉義景よりも行動力があり、上洛を実行できるだけの軍事力を持つ人物でした。一方、信長にとっても義昭は極めて価値のある存在でした。地方大名である信長が突然京都へ攻め上るだけでは、単なる軍事侵攻に見えかねません。しかし「足利義昭を将軍にするため」「乱れた畿内を正常化するため」という名分があれば、信長の上洛は正義の行動として演出できます。こうして義昭と信長の利害は一致しました。信長は義昭を奉じて軍を進め、畿内の三好勢力を圧迫しながら京都へ入りました。この上洛は義昭にとって、逃亡者から将軍候補へ、さらに正式な将軍へと立場を変える決定的な出来事でした。義昭は同年、朝廷から征夷大将軍に任じられ、第15代室町幕府将軍となります。これは義昭本人の人生における頂点であり、室町幕府が一時的に再興したように見えた瞬間でもありました。信長の軍事力があってこその成功ではありますが、その中心に足利義昭という正統な旗印があったからこそ、上洛は政治的な意味を持ったのです。

将軍就任後の政治活動と、幕府再建への試み

将軍となった義昭は、ただ名誉職として京都に座っていただけではありません。彼は将軍として幕府の政治機能を回復させようとしました。諸大名への命令、幕臣の統制、朝廷との関係調整、寺社や公家への対応など、将軍として行うべき政治的役割を果たそうとしたのです。室町幕府は応仁の乱以降、長く衰退していましたが、それでも京都を中心とする政治秩序の枠組みは完全には消えていませんでした。義昭はそこに自分の存在を重ね、足利将軍家の権威をもう一度立て直そうとしました。この姿勢は、信長との関係を考えるうえで非常に重要です。義昭は信長の力で将軍になりましたが、だからといって自分が信長の部下になるつもりはありませんでした。室町幕府の建前からすれば、将軍である義昭が武家社会の頂点に立ち、信長は将軍を補佐する有力大名という位置づけになります。義昭はその構図を当然のものとして考えていたはずです。しかし信長は、従来の幕府秩序に従うだけの存在ではありませんでした。彼は義昭を必要としながらも、将軍の自由な政治活動を許し続けるつもりはありませんでした。このため、義昭が幕府再建を進めようとすればするほど、信長との緊張は高まっていきました。将軍就任後の義昭の活動は、室町幕府再興への努力であると同時に、信長との対立の種を育てるものでもあったのです。

信長包囲網の形成と、足利義昭の政治的役割

足利義昭の活躍を語るうえで欠かせないのが、信長包囲網との関係です。信長包囲網とは、織田信長の急速な勢力拡大に危機感を持った諸勢力が、さまざまな形で信長に対抗した一連の動きを指します。そこには浅井長政、朝倉義景、武田信玄、石山本願寺、三好勢力、松永久秀、比叡山延暦寺など、多くの勢力が関わりました。義昭はその中で、将軍という名分を使って反信長勢力をつなぐ役割を担おうとしました。義昭自身が巨大な軍隊を持っていたわけではありません。しかし、将軍の名で呼びかけることには、戦国大名の行動に正当性を与える効果がありました。信長に反発する勢力にとって、義昭の存在は「自分たちは単に信長に敵対しているのではなく、将軍の意向を受けて行動している」という理屈を作る材料になりました。義昭は書状や働きかけを通じて、信長を孤立させようとします。特に武田信玄の西上作戦は、信長にとって大きな脅威でした。信玄が健在であれば、義昭の構想はより現実味を持った可能性があります。しかし包囲網は、各勢力の利害が完全に一致していたわけではなく、連携も十分ではありませんでした。信玄の死、浅井・朝倉の敗北、本願寺との長期戦など、情勢は複雑に動き、最終的に義昭の構想は信長を倒すところまでは届きませんでした。

槇島城での挙兵と、京都追放という敗北

義昭と信長の対立が決定的になったのは、天正元年の槇島城での挙兵です。義昭は京都南方の要地である槇島城に入り、信長に対して軍事的抵抗を試みました。これは、義昭がついに将軍として信長と正面から対立した場面です。ただし、義昭の軍事力は信長に比べて明らかに劣っていました。信長は迅速に軍を動かし、槇島城を攻めました。義昭は抵抗しましたが、結局は敗れて降伏し、京都から追放されることになります。この出来事は、一般に室町幕府の滅亡を示す象徴的な事件として扱われます。足利尊氏以来続いた室町幕府は、ここで実質的に京都の政権としての役割を失いました。義昭にとって槇島城の戦いは大きな敗北でしたが、同時に彼が最後まで信長に従属する道を選ばなかったことを示す出来事でもあります。もし義昭が信長の意向に完全に従っていれば、名目上の将軍として京都に残ることはできたかもしれません。しかし、それでは将軍としての主体性は失われます。義昭は敗れる危険を承知で、信長に対抗する道を選びました。その判断が成功だったとは言えませんが、彼の立場から見れば、室町将軍としての権威を守るための最後の賭けだったのです。

京都追放後も続いた反信長活動

京都を追放された後の義昭は、一般的には「敗れた将軍」として語られがちですが、実際にはその後も政治活動を続けました。義昭は河内、紀伊、備後などを転々とし、最終的には毛利氏の庇護を受けて鞆の浦に拠点を置きました。この時期の義昭は、京都を支配していないため、以前のような幕府の実体を持っていたわけではありません。しかし、彼はなおも将軍としての立場を意識し、諸大名に書状を送り、信長への対抗を呼びかけました。鞆に置かれた義昭の政権的な活動は、後世「鞆幕府」と呼ばれることもあります。もちろん、これは京都の室町幕府と同じ規模の政権ではありませんが、義昭が完全に政治的影響力を失ったわけではなかったことを示しています。特に毛利氏にとって、義昭を保護することは信長に対抗するうえで政治的な意味を持ちました。義昭は毛利氏、本願寺、上杉氏など、反信長勢力との連絡を保ちながら、信長包囲の再構築を目指します。ここでも彼の武器は軍事力ではなく、将軍としての名分でした。信長にとって、京都を追放した後の義昭は、直接的な軍事脅威ではなくても、反信長勢力の旗印になり得る厄介な存在でした。

義昭の戦いが残した歴史的意味

足利義昭の合戦や戦いを振り返ると、彼自身が軍事的英雄だったとは言えません。槇島城での挙兵は敗北し、信長包囲網も最終的には信長を倒すことに成功しませんでした。京都を追放されたことで、室町幕府は実質的に終わりを迎えました。しかし、それだけで義昭を無能な敗者と断じるのは早計です。彼は滅びかけた幕府権威を使い、戦国大名たちの利害を結びつけようとしました。自分を擁立した信長に従属するのではなく、将軍としての主体性を保とうとしました。京都を失ってもなお、毛利氏の庇護のもとで政治活動を続け、反信長勢力に名分を与えました。これは、戦国時代において「権威」がまだ完全には死んでいなかったことを示しています。信長のような実力者でさえ、最初は義昭を奉じることで上洛の正当性を得ました。義昭を追放した後も、彼の存在は反信長勢力にとって利用価値を持ち続けました。つまり義昭の戦いは、武力だけでなく、名分、血筋、官職、格式がどのように戦国政治を動かしたのかを示す重要な事例なのです。足利義昭は合戦の勝者ではありませんでしたが、室町幕府最後の将軍として、戦国時代の権力構造に大きな影を落とした人物でした。

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■ 人間関係・交友関係

足利義昭の人間関係は「将軍権威をどう使うか」をめぐる駆け引きの連続だった

足利義昭の人間関係を考えるうえで大切なのは、彼が単なる一武将ではなく、室町幕府最後の将軍という特殊な立場にいたことです。戦国大名同士の関係であれば、領地、軍事力、婚姻、同盟、裏切りといった要素が中心になりますが、義昭の場合はそこに「将軍家の血筋」と「武家の棟梁としての名分」が加わります。義昭は自分の領国を広く持つ大名ではなく、独自の軍事力も強大ではありませんでした。そのため、人間関係そのものが彼の政治力の源でした。誰を頼るのか、誰を将軍家再興の支援者にするのか、誰に命令を出すのか、誰を反信長勢力として結びつけるのか。義昭の人生は、人との結びつきによって浮上し、人との対立によって追い込まれ、また別の人間関係によって生き延びていく流れでした。彼は兄・足利義輝の死後、幕臣たちに救い出され、朝倉義景を頼り、織田信長によって上洛し、やがて信長と対立して毛利氏のもとへ身を寄せます。この流れを見るだけでも、義昭の人生が特定の一人との関係ではなく、時代の有力者たちとの複雑な網の目の中で成り立っていたことが分かります。彼の交友関係とは、友情や親しさだけで語れるものではありません。そこには利用し、利用され、頼り、牽制し、名分を与え合う、戦国政治特有の緊張がありました。

父・足利義晴と兄・足利義輝から受け継いだ将軍家の宿命

足利義昭の父である足利義晴は、室町幕府第12代将軍です。義晴の時代には、すでに将軍権力は大きく揺らいでおり、細川氏や三好氏など畿内の有力者の影響を受けながら政権を運営せざるを得ませんでした。義昭はそのような不安定な将軍家に生まれた人物でした。義晴の姿は、のちの義昭の運命を先取りしているようにも見えます。つまり義昭は、将軍家の格式を背負って生まれながらも、将軍の権威だけでは政治を動かせない時代に生まれてしまったのです。兄の足利義輝は、義昭にとってさらに大きな存在でした。義輝は剣豪将軍とも呼ばれ、戦国の混乱の中で将軍権威を回復しようとした人物です。義昭はもともと仏門に入っており、兄が将軍職を継いでいたため、自分が将軍になる可能性は高くありませんでした。ところが永禄の変によって義輝が討たれたことで、義昭は一気に政治の中心へ引き出されます。義輝の死は、義昭にとって家族の喪失であると同時に、将軍家再興の責任を背負う出発点でした。義輝は三好氏や松永久秀らと対立しながら、将軍としての威厳を守ろうとしましたが、最終的には武力によって排除されました。義昭は兄の死を通じて、将軍であっても実力を持たなければ命すら守れないという現実を見せつけられます。そのため、義昭が信長の軍事力を頼ったことは、兄の死の教訓を踏まえた行動でもありました。

細川藤孝・和田惟政ら幕臣との関係

足利義昭が将軍候補として世に出ることができた背景には、細川藤孝、和田惟政、一色藤長、三淵藤英といった幕臣たちの存在がありました。彼らは義昭にとって、単なる家臣というより、命を救い、将軍家再興の道を開いた支援者でした。永禄の変後、義昭は危険な立場に置かれましたが、幕臣たちは彼を救出し、三好方の支配下から逃がします。この行動がなければ、義昭は将軍になるどころか、政治的に封じ込められるか、場合によっては命を奪われていた可能性すらあります。特に細川藤孝は、のちに細川幽斎として知られる文化人・武将であり、義昭の側近として重要な役割を果たしました。藤孝は教養にも優れ、政治的判断力もあり、義昭の上洛工作や信長との関係構築に関わった人物です。しかし、義昭と幕臣たちの関係は最後まで一枚岩だったわけではありません。信長の力が大きくなるにつれ、幕臣たちの中には信長へ接近する者も出てきます。細川藤孝もやがて信長、さらに豊臣秀吉へ仕える道を進み、義昭とは距離を置くようになります。これは義昭の人間関係の難しさを示しています。彼は将軍として家臣を従えたい立場でしたが、実力の時代において家臣たちもまた、生き残るために現実的な選択を迫られていました。

朝倉義景との関係は、期待と失望が交差した関係だった

義昭が将軍家再興を目指す過程で、最初に大きく頼った有力大名の一人が越前の朝倉義景でした。朝倉氏は名門であり、越前を支配する実力を持っていました。義昭から見れば、朝倉義景は自分を奉じて上洛してくれる可能性のある大名でした。将軍候補である義昭を保護し、京都へ送り届けることができれば、朝倉氏は畿内政治で大きな発言力を得ることができます。その意味では、義昭と朝倉義景の関係は互いに利益を得られる可能性を秘めていました。しかし、朝倉義景は義昭の期待するほど積極的には動きませんでした。義景は慎重で、越前の安定や自家の利害を優先したと考えられます。義昭にとっては、上洛を実現するには時間が惜しく、強い行動力を持つ支援者が必要でした。そのため、朝倉義景の態度は物足りなく映ったはずです。結果として義昭は朝倉氏から離れ、織田信長に期待を移します。この関係は、義昭が相手の格式だけでなく、実際に動ける力を重視するようになった転換点でもありました。朝倉義景との関係は、将軍家の権威だけでは大名を動かせないという現実を義昭に突きつけた関係だったと言えます。

織田信長との関係は、協力者から最大の敵へ変化した

足利義昭の人間関係の中で、最も重要で、最も劇的に変化した相手が織田信長です。義昭にとって信長は、自分を将軍に押し上げた最大の功労者でした。信長は義昭を奉じて上洛し、畿内の敵対勢力を退け、義昭を第15代将軍の座へ導きました。信長がいなければ、義昭が京都に入り、将軍として認められることは極めて難しかったでしょう。その意味で、両者の関係は最初、強い利害の一致によって結ばれていました。義昭は信長の軍事力を必要とし、信長は義昭の将軍権威を必要としていました。しかし、将軍就任後、二人の関係はしだいに悪化していきます。義昭は将軍として自立した政治を行おうとし、信長はその動きを制限しようとしました。義昭から見れば、信長は本来、将軍を支える有力大名であるはずでした。ところが信長は、実力を背景に将軍の政治を管理し、義昭を自分の秩序構想の中に組み込もうとします。これに義昭は反発しました。信長から見れば、義昭は自分の力で将軍になったにもかかわらず、諸大名と通じて反抗する厄介な存在でした。こうして、両者は協力者から対立者へ、そして最終的には敵へと変わっていきました。義昭と信長の関係は、戦国時代における「旧来の権威」と「新興の実力」が衝突した象徴的な関係でした。

明智光秀との関係は、足利幕府と織田政権をつなぐ複雑な線だった

足利義昭と明智光秀の関係も、戦国史を考えるうえで興味深いものです。光秀は一時期、義昭に近い立場で活動し、義昭の上洛や信長との接点に関わった人物とされています。のちに信長の重臣となる光秀ですが、その出発点には足利将軍家との関わりがありました。義昭から見れば、光秀は幕府再興のために動く実務的な人材の一人であり、信長との橋渡しにも関係した存在でした。しかし信長が義昭を奉じて上洛した後、光秀はしだいに信長家臣としての性格を強めていきます。この変化は、義昭に仕える人材が、やがて信長の政権へ吸収されていく流れを象徴しています。義昭の側近や関係者の中には、将軍家に忠誠を尽くし続けるよりも、現実に力を持つ信長に従うことで活路を見出す者がいました。光秀もその一人として見ることができます。ただし、光秀が最終的に本能寺の変で信長を討ったことを考えると、彼の中に足利幕府への旧恩や義昭との関係がどの程度影響したのかは、後世の議論を呼ぶ部分です。確実に言えるのは、義昭・信長・光秀の関係が、単純な主従関係ではなく、室町幕府の残像と織田政権の形成が重なり合う複雑な政治空間の中で成り立っていたということです。

武田信玄・浅井長政・朝倉義景との関係と反信長勢力

義昭が信長に対抗するうえで、大きな期待を寄せた人物の一人が甲斐の武田信玄です。信玄は東国を代表する強大な戦国大名であり、軍事力、家臣団、領国経営の面で高い実力を持っていました。義昭から見れば、信玄は信長を東から圧迫できる数少ない存在でした。信玄が西へ進み、織田・徳川勢力を圧倒しながら畿内へ近づけば、信長の立場は大きく揺らいだはずです。義昭にとって信玄は、信長から主導権を取り戻すための切り札に近い存在でした。しかし、信玄は西上の途中で病没し、義昭の期待は大きく崩れます。また、浅井長政や朝倉義景も義昭の反信長構想に関わる重要な存在でした。浅井長政は北近江の大名で、もともとは信長と同盟関係にありましたが、信長が朝倉氏を攻めたことで信長と決裂し、朝倉氏とともに反信長勢力となります。義昭にとって浅井・朝倉は、畿内に近い地域で信長を圧迫できる有力な存在でした。ただし、彼らは義昭の命令に完全に従う家臣ではなく、それぞれ自家の存続や領国の利益を考えて動いていました。義昭は将軍として彼らに大義名分を与えることはできましたが、軍事作戦を一元的に指揮することはできませんでした。この点に、信長包囲網の弱さがあります。

石山本願寺・毛利氏との関係

足利義昭と石山本願寺の関係も、反信長勢力を語るうえで欠かせません。石山本願寺の中心人物である顕如は、巨大な門徒組織を背景に、信長と長期にわたって対立しました。本願寺は単なる寺院ではなく、畿内や北陸、東海などに広がる一向一揆勢力と結びついた強大な宗教・軍事勢力でした。義昭にとって本願寺は、信長を西国・畿内方面で苦しめる重要な勢力でした。将軍である義昭と、宗教勢力である本願寺の関係は、信長への対抗という共通目的によって結びついたものです。さらに京都を追放された後、義昭が大きく依存したのが毛利氏です。毛利輝元を中心に、小早川隆景、吉川元春らが支える毛利家は、中国地方を代表する巨大勢力でした。義昭は毛利氏の庇護を受け、備後の鞆の浦を拠点として政治活動を続けます。義昭にとって毛利氏は、京都を失った後も将軍としての立場を保つための生命線でした。毛利氏にとっても、義昭を保護することには大きな意味がありました。信長が西国へ勢力を伸ばしてくる中で、毛利氏は単に自家の防衛のために戦うだけでなく、「将軍を守る」という名分を掲げることができたからです。

豊臣秀吉との関係は、敗者の処遇と旧権威の整理を示している

織田信長が本能寺の変で倒れた後、天下の主導権を握ったのは豊臣秀吉でした。義昭と秀吉の関係は、信長との関係とは大きく異なります。信長に対して義昭は、将軍として対抗し、敵対しました。しかし秀吉の時代になると、義昭はもはや天下の中心へ復帰する力を持っていませんでした。秀吉は関白・太閤という形で朝廷権威を利用し、新しい政権構造を作っていきます。その中で義昭は、室町幕府最後の将軍、あるいは元将軍として一定の格式を持つ人物として扱われました。秀吉は義昭を完全に排除するのではなく、山城槇島に所領を与えるなど、旧権威に対する一定の敬意を示しました。これは秀吉の政治感覚をよく表しています。秀吉にとって義昭は、もはや実際の脅威ではありませんでしたが、粗末に扱えば足利将軍家の名誉を軽んじることにもなります。そこで、義昭を一定の格式で遇しながら、政治の中心からは外すという形を取りました。義昭にとって秀吉との関係は、敗北後の安定を得る関係であり、同時に室町将軍家が新しい時代の中で役割を終えていくことを示す関係でもありました。

足利義昭の交友関係が示す戦国時代の本質

足利義昭の人間関係を総合すると、戦国時代が単純な武力だけの時代ではなかったことがよく分かります。信長のような実力者であっても、最初は義昭を奉じることで上洛の正当性を得ました。武田信玄や毛利氏、本願寺のような反信長勢力も、義昭の将軍権威を利用することで、自分たちの行動に名分を加えました。一方で、義昭自身も彼らの軍事力や領国支配に頼らなければ、自分の地位を保つことができませんでした。つまり義昭の人間関係は、「権威を持つ者」と「実力を持つ者」が互いに利用し合う関係だったのです。義昭は決して孤立した無力な人物ではありませんでした。多くの大名や幕臣、宗教勢力と関わり、信長を中心とする新秩序に抵抗しようとしました。しかし、その関係は常に不安定で、相手の事情に左右されました。足利義昭という人物の面白さは、そこにあります。彼は一人で天下を動かした英雄ではありませんが、人との関係を通じて時代の流れに関与し続けました。将軍家の血筋を持つ者として、多くの人々に利用され、また自らも多くの人々を利用しようとした。足利義昭の交友関係とは、室町幕府の終焉と戦国大名の台頭が交差する、時代そのものを映す人間関係だったのです。

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■ 後世の歴史家の評価

足利義昭は「無力な最後の将軍」だけでは語れない人物

足利義昭は、後世において長く「室町幕府を終わらせた最後の将軍」として語られてきました。そのため、どうしても評価には敗北者としての印象がつきまといます。織田信長に奉じられて将軍になりながら、その信長と対立し、最終的に京都を追放された人物。こうした流れだけを見れば、義昭は時代の変化を読めなかった将軍、権威にしがみついた旧時代の人物、信長の力を借りたにもかかわらず反抗した存在として見られやすくなります。実際、昔から義昭には「主体性はあったが力が足りなかった」「策を巡らせたが実現力に欠けた」「将軍の権威に頼りすぎた」といった否定的な評価がついて回りました。しかし近年の見方では、義昭を単なる無能な人物として片づけるのではなく、戦国時代の政治構造の中で、残された将軍権威を最大限に使おうとした政治家として捉える考え方も強くなっています。つまり、義昭は何もしなかった将軍ではありません。むしろ、独自の軍事力が弱い中で、書状、官位、名分、人脈、諸大名との交渉を使い、織田信長という新興権力に対抗しようとした人物でした。失敗したから無能なのではなく、時代の流れに抗うには、彼の持つ手札があまりにも少なかったと見ることもできます。

かつての評価では「信長に逆らった愚かな将軍」と見られやすかった

足利義昭に対する古い評価では、織田信長との関係を中心に、義昭を否定的に見る傾向が強くありました。信長は義昭を奉じて上洛し、彼を第15代将軍の地位へ押し上げました。そのため、後世の物語や通俗的な歴史理解では、義昭は「信長のおかげで将軍になれた人物」とされ、その信長に敵対したことが「恩知らず」のように描かれることがありました。特に信長を革新的な英雄として描く作品では、義昭は古い権威を振りかざして信長の新しい政治を妨げる存在として扱われやすくなります。この見方では、信長は時代を進める改革者であり、義昭は時代に取り残された幕府権威の象徴です。義昭が諸大名に信長包囲を呼びかけた行動も、正当な政治活動というより、権力を失いたくない将軍の悪あがきとして解釈されがちでした。また、槇島城で挙兵して敗れ、京都から追放されたことも、彼の政治的判断の失敗として強調されました。確かに、結果だけを見れば義昭は信長に敗れ、室町幕府は終焉しました。しかし、こうした評価は信長側の視点に寄りすぎる面があります。義昭の立場からすれば、信長は将軍を支える有力大名であるはずなのに、しだいに将軍の権限を制限し、実権を握ろうとした存在でした。義昭が反発したのは、単なるわがままではなく、将軍としての地位を守るための抵抗でもあったのです。

「操り人形」ではなく、自ら政治を動かそうとした将軍

足利義昭は、しばしば「信長の傀儡」と表現されることがあります。たしかに、義昭が将軍になれた背景には、信長の軍事力がありました。義昭だけの力では京都へ戻り、三好勢力を退け、朝廷から将軍宣下を受けることは難しかったでしょう。その意味で、信長の支援は義昭にとって不可欠でした。しかし、義昭が将軍になった後の行動を見ると、彼は決して信長の言いなりになるだけの人物ではありませんでした。義昭は将軍として独自に政務を行い、諸大名へ働きかけ、幕府の復権を目指しました。信長と意見が合わなくなっても、すぐに屈服するのではなく、反信長勢力を結びつけることで自分の立場を守ろうとしました。この点を重視する評価では、義昭はむしろ主体性の強い人物だったと見なされます。もちろん、その主体性は必ずしも成功に結びつきませんでした。彼には信長に対抗できる直属の大軍も、安定した領国基盤もありませんでした。だからこそ、周囲の大名や宗教勢力に頼らざるを得なかったのです。しかし、頼らざるを得ない状況の中でも、義昭は将軍としての政治的意思を持ち続けました。後世の歴史家が義昭を再評価する時、重要になるのはこの点です。義昭は信長に利用された存在であると同時に、信長を利用しようとした存在でもありました。

将軍権威を最後まで武器にした政治家としての評価

足利義昭の評価で近年注目されやすいのは、彼が「将軍権威」を政治的な武器として使い続けた点です。戦国時代は武力の時代とされますが、実際には名分や官位、由緒、血統も重要な意味を持っていました。織田信長でさえ、上洛の際には義昭を奉じることで行動の正当性を高めています。つまり、義昭の存在そのものに政治的価値があったのです。義昭はこの価値を理解していました。彼は自ら大軍を率いることはできなくても、将軍の名で諸大名へ書状を送り、信長討伐の大義を与えることができました。武田信玄、朝倉義景、浅井長政、毛利氏、石山本願寺など、信長に対抗する勢力にとって、義昭の存在は単なる亡命将軍ではなく、反信長行動を正当化する旗印でした。歴史家の中には、義昭が京都を追放された後もなお政治活動を続けたことを重く見る考え方があります。もし義昭が本当に無力で価値のない人物なら、毛利氏が彼を保護し、反信長勢力が彼の名分を利用する意味は薄かったはずです。義昭の評価は、軍事的な勝敗だけでは測れません。彼は戦場で勝つ武将ではありませんでしたが、政治的正当性をめぐる戦いでは、最後まで一定の影響力を持ち続けた人物でした。

信長包囲網の中心人物としての評価

足利義昭は、信長包囲網を語るうえで欠かせない人物です。信長包囲網は、単一の同盟組織というより、信長に反発する諸勢力がそれぞれの利害に基づいて連動した政治・軍事的な構図でした。その中で義昭は、各勢力を完全に指揮した総大将ではありません。しかし、将軍という立場によって、反信長勢力に共通の名分を与えた存在ではありました。歴史家の評価では、この点をどう見るかで義昭像が大きく変わります。否定的に見れば、義昭は自分の力では信長に勝てないため、他人をけしかけた人物とも言えます。肯定的に見れば、限られた手段の中で広域的な反信長連携を構想した政治家とも言えます。戦国大名たちは、それぞれ自分の領国や家の存続を第一に考えて動きました。義昭が命じたからといって、すべてが思い通りに動くわけではありません。それでも義昭は、将軍としての御内書や働きかけを通じて、信長に対抗する政治的空間を作ろうとしました。この行動は、成功こそしませんでしたが、信長にとって無視できない圧力になりました。実際、信長は浅井・朝倉、本願寺、武田、毛利など、複数の敵に囲まれて苦しい局面を経験しています。その背後に義昭の存在があったことを考えると、彼の政治的影響は決して小さくありませんでした。

失敗した理由は「能力不足」だけではなく時代環境にあった

足利義昭が最終的に敗れた理由を、本人の能力不足だけに求めるのは単純すぎます。もちろん、義昭には弱点がありました。独自の軍事基盤が乏しく、経済力も強大ではなく、配下の武将を完全に統制する力も限られていました。また、信長と対抗するには、包囲網の各勢力を緊密に連携させる必要がありましたが、それは非常に難しい課題でした。武田氏には武田氏の事情があり、毛利氏には毛利氏の事情があり、本願寺には本願寺の宗教的・地域的な利害がありました。義昭が将軍だからといって、彼らが自家の損得を超えて一斉に動くわけではありません。さらに、信長は軍事面でも政治面でも非常に行動が速く、敵を各個撃破する能力に長けていました。こうした状況を考えると、義昭が信長に敗れたのは、個人の才覚だけでなく、室町幕府そのものがすでに時代の主導権を失っていたためでもあります。義昭が背負っていたのは、かつては強かったが、長い内乱と権威低下によって中身が空洞化した幕府でした。彼がどれほど努力しても、足利将軍家の権威だけで戦国大名を完全に支配することは困難でした。義昭の失敗は、ひとりの将軍の失敗であると同時に、室町幕府という制度の限界でもあったのです。

「室町幕府を滅ぼした人物」ではなく「幕府の終末を背負った人物」

足利義昭は、しばしば室町幕府を滅亡させた将軍として扱われます。たしかに、義昭が京都から追放された天正元年をもって、室町幕府は実質的に滅亡したとされることが多くあります。しかし、義昭が幕府を滅ぼしたという表現には注意が必要です。室町幕府は、義昭の時代に突然弱体化したわけではありません。応仁の乱以降、幕府の統制力は大きく低下し、各地では守護大名や戦国大名が自立していました。将軍は京都周辺の政治にも苦しみ、畿内の有力勢力に左右される状態が続いていました。義昭が将軍になった時点で、幕府はすでにかつてのような全国統治機構ではなくなっていたのです。そう考えると、義昭は幕府を滅ぼした張本人というより、すでに崩壊寸前だった幕府の最後を背負わされた人物と言えます。彼はその終末期に、信長の力を借りて一度は将軍権威を復活させようとしました。しかし、信長という新しい実力者の台頭は、足利幕府の再建ではなく、新たな権力秩序の形成へ向かっていました。義昭はその流れを押し戻そうとしましたが、時代の大勢を変えることはできませんでした。この点で、義昭の評価は悲劇性を帯びています。彼は無能だから滅んだのではなく、滅びゆく制度を背負っていたからこそ敗れたとも言えるのです。

総合評価・足利義昭は敗者でありながら、時代の核心を映す人物

足利義昭の後世評価を総合すると、彼は確かに勝者ではありません。信長との対立に敗れ、京都を追われ、室町幕府は終わりました。軍事的な成功を基準にすれば、義昭は失敗した将軍です。しかし、歴史上の人物を勝敗だけで評価するなら、義昭の本質は見えてきません。彼は、戦国時代における権威と実力の対立を体現した人物でした。将軍という古い権威を持ちながら、実際の軍事力では新興の戦国大名に及ばない。その矛盾の中で、義昭は信長を利用し、信長に利用され、やがて信長に対抗しました。彼の行動には失敗も多く、判断の甘さもありましたが、同時に最後まで政治的主体であろうとする意思もありました。後世の歴史家にとって義昭が重要なのは、彼が最後の将軍だからだけではありません。彼の人生を追うことで、室町幕府がなぜ終わったのか、信長の新秩序がどのように生まれたのか、戦国大名たちが名分と実力をどのように使い分けたのかが見えてくるからです。足利義昭は、英雄として称えられる人物ではないかもしれません。しかし、戦国時代の転換点を理解するうえで欠かせない人物です。敗者でありながら、時代の核心を映し出す鏡のような存在。それが、後世から見た足利義昭の大きな評価だと言えるでしょう。

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■ 登場する作品(書籍・テレビ・ゲームなど)

足利義昭は「最後の将軍」として物語に登場しやすい人物

足利義昭は、戦国時代を扱う作品の中で、主役級として描かれることはそれほど多くありません。しかし、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、毛利氏、石山本願寺、朝倉氏、浅井氏などを描く作品では、物語の重要な転換点に登場しやすい人物です。なぜなら義昭は、室町幕府最後の将軍であり、信長の上洛、将軍就任、信長との対立、信長包囲網、京都追放という、戦国後期の大事件と深く関わっているからです。義昭が登場すると、物語は単なる合戦劇ではなく、「古い権威と新しい実力の衝突」というテーマを帯びます。信長が天下を目指す作品では、義昭は最初に信長へ大義名分を与える存在として現れます。一方で、物語が進むと、信長にとって邪魔な旧秩序の代表者となり、両者の関係は協力から対立へ変化します。この流れはドラマ性が強く、脚本上も扱いやすい構図です。そのため、足利義昭は「強い武将」ではなくても、「時代の変化を映す人物」として、多くの作品に登場します。

テレビドラマにおける足利義昭の描かれ方

テレビドラマ、とくにNHK大河ドラマのような戦国時代劇では、足利義昭はしばしば織田信長や明智光秀の物語に関わる人物として登場します。義昭が登場する場面は、兄・足利義輝の死後に将軍家再興を目指す場面、明智光秀や細川藤孝らと関わる場面、信長に上洛を促す場面、そして信長と対立していく場面などが中心になります。昔の作品では、義昭はどちらかといえば頼りなく、権威ばかりを振りかざす人物として描かれがちでした。信長を英雄的に描く場合、義昭はその進路を妨げる旧時代の象徴として配置されます。見た目や言動も、気位が高いが実力が伴わない人物、周囲に流されやすい人物、腹の底で信長を警戒する人物として表現されることが多くありました。しかし近年の作品では、義昭の描かれ方にも変化が見られます。単なる暗愚な将軍ではなく、室町幕府の再建を真剣に考え、信長との関係に苦悩し、将軍としての責任を背負おうとする人物として描かれることも増えています。これは歴史研究における義昭再評価の流れとも重なります。義昭は敗れた人物ではありますが、何も考えずに時代に取り残された人物ではなく、限られた条件の中で自分の権威を守ろうとした政治家として見ることができるからです。

『麒麟がくる』における足利義昭

足利義昭が近年とくに印象的に描かれた作品として、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』があります。この作品では、明智光秀を中心に戦国の政治と理想が描かれ、足利義昭も重要人物の一人として登場します。『麒麟がくる』の義昭は、単なる権力欲の強い将軍というより、もともと僧として生きていた人物が、兄・義輝の死や時代の混乱に押し出されるように政治の表舞台へ立つ存在として描かれます。彼は弱さや迷いを抱えながらも、将軍家を再興しようとします。そして明智光秀との関係を通じて、義昭の人間的な面や、理想と現実の間で揺れる姿が強調されます。この描き方は、従来の「無能な最後の将軍」というイメージとは少し違います。義昭は人を信じたい気持ちを持ち、政治に理想を求めながらも、信長の巨大な力の前で次第に追い詰められていきます。信長との対立も、単純な反逆ではなく、将軍としての自立を守ろうとする苦悩として表現されます。そのため『麒麟がくる』の義昭は、視聴者にとって憎まれ役というより、時代に翻弄された悲劇的な人物として記憶されやすい存在になっています。

『どうする家康』などで見られる個性的な義昭像

戦国時代を扱う作品では、足利義昭がコミカル、あるいは癖の強い人物として描かれる場合もあります。とくに信長や家康、秀吉を中心にした作品では、義昭は物語の主役ではないため、短い登場時間の中で強い印象を残す必要があります。そのため、演出上、誇張された性格づけが行われることがあります。たとえば、気位が高く、周囲を見下すような将軍。あるいは、表面上は優雅に振る舞いながら、内心では信長を恐れ、嫉妬し、策を巡らせる人物。さらに作品によっては、白塗りや派手な衣装、芝居がかった言い回しによって、旧権威の滑稽さを象徴するように描かれることもあります。このような義昭像は、歴史的実像そのものというより、物語の中で「古い秩序の終わり」を分かりやすく示すための演出です。信長や家康の合理性、行動力、現実主義を目立たせるために、義昭が対照的な人物として置かれるのです。ただし、こうした描写も一概に悪いとは言えません。義昭という人物は、将軍という高い格式を持ちながら実力の面では信長に及ばないという矛盾を抱えています。その矛盾を、時に悲劇として、時に喜劇として描けるところに、義昭というキャラクターの作品上の面白さがあります。

小説・漫画における足利義昭の役割

歴史小説では、足利義昭は信長、光秀、秀吉、毛利氏などの物語に絡む重要な脇役として描かれることが多い人物です。信長を主人公にした小説では、義昭は最初、信長に上洛の大義を与える貴重な人物として扱われます。しかし、やがて信長の権力が大きくなるにつれ、義昭は信長の進む道を妨げる存在へ変わっていきます。この変化は、物語の緊張感を高めるうえで重要です。明智光秀を主人公にした小説では、義昭はより複雑な人物として描かれることがあります。光秀は足利幕府や細川藤孝との関係を通じて義昭に近い立場にいたとされるため、義昭の存在は光秀の政治観や信長への思いを考えるうえで欠かせません。漫画作品における足利義昭は、作品の方向性によって描かれ方が大きく変わります。シリアスな歴史漫画では、義昭は室町幕府最後の将軍として、重い宿命を背負った人物として描かれます。一方で、エンターテインメント性の強い戦国漫画では、義昭は個性的な脇役として誇張されることもあります。弱々しく臆病な公方、権威にすがる人物、あるいは意外に腹黒く策を巡らせる人物など、作風に応じてさまざまな姿になります。

ゲーム『信長の野望』シリーズにおける足利義昭

戦国時代のゲームで足利義昭が登場する代表的なものとして、歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』シリーズが挙げられます。このシリーズでは、足利義昭は武力で敵をなぎ倒す猛将というより、政治的価値や名声、外交上の意味を持つ人物として扱われることが多いです。ゲームの作品によって能力値や役割は異なりますが、義昭は室町幕府最後の将軍として、信長の上洛や畿内情勢に関わる存在になります。プレイヤーが織田家を操作する場合、義昭を奉じることは史実イベントや政治展開に関わることがあります。また、足利家や将軍勢力が登場するシナリオでは、弱体化した名門勢力をどう立て直すかという遊び方もできます。義昭自身は戦闘能力で突出するタイプではありませんが、将軍家という肩書きはゲーム上でも独特の存在感を持ちます。『信長の野望』のようなシミュレーションゲームでは、戦国時代が単なる合戦の連続ではなく、外交、家名、官位、同盟、名分によって動いていたことが分かります。その意味で、義昭はゲーム内でも「武力は弱いが、歴史的意味は大きい人物」として位置づけられています。

『戦国無双』シリーズや戦国体験型ゲームでの足利義昭

アクションゲーム系の戦国作品でも、足利義昭は登場することがあります。『戦国無双』シリーズでは、作品によって史実人物の個性が大きく演出され、足利義昭も室町幕府の将軍として独特の立場を持つ人物として描かれます。こうしたゲームでは、プレイヤーが直接操作する武将や、物語の進行に関わる人物として、義昭の性格づけが分かりやすく表現されます。義昭は剛勇な戦士というより、将軍家の格式を意識しながらも、現実の危険に怯えたり、信長の力に圧倒されたりする人物として描かれやすいです。また、『太閤立志伝』のような戦国体験型ゲームでは、プレイヤーが一武将として成り上がったり、歴史上の人物と関係を築いたりする中で、義昭の存在は畿内政治や信長の上洛に関わる重要な要素になります。こうしたゲームでは、義昭を単なる敵味方の駒として見るのではなく、プレイヤーの行動によって歴史の流れが変わる可能性を感じられる点が魅力です。もし義昭を支える勢力が強ければ、室町幕府がもう少し長く続く展開も想像できます。

歴史解説書・人物伝における足利義昭

書籍の中でも、歴史解説書や人物伝では足利義昭は重要な人物として取り上げられます。戦国時代の通史では、義昭は織田信長の上洛、室町幕府の終焉、信長包囲網を説明するうえで欠かせない存在です。人物伝では、彼の生涯を「仏門から将軍へ」「信長との協力と対立」「鞆の浦での亡命政権」「豊臣政権下の晩年」といった流れで整理することが多いです。近年の解説書では、義昭を単なる暗愚な将軍として扱うのではなく、室町幕府の残された権威をどう使ったのか、信長とどのように主導権争いをしたのか、京都追放後もどの程度政治的影響を持っていたのかに注目する傾向があります。こうした書籍を読むと、義昭の印象は大きく変わります。ドラマやゲームでは分かりやすいキャラクターとして描かれるため、頼りない人物や滑稽な人物に見えることもありますが、歴史解説書では、彼が置かれていた政治状況の難しさが詳しく説明されます。義昭は強大な軍事力を持たないにもかかわらず、信長、武田、本願寺、毛利といった大勢力の間で生き残ろうとしました。その姿は、戦国時代の権威と実力の関係を学ぶうえで非常に興味深い題材です。

足利義昭が創作作品で担う意味

創作作品における足利義昭の役割は、単に「最後の将軍を出す」というだけではありません。彼が登場することで、戦国時代の物語に深い政治的テーマが加わります。武力で天下を切り開く信長に対して、義昭は血筋と官職と格式を持つ人物です。新しい時代を作ろうとする者と、古い秩序を守ろうとする者。この対比は、戦国作品において非常に強いドラマを生みます。また義昭は、権威が完全に無力ではなかったことを示す人物でもあります。信長は義昭を必要とし、反信長勢力も義昭の名分を利用しました。つまり義昭は、弱いようでいて、物語を動かす力を持っています。創作作品では、この矛盾が魅力になります。戦えば弱いかもしれない。しかし、存在そのものが政治を動かす。逃げてもなお、書状一つで大名たちの行動に影響を与える。こうした人物は、戦国作品の中で非常に独特です。足利義昭は、華々しい武勇で読者や視聴者を惹きつける人物ではありませんが、時代の構造を理解させるためには欠かせない人物です。だからこそ、テレビ、書籍、漫画、ゲームなど、さまざまな媒体で繰り返し登場し続けているのです。

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■ IFストーリー(もしもの物語)

もし足利義昭が織田信長と決裂しなかったら

もし足利義昭が織田信長と決定的に対立せず、最後まで協力関係を保っていたなら、室町幕府の終わり方はかなり違ったものになっていたかもしれません。史実では、義昭は信長の力を借りて上洛し、第15代将軍となりました。しかし将軍になった後、義昭は信長の支配下に置かれることを嫌い、信長もまた義昭の独自政治を警戒したため、両者の関係は悪化していきました。もし義昭がここで「将軍としての実権回復」よりも「名誉ある将軍として生き残る道」を選んでいたなら、信長は義昭を京都から追放せず、室町幕府の看板をしばらく残した可能性があります。つまり、信長が実際の政治と軍事を握り、義昭が形式上の将軍として存在し続けるという二重構造です。この形になれば、信長は朝廷や諸大名に対して「将軍を支える天下の実力者」という立場を維持でき、義昭もまた室町幕府最後の将軍として、より長く京都に残れたでしょう。信長が義昭を完全に排除する必要がなくなれば、天正元年の京都追放も起こらず、室町幕府は名目上、信長政権の中に組み込まれる形で存続したかもしれません。

信長政権の中に残る「名目上の室町幕府」

このIFでは、足利義昭は実権を大きく譲る代わりに、将軍としての格式を守ります。信長は義昭に対して、政務の決定権や諸大名への命令権を厳しく制限しますが、その代わりに将軍家としての待遇、御所、儀礼、朝廷との関係を保証します。義昭は不満を抱えつつも、兄・義輝のように武力で排除される危険を避けるため、現実的な妥協を選ぶのです。すると京都には、足利将軍と織田政権が並び立つような奇妙な秩序が生まれます。表向きには将軍義昭が武家の棟梁であり、信長はその補佐役。しかし実際には、信長が軍事・財政・人事・外交を握り、義昭は儀礼的な承認を与える存在になります。この構造は、義昭にとって屈辱ではありますが、完全な敗北ではありません。室町幕府という名前を残し、足利家の血筋を次代へつなぐことができるからです。一方、信長にとっても利点があります。諸大名を討伐する際、将軍の名を利用できるため、自分の軍事行動に正当性を加えやすくなります。反信長勢力が「将軍のために戦う」という名分を失うため、信長包囲網は史実よりも形成されにくくなったでしょう。

もし信長包囲網が弱体化していたら

義昭が信長と決裂しなければ、信長包囲網の性格は大きく変わります。史実では、義昭の呼びかけが反信長勢力に名分を与え、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺、毛利氏などが信長を圧迫する構図が生まれました。しかし義昭が京都で信長と協調していた場合、反信長勢力は「将軍を助ける」という看板を掲げにくくなります。浅井・朝倉、本願寺、武田が信長に敵対する理由は残りますが、それはあくまで各勢力の利害に基づく戦いとなり、広い意味での「反信長連合」としてのまとまりは弱くなるでしょう。とくに武田信玄が西上する場合でも、将軍義昭が信長側にいるなら、信玄は別の大義名分を探さなければなりません。信長にとっては、東西南北から一斉に圧迫される危険が小さくなります。浅井・朝倉を攻める余裕も増え、本願寺との戦いも史実より有利に進められたかもしれません。義昭は表向き信長に従うことで、自分の権威を減らす代わりに、信長の敵から「利用される旗印」になることを避けます。この選択は、義昭個人の誇りを傷つけるものですが、足利家の延命策としては現実的だった可能性があります。

もし朝倉義景が義昭を奉じて上洛していたら

別のIFとして、義昭が織田信長ではなく、朝倉義景によって京都へ入っていた場合も考えられます。史実では、義昭は越前の朝倉氏を頼りましたが、朝倉義景は積極的に上洛へ動きませんでした。もし義景がここで大胆な決断をし、義昭を奉じて軍を起こしていたなら、戦国後期の主導権は大きく変わった可能性があります。朝倉氏は名門であり、越前を支配する安定した勢力でした。義昭を保護し、将軍に就けることができれば、朝倉氏は「将軍を支えた大名」として畿内政治に大きな影響力を持つことになります。この場合、信長は義昭を奉じる大義名分を失い、京都進出の政治的正当性を得にくくなります。信長がいかに軍事的に強くても、将軍候補を擁した朝倉氏が先に京都を押さえれば、織田家の天下布武は史実よりも難しくなったでしょう。ただし、このIFには大きな問題もあります。朝倉義景は慎重な大名であり、信長ほどの迅速な行動力や大胆な政治構想を持っていたとは言い切れません。仮に上洛に成功しても、畿内の三好勢力、松永久秀、近江の浅井氏、尾張・美濃の信長といった複雑な勢力をまとめる必要があります。朝倉氏が義昭を支える政権を作れたとしても、それが長続きしたかは分かりません。

もし武田信玄が病没せず、義昭の呼びかけに応えて上洛していたら

義昭のIFで最も劇的なのは、武田信玄が病没せず、西上を続けていた場合です。史実では、信玄は織田・徳川勢力を圧迫しながら西へ進みましたが、途中で病に倒れ、武田軍は撤退しました。もし信玄が健康を保ち、さらに西へ進軍していたなら、義昭の反信長構想は現実味を帯びていたでしょう。信玄が徳川家康をさらに追い詰め、信長の東側を大きく揺さぶれば、信長は畿内で義昭や本願寺、浅井・朝倉に対処する余裕を失います。義昭は京都で信長に対抗するだけでなく、信玄という強大な軍事力を背景に、将軍としての主導権を取り戻す可能性がありました。もし信玄が畿内へ近づき、義昭と連携する形になれば、信長は京都支配を維持できなくなったかもしれません。この場合、義昭は信玄を「将軍を支える大名」として迎え、信長を討伐対象に位置づけます。信玄にとっても、将軍義昭の名分は上洛の正当性を補強する材料になります。武田軍が京都へ入れば、室町幕府は武田氏を後ろ盾として再建されるという、まったく別の歴史が生まれた可能性があります。しかし、武田信玄が義昭を支えたからといって、義昭が本当に主導権を握れたかは別問題です。信玄は信長に対抗できるほどの大大名であり、軍事力も政治力も高い人物でした。もし信玄が義昭を奉じて京都へ入った場合、義昭は信長の代わりに信玄へ依存することになります。信玄が将軍の権威を尊重する姿勢を見せたとしても、実際の軍事と政務は武田氏が握るでしょう。義昭は信長の支配を嫌って反抗しましたが、武田氏の強い影響下に置かれれば、同じような不満を抱いた可能性があります。

もし足利義昭が独自の軍事基盤を持っていたら

足利義昭の最大の弱点は、将軍としての権威に比べて、直属の軍事力が弱かったことです。もし義昭が京都周辺に強固な直轄領を持ち、幕臣団を再編し、数万規模の兵を自ら動かせる立場だったなら、信長との関係はまったく違うものになっていたでしょう。信長は義昭を奉じて上洛しても、将軍を簡単に制御できなくなります。義昭が自前の軍事力を持っていれば、信長は将軍の権限を制限する際にも慎重にならざるを得ません。義昭は諸大名へ命令を出すだけでなく、自ら軍を動かして畿内を統制し、三好勢力や松永久秀にも圧力をかけられます。そうなれば、室町幕府は単なる名目上の存在ではなく、再び実効性を持つ政権として復活した可能性があります。ただし、このIFを実現するには、義昭が将軍になる以前から大きな領国基盤を持っている必要があります。室町幕府は応仁の乱以降、直轄的な支配力を大きく失っており、義昭が短期間で軍事基盤を整えるのは困難でした。つまり、義昭の失敗は本人の能力だけではなく、彼が受け継いだ幕府の構造的な弱さにも原因がありました。

もし明智光秀が最後まで義昭側に残っていたら

明智光秀が織田信長の重臣となるのではなく、足利義昭の側近として最後まで行動していたら、義昭の政治力はかなり変わっていたかもしれません。光秀は実務能力、教養、軍事指揮、外交感覚を兼ね備えた人物として描かれることが多く、義昭にとっては非常に貴重な人材です。もし光秀が義昭の幕臣として幕府再建に尽くしていたなら、義昭は信長との交渉、諸大名への働きかけ、畿内の統治において、より現実的な戦略を取れた可能性があります。光秀は信長の強さを理解しつつ、旧幕府や朝廷の権威にも通じる人物です。そのため、義昭が感情的に信長と衝突する前に、妥協案を作る役割を果たしたかもしれません。たとえば、義昭が将軍としての面目を保ち、信長が実権を握るという分担を制度化する道です。逆に、光秀が義昭の側で反信長工作を指揮した場合、信長包囲網は史実よりも緻密になった可能性もあります。武田、本願寺、毛利、朝倉、浅井との連絡を整理し、軍事行動の時期を合わせることができれば、信長はより苦しい立場に追い込まれたでしょう。義昭に足りなかった「実務をまとめる有能な参謀」が光秀だったと考えれば、このIFは非常に大きな意味を持ちます。

もし義昭が本能寺の変後に素早く動いていたら

本能寺の変で信長が倒れた時、義昭にとっては最大の好機だったとも考えられます。長年の敵である信長が突然消え、織田政権は一時的に混乱しました。もし義昭がこの瞬間に毛利氏や旧幕臣、畿内の反織田勢力を結集し、すばやく京都復帰を目指していたなら、室町幕府再興の可能性がわずかに生まれたかもしれません。特に本能寺の変の直後は、羽柴秀吉も中国方面から急いで戻る途中であり、柴田勝家や徳川家康などもそれぞれの立場で動いていました。ここで義昭が「将軍復帰」を掲げ、毛利氏が全面的に支援すれば、織田家中の後継争いに別の軸が加わります。旧幕府勢力が京都に入り、朝廷から再び政治的承認を得ることができれば、義昭は信長亡き後の混乱を利用して復権する道を探れたでしょう。しかし現実には、秀吉の行動が非常に速く、山崎の戦いで明智光秀を破ったことで、天下の主導権は一気に秀吉へ傾きました。義昭が動くには、距離、軍事力、支援者の意思、情報伝達の速度など、あまりに多くの制約がありました。好機はあったとしても、それをつかむ条件が足りなかったのです。

もし豊臣秀吉が義昭を再び将軍として利用していたら

豊臣秀吉が天下統一を進める中で、もし足利義昭を再び将軍として利用していたら、豊臣政権の形も少し変わっていたかもしれません。史実の秀吉は、関白という公家政権的な権威を利用し、武家の棟梁である征夷大将軍ではなく、朝廷の高位官職を通じて天下人となりました。もし秀吉が義昭を担ぎ、足利将軍家の名のもとに全国統一を進める道を選んでいたなら、豊臣政権は「将軍を補佐する実力者」という形になった可能性があります。しかし秀吉にとって、それは得策ではなかったでしょう。義昭を将軍として復帰させれば、足利家の権威が再び政治の中心に置かれます。秀吉は自分の出自の問題を乗り越えるために朝廷権威を利用しましたが、足利将軍家を前面に出すと、自分の立場が将軍の下に見えてしまいます。そのため、秀吉は義昭を一定の格式で遇しながらも、政治の中心には戻しませんでした。このIFを考えると、秀吉の判断の巧みさが分かります。義昭を粗末に扱えば旧権威への反発を招く。しかし重く用いすぎれば、自分の政権の正当性が義昭に依存してしまう。秀吉はその中間を選び、義昭を歴史的権威として尊重しつつ、新しい天下人の座は自分で握ったのです。

もし義昭が「戦わない将軍」として割り切っていたら

足利義昭の人生を大きく変えた分岐点は、信長に対抗するか、信長のもとで生き残るかという選択でした。もし義昭が早い段階で「自分は実権を争わない」と割り切っていたら、彼はもっと平穏な生涯を送れたかもしれません。将軍としての格式を保ち、朝廷儀礼や幕府の伝統行事に専念し、実際の政治は信長に任せる。そうすれば、信長も義昭を追放する必要はなく、義昭は京都で高い身分を保ったまま晩年を迎えた可能性があります。この場合、義昭は歴史上「最後の将軍」ではあっても、「信長に反抗した将軍」ではなく、「織田政権に組み込まれた象徴的将軍」として記憶されたでしょう。しかし義昭にとって、それは簡単な選択ではありません。彼は足利将軍家の人間であり、兄・義輝が将軍権威を守ろうとして命を落としたことも知っています。自分がただの飾りになることは、将軍家の誇りを捨てることにも見えたはずです。義昭が信長に逆らったのは、単なる意地ではなく、足利家の正統性を守ろうとする意識があったからです。そのため、このIFは穏やかな未来をもたらす一方で、義昭らしさを失わせる選択でもあります。

もし足利義昭が室町幕府を再建できていたら

最後に、もっとも大きなIFとして、義昭が室町幕府の本格的な再建に成功していた場合を考えることができます。義昭が信長、朝倉、武田、毛利、本願寺などの力をうまく調整し、特定の大名に支配されすぎない形で幕府を再構築できていたなら、日本の近世への移行はかなり違ったものになったでしょう。義昭は将軍として諸大名の争いを調停し、朝廷と武家の間に立ち、畿内の安定を回復する。信長のような一人の天下人が全国を統一するのではなく、足利将軍を中心に複数の有力大名が連合する政権が成立する可能性があります。この場合、中央集権的な統一は遅れ、戦国大名の自立性が残る連合政権的な日本になったかもしれません。ただし、この政権は非常に不安定だったでしょう。各大名は自家の利益を優先し、将軍の命令に完全には従わない可能性が高いからです。応仁の乱以降の室町幕府がそうであったように、義昭の再建幕府も、強力な調停力を失えばすぐに分裂したかもしれません。それでも、義昭が成功していれば、織田・豊臣・徳川へ続く天下統一の流れは大きく変わり、「足利幕府の第二の再興」という別の歴史が語られていた可能性があります。

IFから見えてくる足利義昭の本質

足利義昭のIFストーリーを考えると、彼の人生がいくつもの分岐点に満ちていたことが分かります。朝倉義景が動いていたら、信長と決裂しなかったら、武田信玄が生きていたら、明智光秀が幕府側に残っていたら、本能寺の変後に素早く動けていたら。どれか一つが違えば、義昭の運命だけでなく、戦国時代後期の政治構造そのものが変わっていた可能性があります。しかし、どのIFにも共通しているのは、義昭が常に「誰かの軍事力」を必要としている点です。義昭には将軍としての権威がありましたが、それを実現するための武力が足りませんでした。だからこそ彼は、信長、朝倉、武田、毛利、本願寺といった勢力との関係に運命を左右されました。足利義昭は、無力だったから何もできなかった人物ではありません。むしろ、限られた手札で何度も歴史を動かそうとした人物です。ただし、その手札は最後まで他者の力に依存していました。IFを重ねるほど、義昭の可能性と限界がはっきり見えてきます。彼は時代を変えるだけの名分を持っていました。しかし、時代を制するだけの実力を持っていませんでした。その差が、足利義昭という人物の悲劇であり、同時に戦国時代の面白さでもあるのです。

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