『志駄義秀』(戦国時代)を振り返りましょう

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【時代(推定)】:安土桃山時代~江戸時代

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■ 概要・詳しい説明

志駄義秀とはどのような武将だったのか

志駄義秀(しだ・よしひで)は、戦国時代末期から安土桃山時代を経て、江戸時代前期まで上杉家に仕え続けた武将である。華々しい一騎打ちや大軍を率いた決戦だけで名を残した人物ではなく、城の守備、領国経営、軍道の整備、金山の管理、軍役の統率、藩政の運営など、上杉家が必要とした多様な仕事を着実に担った実務型の家臣として評価できる。上杉謙信の時代に家臣として成長し、謙信没後は上杉景勝を支持して御館の乱を戦い、直江兼続の指揮下では与板衆の中心人物として活動した。さらに上杉家が越後から会津、米沢へと本拠を移す激動の時代にも主家から離れず、晩年には米沢藩の政務を担う重職にまで進んでいる。いわゆる「上杉二十五将」の一人として名前を挙げられることもあり、上杉家臣団を代表する武将の一人として後世に知られている。生年は永禄3年(1560年)、没年は寛永9年(1632年)とされ、上杉謙信、上杉景勝、上杉定勝という三代の主君に仕えた長い経歴を持つ。戦国乱世に生まれ、豊臣政権の全国統一、関ヶ原の戦い、徳川幕府の成立、大坂の陣、米沢藩政の確立までを経験した点でも、戦国武将から近世の藩士へと武士の役割が変化していく過程を体現した人物だった。

永禄3年に生まれた志駄氏の後継者

義秀は永禄3年(1560年)、越後国を支配する長尾・上杉氏に仕えていた志駄義時の子として生まれたとされる。幼名は隺千代、あるいは鶴千代と表記され、成人後は源四郎を通称とし、修理亮を称した。資料によっては志田義分などの別名も伝えられている。志駄氏は「志田氏」と表記される場合もあり、家の伝承では清和源氏の流れをくみ、源為義の子とされる志太三郎先生義広を祖とする一族と説明されている。越後では三島郡夏戸を拠点とし、夏戸城を中心に地域支配を行った在地領主であった。夏戸は現在の新潟県長岡市寺泊地域に当たり、海岸部と内陸部を結ぶ交通上の要所に近い。志駄氏は上杉家中で最大級の領地を持つ大身ではなかったものの、独自の所領と家臣を抱える国人領主として一定の軍事力を持ち、長尾氏から上杉氏へと続く越後の支配体制を支えていた。義秀はその家の後継者として誕生したが、穏やかな環境で成長することはできなかった。生後間もなく父を失い、志駄家の存続そのものが危ぶまれる状況に置かれたからである。

父・志駄義時の戦死と幼少期の苦難

義秀が生まれた翌年の永禄4年(1561年)、父の志駄義時は上杉政虎、後の上杉謙信に従って第四次川中島の戦いに出陣し、戦死したと伝えられる。義時は当時まだ十九歳ほどだったともいわれ、義秀はわずか二歳で父の遺領と家名を継ぐ立場になった。もちろん幼児に城や領地を管理することはできないため、祖父の志駄春義が後見役となり、志駄家を支えた。しかし、その春義も永禄6年(1563年)に亡くなったとされる。母も比較的早い時期に死去したとみられ、義秀は幼少のうちに父、祖父、母という身近な保護者を相次いで失ったことになる。戦国時代の武家では、幼い当主が誕生すると一族や家臣の分裂、周辺勢力による所領侵食、主家からの家督介入などが起こりやすかった。志駄家も、本来ならば断絶や所領没収に追い込まれても不思議ではない状況だった。しかし義秀は、母方につながる直江氏の庇護を受けることで成長する機会を得た。幼くして当主となった経験は、義秀の生涯に大きな影響を与えたと考えられる。自身の家だけで独立して生き残ることが難しい現実を早くから知り、主家や有力家臣との信頼関係を重視する姿勢を身につけた可能性が高い。後年の義秀が直江氏との結び付きを保ち、上杉景勝や直江兼続を支え続けた背景には、幼少期に受けた保護への恩義もあったのだろう。

直江家の庇護を受けて育った少年時代

義秀の母は、上杉謙信の重臣として政務を担った直江景綱の姉妹とされる。この血縁関係によって、孤児同然となった義秀は母方の直江家に引き取られ、景綱の妻である後室から養育を受けたと伝わる。さらに成長後には、景綱の後室に関係する女性を妻に迎えたともいわれ、志駄家と直江家の結び付きは単なる主従関係を越えたものとなった。天正6年(1578年)に上杉景勝が発給した文書では、志駄氏が「直江一家之侍」に当たる存在として扱われている。これは義秀が直江家の家臣団に深く組み込まれ、直江氏と一体に近い関係を築いていたことを示している。直江景綱は上杉謙信のもとで奉行人として働き、軍事だけでなく外交、文書行政、領国統治にも関わった人物である。その直江家の環境で育った義秀は、武芸や騎馬戦術だけでなく、年貢の収納、所領の管理、家臣団の統率、書状の作成、城郭や交通路の整備といった領主として必要な知識を学んだと考えられる。後年、義秀が金山奉行、城代、政務奉行などを務められたのは、生来の能力だけでなく、直江家で受けた教育や実務経験が大きかったのであろう。幼少期の不幸は義秀から肉親を奪った一方で、上杉家中屈指の行政家を輩出した直江氏との強固な関係を生み出した。

上杉謙信に仕えた青年期

成人した義秀は、父や祖父と同じく上杉謙信に仕えた。義秀が本格的に家臣として活動し始めた時期の詳しい記録は限られているが、十代半ば頃までには志駄家の当主として軍役を負い、越後国内の警備や遠征準備に携わっていたと考えられる。謙信の晩年、上杉家は越後国内を統一しただけでなく、関東、信濃、越中、能登方面へ軍事行動を展開していた。家臣には戦場で槍を振るう能力だけでなく、兵糧や武器を準備し、所領から兵士を集め、遠征先で城を守り、占領地を管理する能力が求められた。義秀は若い頃から、こうした上杉軍団の仕組みの中で経験を積んだのであろう。謙信は天正6年(1578年)3月に急死するが、この時の義秀は十九歳前後であった。父が川中島で戦死してから約十七年が経過し、義秀はようやく自らの判断で志駄家を率いる年齢に達していた。しかし、主君の突然の死によって上杉家は再び大きな危機を迎える。謙信が明確な後継者を定めないまま亡くなったため、養子の上杉景勝と上杉景虎が家督を争う御館の乱が始まったのである。

御館の乱で上杉景勝を選んだ決断

御館の乱において、義秀は上杉景勝の陣営に加わった。景勝は謙信の姉である仙桃院の子であり、越後上田長尾氏の出身だった。一方の景虎は相模の北条氏康の子で、北条氏や武田氏との外交関係を背景に一定の支持を集めていた。上杉家中の諸将は血縁、所領、地域的な結び付き、将来の利害を考えて二派に分かれ、越後各地で激しい戦闘を繰り広げた。義秀が景勝方についた理由には、彼を養育した直江家の動向が大きく関係していたと考えられる。直江家は景勝方の政権を支える中心的な家であり、義秀にとって景勝支持は、育ての家と行動を共にする選択でもあった。義秀はこの争乱で戦功を立て、景勝からその働きを認められた。幼い頃に他家の庇護を受けて家を存続させた義秀にとって、御館の乱は初めて自らの力で志駄家の立場を守り抜いた戦いだったともいえる。景勝方の勝利後、義秀は新体制のもとで信頼を獲得し、以後は景勝政権を支える家臣として活動の場を広げていった。御館の乱での選択は、義秀の一生を決めた重要な転機であり、その後五十年以上にわたる景勝と志駄家の主従関係の出発点となった。

与板衆筆頭として直江兼続を支える

御館の乱が終結すると、義秀は直江兼続の指揮下に置かれ、与板衆の中心人物として働いた。与板衆とは、直江氏が本拠とした越後国与板周辺の家臣や与力をまとめた軍事・行政集団である。義秀は直江家の近親者に近い立場でありながら、独自の所領と家臣を持つ志駄家当主でもあったため、直江氏と周辺国人を結び付ける役割を果たした。天正9年(1581年)には信濃国の大須賀氏に関係する反乱の鎮圧に携わり、翌天正10年(1582年)には越中国の松倉城将となって、北陸へ進出していた織田氏の勢力と対峙したとされる。松倉城は越中東部を押さえる重要な山城であり、そこを任されたことは、義秀が単なる一部隊の指揮官ではなく、国境防衛を任せられる武将として認められていたことを意味する。その後も義秀は兼続のもとで各地の軍事行動や領国支配に参加した。文禄3年(1594年)の記録では、与板衆として千五百六十三石ほどの知行を持ち、九十三人余りの軍役を負担していたとされる。戦国大名の家臣に課された軍役人数は、その家臣が戦時に動員すべき武士、足軽、従者などの規模を示すものであり、義秀が与板衆の中でも相当な兵力を任されていたことが分かる。

武将から領国経営の実務家へ

豊臣秀吉による全国統一が進むと、大名や家臣に求められる能力も変化した。合戦で敵を破るだけでなく、検地を行い、年貢を集め、鉱山を管理し、城下町や街道を整備することが重要になった。義秀はこの変化に適応し、軍事指揮官から行政実務家へと活動の幅を広げた。文禄4年(1595年)頃には、直江兼続のもとで出羽国庄内地方の経営に関わり、庄内金山の奉行や大宝寺城代などを務めている。金山奉行は採掘された金の量を把握し、労働力や物資を管理し、産出物を主家の財政へ組み込む重要な職である。大宝寺城代も、城の守備だけでなく、周辺領民の統治、年貢収納、治安維持、地域の有力者との交渉を行う必要があった。義秀がこれらの仕事を任されたことから、景勝や兼続が彼の慎重さ、計算能力、統率力を高く評価していたことがうかがえる。義秀は猛将一辺倒ではなく、戦時には軍勢を率い、平時には帳簿と法令を扱うことのできる人物だった。こうした性格こそ、後に米沢藩の政務奉行へ進む基礎となった。

会津移封と東禅寺城への配置

慶長3年(1598年)、上杉景勝は豊臣秀吉の命令によって越後から会津百二十万石へ移された。上杉領は会津だけでなく、置賜、庄内、佐渡など離れた地域を含んでいたため、各地の要衝に信頼できる重臣を配置する必要があった。義秀は庄内地方の東禅寺城将に任命され、五千百石を与えられた。東禅寺城は現在の山形県酒田市にあった城で、後に亀ヶ崎城と呼ばれるようになる。酒田周辺は最上川の河口と日本海交通を押さえる経済上の重要地域であり、東には最上義光の領国が広がっていた。義秀の配置は単なる栄転ではなく、上杉領の北西部を守り、最上氏を監視する重大な任務だった。また義秀は、直江兼続が進めた朝日軍道の開削にも関わった。朝日軍道は庄内と置賜・会津方面を山越えで結ぶ軍事道路で、上杉領内の連絡を確保し、兵士や物資を移動させるために必要だった。険しい山岳地帯に道を通す工事には、多数の人夫、食料、工具、宿泊施設、周辺村落との交渉が必要であり、義秀の行政能力が生かされた事業だったといえる。

関ヶ原後の苦境と二度の帰参

慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成の対立が全国規模の戦争へ発展すると、上杉家も最上氏との戦いに入った。義秀は庄内方面の部隊を率いて最上領へ進み、城や集落を攻略したが、関ヶ原本戦で西軍が敗れたとの報告を受けて東禅寺城へ退いた。翌慶長6年(1601年)には最上軍の攻撃を受け、長期間防戦した後に開城して米沢方面へ撤退した。上杉家は会津百二十万石から米沢三十万石へ大幅に減封され、多くの家臣が所領を失った。義秀も敗戦責任などを問われたとみられ、高野山での蟄居を命じられた。しかし慶長8年(1603年)には上杉家へ戻り、荒砥城代として千石を与えられた。慶長12年(1607年)には幕府の意向によって再び蟄居したとされるが、慶長16年(1611年)には再度帰参し、侍大将に任じられている。二度にわたり処分を受けながら、その都度復帰できたことは、義秀の能力と経験が上杉家にとって代え難いものだったことを示している。主家への忠誠を疑われて追放された人物であれば、藩の軍事指揮官や政務担当者として再登用されることは難しい。義秀の蟄居には、関ヶ原後の政治的な事情や徳川幕府への配慮が強く影響していたと考えられる。

米沢藩政を支えた晩年

義秀は慶長19年(1614年)から始まる大坂の陣にも従軍したとされ、五十代半ばを迎えても軍務に携わった。その後、戦乱が収まって徳川幕府の支配が安定すると、義秀の役割は藩政の運営へ移っていく。元和8年(1622年)には諸司代や奉行郡代などを歴任し、やがて政務奉行、すなわち国家老に相当する重職へ進んだ。同年、最上家が改易された際には、その旧領処理に関係する奉行も務めたという。元和9年(1623年)に上杉景勝が亡くなると、義秀は後継者の上杉定勝にも仕え、翌年には定勝の婚儀に関する実務を取り仕切った。婚儀は大名家同士の政治的な結び付きを形にする重要な儀礼であり、幕府や諸大名への連絡、行列、警備、贈答、費用、式次第などを整える必要がある。その責任者を任されたことからも、晩年の義秀が藩内で高い信用を得ていたことが分かる。米沢奉行へ任じられた頃には、知行が二千石へ加増されたとも伝えられている。若い頃の義秀は城を守り、敵地へ兵を進める武将だったが、晩年には藩の財政や人事、行政を支える長老となっていた。

寛永9年の死去と志駄家の継承

志駄義秀は寛永9年8月16日、現在の暦では1632年9月29日に死去した。生年を永禄3年とすれば、数え年で七十三歳ほどであった。戦国時代の武将としては比較的長命であり、幼少期から数えれば七十年以上にわたって上杉家の盛衰を見続けたことになる。義秀の家督は次男の義繁が継承した。もう一人の子である秀富は、上泉秀綱の婿養子となって上泉家を継ぎ、上泉主水秀富と名乗ったとされる。また、米沢市にある成就院は志駄家が開基に関係した寺院と伝えられ、義秀が開基檀頭となって建立されたとの伝承も残る。高野山には義秀のものとみられる五輪塔があり、寛永9年8月16日という没年月日を読み取れるとする報告もある。義秀の生涯を振り返ると、父を失った幼児当主から始まり、御館の乱を生き抜いた武将、直江兼続を支えた与板衆の指導者、庄内を治めた城代、関ヶ原期の前線指揮官、そして米沢藩の政務を担う国家老へと立場を変えている。戦場での武勇だけに頼らず、時代が求める役割を理解しながら自らを変化させたことが、義秀が長く重用された最大の理由だったと考えられる。

志駄義秀の生涯が示す上杉家臣の姿

志駄義秀は、上杉謙信や直江兼続のように全国的な知名度を持つ人物ではない。しかし、上杉家という大名組織が長期間存続できた背景には、義秀のような中堅・上級家臣の働きがあった。主君が代わり、本拠地が越後から会津、さらに米沢へ移り、石高が百二十万石から三十万石へ削減されても、義秀は組織を離れず、軍事と行政の両面から主家を支えた。父祖から受け継いだ志駄家の維持だけを考えるのではなく、直江家との縁を生かし、景勝政権の中で自分の役割を築いた柔軟さも注目される。城代として国境を守る強さ、敗戦後の処分に耐える忍耐、帰参後に信頼を取り戻す誠実さ、老年になって藩政を担う実務能力を併せ持っていた点に、義秀という人物の特徴がある。彼の人生は、戦国武将の成功が大合戦で敵将を討ち取ることだけではなかった事実を教えてくれる。領地を治め、道を造り、資源を管理し、主君の命令を実行し、次の世代へ家と藩を引き継ぐこともまた、武将に課された重要な使命だった。志駄義秀は、乱世を生き延びる知恵と忠誠心を持ち、戦国の武士から江戸時代の藩政官僚へと変化を遂げた、上杉家臣団を象徴する武将の一人なのである。

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■ 活躍・実績・合戦・戦い

志駄義秀の活躍を理解するための視点

志駄義秀の軍歴をたどる際には、名の知れた大将のように、特定の一戦や華々しい武功だけを探すのではなく、上杉家が直面した複数の危機において、義秀がどのような役割を任されていたのかを見る必要がある。義秀は御館の乱では上杉景勝方の武将として戦い、その後は越中方面の国境防衛、庄内地方の支配、金山の管理、軍道の建設、東禅寺城の守備、最上領への侵攻、米沢藩成立後の軍事・行政などに関わった。常に上杉軍の総大将として戦った人物ではないものの、重要な城や地域を任され、必要に応じて兵を集めて前線へ進むことのできる指揮官だった。戦国大名の軍事力は、著名な猛将だけで成り立っていたわけではない。城を維持し、領民から兵糧や人夫を集め、道を整え、援軍が到着するまで持ちこたえる家臣がいて初めて、大規模な作戦を実行できた。義秀はまさに、そのような現場を支える武将の代表的な存在である。若い頃には越後・越中の争乱に身を置き、壮年期には庄内と最上の国境で戦い、五十代を迎えてからも大坂の陣へ出陣したとされる。その軍歴は、上杉家が越後の戦国大名から会津百二十万石の大大名となり、関ヶ原後に米沢三十万石へ縮小されていく過程と重なっている。義秀の活躍とは、上杉家が勢力を拡大していた時期の攻勢だけでなく、敗戦後の撤退や減封後の再建までを含む、長期にわたる奉公の積み重ねだった。

御館の乱で上杉景勝を支えた若き義秀

天正6年(1578年)3月、越後国の支配者であった上杉謙信が春日山城で急死すると、上杉家中では後継者をめぐる争いが起こった。謙信には実子がなく、養子である上杉景勝と上杉景虎が家督を争ったためである。後に御館の乱と呼ばれるこの内乱は、単なる兄弟間の争いではなく、越後国内の国人領主や有力家臣が二派に分かれて戦う大規模な内戦となった。義秀はこの時、十九歳前後の若武者であったが、上杉景勝の陣営に加わり、景勝方の勝利に貢献した。義秀が景勝方を選んだ背景には、幼い頃から養育を受けた直江家との結び付きがあったと考えられる。当時の志駄氏は、景勝の文書で直江家に属する武士として扱われており、義秀にとって直江家と行動を共にすることは、志駄家を守るうえでも自然な選択だった。御館の乱では越後各地の城や街道をめぐって攻防が行われたが、義秀が参加した個々の戦闘については詳しい記録が多く残っていない。しかし、景勝から戦功を認められ、その後も直江家の与力として重用されたことから、警備や連絡だけではなく、実際の軍事行動に参加して一定の働きを示したとみてよい。御館の乱は義秀にとって、主君を失った直後の混乱の中で、自らの進む道を決めた最初の大きな戦いだった。景勝方が敗れていれば、志駄家の所領や家名も失われた可能性がある。義秀は景勝への忠誠を明確にし、その勝利によって上杉家中における立場を確立したのである。

内乱後の越後で求められた治安維持と反乱鎮圧

御館の乱で景勝方が勝利しても、越後国内が直ちに安定したわけではなかった。長期間にわたる内戦によって城主や国人領主の関係は崩れ、敗れた景虎方の残党や、景勝政権に不満を持つ勢力が各地に残っていた。さらに越後の外では、織田信長の北陸進出が続いており、上杉家は国内統治と外敵への備えを同時に進めなければならなかった。天正9年(1581年)、義秀は信濃国の大須賀氏に関係する反乱の鎮圧に参加したとされる。この事件について伝わる具体的な戦闘経過は限られているが、義秀が景勝政権の命令を受け、反抗勢力を抑える役目を担ったことは重要である。反乱鎮圧には、単に敵を討ち取るだけでなく、城や集落を包囲し、降伏を促し、戦後に土地や人質を管理する仕事も含まれていた。義秀がその任務に加わったことは、若いながらも一部隊を統率し、主君の命令を確実に実行できる人物とみなされていたことを示している。御館の乱後の景勝政権にとって、家中の結束を回復し、各地の反抗を抑えることは最優先の課題だった。義秀はこの時期、直江家との強い関係を背景に、景勝政権の支配を現地で実現する実働部隊の一員となっていたのである。

松倉城将として織田勢力と向き合う

天正10年(1582年)、義秀は越中国の松倉城を守る城将となり、北陸方面へ進出していた織田氏の軍勢と対峙したとされる。松倉城は現在の富山県魚津市周辺に位置する山城で、越中東部を押さえる重要な拠点だった。上杉家にとって越中は、越後の西側を守る防衛線であると同時に、加賀・能登方面へ進出するための足場でもあった。しかし、この頃には織田信長の勢力が北陸へ広がり、柴田勝家や佐々成政らの軍勢が上杉領へ圧力を加えていた。義秀が松倉城将に任じられたということは、敵軍の進出を監視し、必要に応じて籠城や迎撃を行い、周辺の上杉方諸城と連絡を取る責任を負ったことを意味する。城将には、戦闘能力だけでなく、兵糧や武具の蓄えを点検し、城兵の役割を決め、周囲の村々から情報を集める能力が必要だった。援軍が期待できない場合には、降伏するか、城を捨てて退くか、最後まで持ちこたえるかという重い判断も求められる。義秀が後年、庄内の東禅寺城で長期間の防戦を行ったことを考えると、松倉城での勤務は城将としての経験を積む重要な機会だったとみられる。天正10年6月には本能寺の変によって織田信長が死去し、北陸の軍事情勢も大きく変化した。義秀が織田方との全面的な決戦を経験したかどうかは明確ではないものの、上杉家と織田家が緊張する最前線に置かれたこと自体が、景勝から寄せられた信頼の大きさを示している。

与板衆筆頭として担った軍事統率

義秀はその後、直江兼続の配下に組み込まれ、与板衆の筆頭格として活動した。与板衆は、直江氏の本拠である与板を中心に編成された武士団で、直江家の直属家臣だけでなく、周辺に所領を持つ国人領主や与力によって構成されていた。義秀は直江家との血縁的なつながりを持ちながら、志駄氏の当主として独自の家臣団も抱えていたため、兼続と与板衆を結ぶ立場にあった。文禄3年(1594年)の記録では、義秀は千五百六十三石ほどの知行を持ち、九十三人余りの軍役を負担していたとされる。ここでいう軍役は、合戦の際に義秀が主家のもとへ率いていくべき兵士や従者の規模を示すものである。義秀自身が馬に乗って出陣するだけでなく、家臣、足軽、旗持ち、武具運搬役、馬の世話をする者などを編成し、一定期間行動できるよう食料や装備を準備しなければならなかった。数十人から百人近い軍勢を常時動員できる体制を維持することは、決して簡単ではない。所領から年貢を確保し、家臣へ扶持を与え、武具や馬を整備する経営能力が必要だった。義秀の実績は、敵将を討ち取った回数ではなく、命令を受ければ兵力を編成し、指定された城や戦場へ確実に到着できる組織を維持した点にもあった。

庄内支配への参加と金山経営という戦略的実績

文禄年間に入ると、義秀は直江兼続のもとで出羽国庄内地方の支配に深く関わった。庄内は最上川の河口を持ち、日本海の海上交通と内陸部を結ぶ経済上の重要地域であった。また、南東には最上義光の勢力が存在し、上杉家にとって軍事的にも緊張の高い場所だった。義秀は大宝寺城代を務めたほか、立岩喜兵衛らとともに玉川村周辺の金山を管理する金山代官、あるいは金山奉行に任じられたと伝えられる。金山の経営は平時の行政に見えるが、戦国大名にとって金は武器、兵糧、馬、築城資材を購入するための軍資金だった。採掘現場の労働者を確保し、坑道を維持し、産出量をごまかされないよう監督し、精錬した金を安全に運ぶ仕事には高度な管理能力が必要である。さらに義秀は庄内の産物を領外へ移出し、地域経済の振興にも関わったとされる。領地から安定した収入を得ることができなければ、城の兵士を養い、敵の侵攻に備えることはできない。義秀の庄内での活動は、直接槍を交える戦いではなかったものの、後に起こる最上氏との戦争を支える財政的・兵站的な基盤を整える仕事だった。軍事と行政を切り離さず、資源の開発を防衛力へ結び付けた点は、義秀の重要な実績として評価できる。

朝日軍道の開削に尽力した意味

慶長3年(1598年)、上杉景勝が越後から会津へ移封されると、その領国は会津、置賜、庄内、佐渡など広い範囲に分散した。特に米沢と庄内の間には最上氏の領地があり、通常の街道を使えば敵方に移動を妨害される危険があった。そこで直江兼続は、朝日連峰を越えて置賜と庄内を直接結ぶ朝日軍道の整備を進め、義秀もその開削に尽力した。朝日軍道は約六十五キロメートルに及ぶ山岳路だったとされ、険しい尾根、深い谷、積雪の多い高地を通る難路だった。工事を行うには、木を切り、斜面を削り、危険な場所に足場を造り、途中に人夫や兵士が休める小屋を設けなければならない。義秀は庄内側の責任者として、労働力の徴発、食料の確保、道案内人の手配、工事区間の監督などに関わったと考えられる。この軍道は、大軍が容易に通行できる近代的な道路ではなかったが、使者や小規模な部隊が敵領を避けて移動する経路として大きな意味を持った。しかも後の慶長出羽合戦では、最上領に深入りした義秀が東禅寺城へ戻る際、この軍道を利用したと伝えられる。つまり義秀は、自ら整備に携わった道によって退路を確保したのである。朝日軍道の建設は、敵と戦う前に地形を味方につける軍事事業であり、義秀が土木や兵站の面でも上杉家の作戦を支えたことを示している。

東禅寺城将への抜擢と最上氏への備え

会津移封後の義秀は、庄内の東禅寺城将となり、五千百石を与えられた。東禅寺城は後に亀ヶ崎城と呼ばれる城で、現在の山形県酒田市に位置していた。最上川河口と酒田湊に近く、庄内北部の軍事・交通・経済を押さえる重要な拠点である。義秀の知行は、それ以前の千五百石余りから大きく増えており、上杉家中における地位が上昇したことが分かる。しかし、五千百石という待遇には、それに見合う重い責任が伴った。東禅寺城の東方には最上義光の領国があり、上杉家と最上家の間では庄内の支配をめぐる対立が続いていた。義秀には城内の兵力を整え、周辺の支城や村落を掌握し、最上方の動きを監視する役割が課された。戦争が始まれば東禅寺城は敵軍の攻撃を受ける可能性が高く、同時に上杉軍が最上領へ攻め込む際の出撃拠点にもなる。義秀は防御だけを担当した城番ではなく、状況に応じて城から出撃し、周囲の軍勢を率いて敵領へ進む前線指揮官だった。城の維持と攻撃作戦の双方を任されたことから、義秀が兼続の側近という理由だけで抜擢されたのではなく、実際の統率力と庄内での経験を評価されていたことがうかがえる。

慶長出羽合戦で最上軍を牽制

慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝を討つため会津征討の軍を起こすと、東北地方でも各大名が軍事行動を開始した。石田三成の挙兵によって家康軍が西へ引き返した後、上杉家は敵対する最上義光の領国へ侵攻する。直江兼続が率いる主力軍は米沢方面から最上領へ進み、畑谷城を攻略した後、長谷堂城を攻撃した。一方、庄内にいた義秀は、東禅寺城を拠点に最上軍を牽制し、別方面から敵領へ圧力を加える役割を担った。義秀が庄内方面に存在するだけでも、最上氏は全兵力を長谷堂方面へ集中させることが難しくなる。最上義光にとって、庄内を上杉方に奪われたまま背後から攻め込まれる事態は大きな脅威だった。義秀は東禅寺城へ攻め寄せた池田盛周らの軍勢を撃退し、その後は守勢にとどまらず最上領へ進入したとされる。戦略的に見れば、義秀の軍は兼続本隊と離れた位置から行動し、最上軍の戦力を分散させる別働隊だった。伝令が遅れやすく、敵軍に包囲される危険もある独立性の高い任務であり、状況判断のできる武将でなければ任せにくい。義秀は東禅寺城を守りながら攻勢へ転じ、上杉軍の北側からの侵攻を支えたのである。

白岩城攻略と最上領への進撃

義秀は尾浦城主の下吉忠らと呼応しながら、最上領の村山郡へ侵攻し、白岩城などを攻略したと伝えられる。白岩城は現在の山形県寒河江市周辺に位置し、庄内と村山地方を結ぶ交通路を押さえる拠点だった。義秀がこの方面へ進んだことは、最上領の西側を突き、直江兼続が展開していた主戦場を側面から支援する意味を持っていた。城攻めでは、城壁や堀を突破する正面攻撃だけでなく、周辺の道を封鎖し、水や食料の補給を断ち、守備側の降伏を促す方法も用いられた。義秀が白岩城をどのような方法で落としたのか、細かな攻防の経過までは明確ではない。しかし、東禅寺城から山間部を越えて敵領へ入り、複数の拠点を制圧したとされることから、一定規模の兵力を統率していたことは確かである。義秀の部隊は城を守るだけの固定戦力ではなく、遠距離を移動して攻城戦を実行できる野戦部隊でもあった。ただし、義秀の進撃は上杉軍全体の勝利にはつながらなかった。美濃国の関ヶ原で西軍が敗れ、上杉家の政治的な立場が決定的に不利となったためである。義秀が戦場で優勢を保っていたとしても、中央の情勢が変われば作戦を継続することはできなかった。戦国時代末期の合戦が、一つの地域だけで完結するものではなく、全国の政治情勢と結び付いていたことを示す出来事である。

関ヶ原敗報のなかで決断した撤退

慶長5年9月、関ヶ原本戦で石田三成方の西軍が敗北したとの情報が東北にも届くと、直江兼続は長谷堂城の包囲を解き、米沢への撤退を開始した。しかし、庄内側から最上領深くへ進んでいた義秀には、撤退命令が速やかに届かなかったとする伝承がある。義秀は周囲の情報から上杉軍全体の情勢が変わったことを察し、白岩城などを放棄して東禅寺城へ戻る決断を下した。敵領内で戦い続ければ、兼続本隊の撤退後に最上軍から包囲され、退路を失う危険があった。一方で、早過ぎる撤退は命令違反や敵前逃亡とみなされる可能性もある。義秀には、限られた情報から戦局を判断する指揮官としての決断力が求められた。義秀の部隊は左沢方面から山間部へ入り、大頭森山や地蔵峠を越え、朝日軍道を通って庄内へ戻ったと伝えられている。秋の終わりに近い朝日連峰は寒さが厳しく、場所によっては雪や凍結に見舞われた可能性もある。武具を身につけた兵士を率い、負傷者や物資を抱えながら険しい山道を越える撤退は、追撃戦とは異なる困難を伴った。義秀が自軍を大きく崩壊させず東禅寺城へ帰還できたとすれば、それは敵城の攻略に劣らない実績だったといえる。朝日軍道の整備に携わった経験や地形への知識が、部隊を救う結果につながったのである。

関ヶ原後も続いた東禅寺城での抵抗

関ヶ原本戦が終わっても、庄内地方の戦いが直ちに終結したわけではなかった。上杉家と最上家の間では、城や領地の引き渡しをめぐる緊張が続いた。義秀は東禅寺城へ戻ると守備を固め、最上軍の侵攻に備えた。上杉家は西軍側とみなされ、徳川家康から処分を受ける可能性が高まっていたが、正式な領地整理が決まるまでは城を無条件で明け渡すことはできなかった。慶長6年(1601年)になると、最上義康の軍勢が庄内へ進み、東禅寺城を攻撃した。この最上軍を案内した人物の一人が、前年に上杉方と行動しながら戦場に取り残され、最上氏へ降った下吉忠だったとされる。庄内の地理や上杉方の軍事配置を知る人物が敵方へ回ったことで、義秀の立場は一層厳しくなった。義秀は数か月にわたり城を守ったが、上杉家の会津領維持はすでに困難となり、外部から大規模な援軍が来る見込みも乏しかった。最終的に義秀は同年6月頃、和議を結んで東禅寺城を開城し、米沢方面へ撤退したとされる。開城は戦場で敵に屈した行為ではあるものの、援軍のない状態で無意味に城兵を死なせるより、条件を整えて撤収することも城将の責任だった。義秀は城と領地を失ったが、家臣や兵士の一部を連れて上杉家へ戻ることができた。東禅寺城の防衛は勝利には終わらなかったものの、上杉領の処分が決まるまで庄内の重要拠点を保持した点で、一定の役割を果たしたと考えられる。

敗戦責任による高野山蟄居

東禅寺城の開城後、義秀は高野山での蟄居を命じられた。処分の直接的な理由については、東禅寺城を失った責任、慶長出羽合戦での軍事行動、徳川幕府に対する政治的な配慮など、複数の要素が考えられる。関ヶ原後の上杉家は百二十万石から三十万石へ減封され、旧領に配置していた家臣の大部分を養うことができなくなった。さらに徳川家との関係を修復するためには、戦争に深く関わった家臣を一時的に処分し、恭順の姿勢を示す必要もあった。義秀の蟄居を単純な失策への罰とみるだけでは、当時の政治状況を十分に説明できない。東禅寺城の防衛は援軍の見込みがない中で行われ、開城も和議によるものだったとされるからである。義秀は敗戦の責任を引き受ける形で表舞台から退いたが、慶長8年(1603年)には上杉家へ帰参し、荒砥城代として千石を与えられた。短期間で再登用されたことは、景勝や兼続が義秀を無能な敗将とはみていなかったことを示す。むしろ庄内の地理、城郭防衛、兵站、家臣統率に通じた経験豊富な武将として、縮小された米沢藩にも必要とされていたのである。

荒砥城代として置賜西部を守る

帰参後の義秀が任された荒砥城は、現在の山形県白鷹町に位置し、置賜盆地と最上地方、庄内方面を結ぶ交通路を監視する場所にあった。五千百石を与えられた東禅寺城将時代と比べれば知行は千石へ減っていたが、荒砥城代への任命は、義秀が再び城と地域を任せられる立場に戻ったことを意味する。米沢へ移された上杉家にとって、限られた領地を守りながら家臣団を再編成することは重大な課題だった。義秀はかつて庄内と置賜を結ぶ軍道の建設や東禅寺城の守備に関わっており、荒砥周辺の地理や交通事情にも理解があったと考えられる。荒砥城代としての仕事は、敵軍の侵攻に備えるだけではなく、周辺村落の治安維持、年貢の確保、街道の監視、非常時の兵士動員など多岐にわたった。慶長12年(1607年)には幕府の意向によって再び蟄居したとされるが、慶長16年(1611年)には再度帰参し、侍大将に任じられた。二度の蟄居を経ても軍事指揮官へ復帰した事実は、義秀に対する上杉家の信頼が根強かったことを物語っている。

大坂の陣で果たした老将としての役割

慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が始まると、上杉景勝は徳川方の大名として軍勢を率いて出陣した。義秀もこの大坂の陣に参加したとされる。上杉軍は冬の陣において鴫野方面などで豊臣方と戦い、徳川方の一軍として行動した。義秀個人がどの地点で、どの部隊を指揮したのかを詳しく示す記録は乏しいため、特定の武功を断定することはできない。しかし当時の義秀は五十五歳前後であり、上杉軍の中では豊富な実戦経験を持つ老将だった。御館の乱、越中での国境防衛、庄内支配、慶長出羽合戦、東禅寺城籠城を経験した義秀には、若い兵士や指揮官を補佐し、部隊の秩序を保つ役割が期待されたと考えられる。また、大坂の陣は上杉家にとって、徳川幕府への忠誠を示し、関ヶ原以来の政治的不信を払拭するための重要な戦いだった。かつて徳川家と対立する側で最上領を攻めた義秀が、今度は徳川方として豊臣軍と戦ったことは、時代の大きな変化を象徴している。義秀は個人的な敵味方の感情ではなく、上杉家を存続させるという主家の方針に従い、最後の大規模な合戦へ赴いたのである。

合戦後に発揮された行政能力

大坂の陣によって全国規模の戦乱が終わると、武将に求められる能力は戦場での指揮から藩政の運営へ移った。義秀は侍大将として軍事組織に関わる一方、諸司代、奉行郡代、政務奉行などを歴任し、米沢藩の行政を担った。元和8年(1622年)には最上家が改易され、その広大な旧領を幕府や諸大名が引き継ぐことになった。義秀は旧最上領に関する仕置きにも奉行として関与したとされる。かつて最上氏と激しく戦い、東禅寺城を奪われた義秀が、二十年余り後には最上家改易後の処理を担当したことになる。旧領の仕置きでは、城や蔵の引き渡し、武器や年貢米の確認、道路や境界の調査、旧臣や領民への対応など、慎重な作業が必要だった。義秀は庄内や村山地方の地理、城郭、地域勢力に詳しく、その経験を行政に生かすことができた。戦場で得た知識を平時の統治へ転換した点も、義秀の実績の一つである。

志駄義秀の戦歴に見る本当の強さ

志駄義秀の戦歴には、敵の大将を討ち取ったという有名な逸話や、歴史の流れを一度に変えた大勝利は見当たらない。しかし、義秀は御館の乱で景勝方の勝利を支え、越中では織田氏の圧力に備え、庄内では金山と城を管理し、朝日軍道を整備し、慶長出羽合戦では最上領へ侵攻した。関ヶ原で西軍が敗れると、敵地から険しい山道を越えて部隊を帰還させ、翌年には援軍のない東禅寺城を長期間守った。その後は処分を受けながらも二度にわたって帰参し、荒砥城代、侍大将、大坂の陣の従軍者、政務奉行として主家に仕え続けた。勝利した戦いだけでなく、撤退や開城、処分からの復帰を含めて考えると、義秀の強さは一時の武勇ではなく、状況が変わっても役割を失わない適応力にあったといえる。攻撃する時には兵を率いて敵領へ入り、守る時には城に籠もり、退く時には部隊をまとめ、平時には鉱山や街道、領民を管理した。こうした多面的な能力があったからこそ、義秀は謙信、景勝、定勝という三代に仕え、戦国時代から江戸時代前期まで生き残ることができたのである。志駄義秀の活躍は、戦国武将の価値が派手な武功だけで決まるものではないことを示している。主家の命令を理解し、現場の状況を判断し、兵と領民を守りながら任務を遂行することも、乱世を支えた武将にとって欠かせない実績だった。

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■ 人間関係・交友関係

志駄義秀を支えた人間関係の特徴

志駄義秀の生涯を理解するうえで欠かせないのが、上杉家、直江家、志駄家という三つの家を結ぶ人間関係である。義秀は父を幼くして失い、実家である志駄家の力だけでは成長することが難しい境遇に置かれた。その義秀を保護したのが母方の直江家であり、成人後に仕えた主君が上杉謙信、上杉景勝、上杉定勝だった。したがって義秀の人間関係は、単純な大名と家臣の関係だけでは説明できない。母方の親族である直江氏から受けた養育、直江兼続との軍事的な主従関係、上杉景勝から与えられた城や所領、庄内で協力した諸将、慶長出羽合戦で敵対した最上氏など、多くの縁が重なって形成されている。義秀は人付き合いに関する逸話を数多く残した人物ではないが、その経歴を見る限り、感情を強く表に出して人を引き付けるというより、長期間にわたって命令を守り、任された仕事を確実に行うことで信用を積み重ねる人物だったと考えられる。二度の蟄居を経験しながら上杉家へ復帰し、最終的に国家老級の政務奉行へ進んだ事実は、主家や同僚からの信頼が一時の失敗だけでは失われなかったことを示している。義秀を取り巻く人々との関係は、血縁、恩義、主従、軍事協力、政治的対立という異なる要素によって結ばれていたのである。

父・志駄義時から受け継いだ家名と忠節

義秀の父である志駄義時は、越後国三島郡夏戸を本拠とし、上杉謙信に仕えた武将だった。永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いに従軍し、十九歳ほどの若さで戦死したと伝えられる。当時二歳だった義秀に、父と直接過ごした記憶が残っていた可能性は低い。しかし義時が上杉家のために戦死したという事実は、志駄家の家名とともに義秀へ受け継がれた。戦国時代の武家社会では、父祖の戦功は子孫が所領や家格を維持する根拠となった一方、その子孫には同じ主家へ忠節を尽くすことが求められた。義秀にとって上杉家への奉公は、個人的に選んだ就職先のようなものではなく、父が命を落として守った家との関係を継承する行為だった。義秀が御館の乱、会津移封、関ヶ原後の減封という危機を経ても上杉家から完全に離れなかった背景には、父の遺志と志駄家の歴史があったと考えられる。父子の交流を示す逸話は残されていないものの、義秀の長い奉公そのものが、父から受け継いだ主従関係への回答だったといえる。

祖父・志駄春義と家臣団による幼君の支援

父の戦死後、幼い義秀の後見人となったのが祖父の志駄春義である。春義は義秀に代わって夏戸城と志駄家の所領を管理し、家臣団をまとめたとされる。しかし春義も永禄6年(1563年)に亡くなったため、義秀が祖父の保護を受けた期間は長くなかった。幼児が当主になった家では、家臣が他家へ離反したり、一族の別の人物が家督を奪ったりすることも珍しくなかった。その中で志駄家が存続したのは、春義だけでなく、名の残らない一族や家臣たちが義秀を正統な当主として支えたからだと考えられる。義秀は成長後、これらの家臣を率いて上杉家の軍役を務める立場となった。幼い自分の家を守った家臣団との関係は、単なる領主と被官の関係ではなく、家の存続を共に支えた運命共同体に近いものだっただろう。文禄年間に九十人余りの軍役を負担できるまで志駄家の軍事組織を整えたことからも、義秀が父祖以来の家臣をまとめ、長期的な信頼関係を築いていたことがうかがえる。

母方の直江景綱との血縁関係

義秀の母は、上杉謙信の重臣である直江景綱の姉妹だったとされる。景綱は謙信政権の奉行人として、軍事、外交、領国統治などに関わった人物であり、越後の上杉家中でも高い地位を占めていた。父と祖父を相次いで失った義秀は、この母方の血縁によって直江家から保護を受けることになった。義秀にとって景綱は母方の伯父または叔父に当たり、単なる上杉家の先輩武将ではなかった。景綱が直接どこまで義秀の教育に関わったかは明らかではないものの、直江家の庇護がなければ志駄家の所領や家名が維持できなかった可能性は高い。義秀は直江家の環境で、武芸だけでなく、奉行人として必要な文書作成、所領管理、年貢収納、家臣統率などを学んだと考えられる。後年、義秀が庄内の金山奉行、城代、米沢藩の政務奉行などを務めたことを踏まえると、直江景綱の家に受け継がれた行政実務の知識は、義秀の人格と能力の形成に大きな影響を与えたとみられる。

直江景綱の後室との養育関係

義秀は母も早くに失い、直江景綱の妻である後室に養育されたと伝えられている。この女性は義秀にとって、実母に代わる保護者だった。戦国時代の武家女性は、城内や屋敷の奥向きを管理するだけでなく、幼い一族を養育し、婚姻を整え、家同士の関係を維持する重要な役割を担っていた。景綱の後室が義秀を育てたことによって、志駄家は直江家の一門に近い位置へ組み込まれていった。義秀も成人後、景綱の後室に関係する幼女または養女とみられる女性を妻に迎えたとされている。詳しい系譜には不明な点があるものの、義秀と直江家の関係が母方の血縁だけで終わらず、婚姻によって改めて強化されたことは重要である。天正6年(1578年)の上杉景勝の感状において、志駄氏が「直江一家之侍」と記されたことからも、当時の志駄家が直江氏の家中に深く結び付いた存在として認識されていたことが分かる。義秀にとって直江家は、困窮した時に一時的な援助を受けた親族ではなく、成長、婚姻、軍役、出世を通じて生涯を支えた家だった。

上杉謙信との関係

成人した義秀が最初に直接仕えた主君は上杉謙信である。義秀の父・義時も謙信に従って川中島で戦死しているため、謙信は父子二代の主君だった。義秀が本格的に軍務を担い始めたのは謙信の晩年とみられ、二人が長期間にわたって近しく接したとは考えにくい。それでも義秀にとって謙信は、父が命をささげた主君であり、志駄家の所領と家格を認める越後の支配者だった。義秀が後に上杉二十五将の一人として語られるようになった背景にも、謙信以来の上杉家臣であったことが関係している。ただし、後世に選ばれた上杉二十五将は、必ずしも謙信存命中の軍団編成をそのまま示すものではなく、上杉家を代表する忠臣を顕彰する性格が強い。したがって義秀と謙信の間に、特別な個人的逸話があったと断定することはできない。むしろ義秀にとって謙信は、直接的な親密さ以上に、父祖以来の忠節を向ける象徴的な存在だったと考えるべきである。

上杉景勝との長期にわたる主従関係

義秀の人生で最も重要な主君となったのは上杉景勝である。天正6年(1578年)に謙信が死去すると、義秀は御館の乱で景勝方に加わった。義秀が景勝を支持した背景には直江家との結び付きがあったが、その選択には志駄家の存亡も懸かっていた。景勝方が敗れれば、義秀は所領を失うだけでなく、場合によっては命を落とす可能性もあった。義秀は景勝のために戦功を挙げ、新しい上杉家の中で地位を固めた。その後は越中松倉城、庄内の大宝寺城や東禅寺城など、上杉領の重要拠点を任されている。これらの配置は、景勝が義秀を国境防衛や地域統治を任せられる家臣として信頼していたことを示す。慶長3年(1598年)の会津移封では、義秀は越後の旧領に固執せず景勝に従い、庄内で五千百石を与えられた。関ヶ原後には東禅寺城を失い、蟄居処分を受けたが、後に再び呼び戻された。景勝が義秀を完全に見放していたならば、荒砥城代や侍大将として再登用する必要はない。二度の帰参は、両者の間に長年の奉公によって築かれた信頼があったことを物語っている。義秀は景勝の側近として常にそばにいたわけではないが、遠隔地へ配置されても主君の意向に従い、上杉領の一部を守ることのできる武将だった。

直江兼続との深い主従・協力関係

義秀と最も密接に行動した人物は、上杉景勝の重臣である直江兼続だった。義秀は直江家に育てられたため、兼続との関係は一般的な大名家の重臣と与力というだけではなかった。ただし、両者が幼少期から親友だったとする確実な記録が残るわけではなく、感情的な親密さを過度に想像することは避ける必要がある。史実として重要なのは、義秀が与板衆の筆頭格として兼続の配下に置かれ、庄内経営や朝日軍道の開削など、兼続が進める政策を現地で実行したことである。兼続が上杉家全体の方針を立てる立場にあったのに対し、義秀は城や所領の現場で兵士、農民、鉱山労働者、工事人夫をまとめる立場だった。二人の関係は、構想を作る者と実行する者という形で捉えることができる。兼続が庄内と米沢を結ぶ軍道を必要と判断しても、実際に険しい山中へ道を通すには、現地事情を理解する義秀の協力が欠かせなかった。慶長出羽合戦でも、兼続の主力軍が米沢方面から進む一方、義秀は庄内方面から最上領へ攻め込んだ。義秀は兼続軍の別働隊として、離れた地域で独自に判断しながら作戦を遂行したのである。兼続にとって義秀は、血縁的な縁を持つだけでなく、重要な地域を安心して任せられる現場指揮官だった。

与板衆との関係と筆頭格としての責任

直江兼続の配下には、与板を中心とする与板衆と呼ばれる武士団が存在した。義秀はその中で筆頭格の立場にあったとされる。与板衆は一枚岩の組織ではなく、それぞれ異なる所領、家臣、家の歴史を持つ武将たちの集団だった。そのため、筆頭格には命令を伝えるだけでなく、諸将の利害を調整し、軍役の負担を整理し、遠征時の隊列や役割を決める能力が必要だった。義秀は志駄家の当主として独立した家格を持ちながら、直江家の一員に近い立場でもあったため、兼続と与板衆をつなぐ役割に適していた。文禄3年(1594年)には千五百六十三石ほどを知行し、九十三人余りの軍役を負っていたとされる。この規模の部隊を率いる義秀が筆頭となることで、与板衆全体の統率にも一定の影響を与えたと考えられる。義秀と他の与板衆との間にどのような私的な交流があったのかは明らかではないが、長期間にわたって筆頭格を務められた以上、同僚や配下から一定の信頼を得ていたはずである。気性が激しく周囲との衝突を繰り返す人物であれば、複数の家を束ねる役割を安定して担うことは難しい。義秀は命令の実行力だけでなく、組織内の調整能力にも優れた人物だったとみられる。

庄内で協力した下吉忠との関係

慶長出羽合戦で義秀と協力した武将の一人に、尾浦城主の下吉忠がいる。慶長5年(1600年)、義秀と下吉忠は庄内方面から最上領へ進み、村山郡の白岩城などを攻略したと伝えられる。二人は上杉方の別働隊として、直江兼続の主力軍とは異なる経路から最上氏を攻めた。作戦を成功させるには、進軍の時期、攻撃目標、兵糧の補給、敵情に関する情報などを共有する必要があり、義秀と下吉忠の間には軍事上の協力関係が築かれていた。しかし関ヶ原で西軍が敗れると、両者の運命は分かれた。義秀は戦況の変化を察知して庄内へ撤退したが、下吉忠は敵地に取り残され、最上氏へ降伏したとされる。翌慶長6年、下吉忠は最上義康軍を案内し、義秀が守る東禅寺城の攻略に加わった。前年までの味方が、庄内の地理や上杉軍の事情を知る敵として現れたことになる。義秀にとって下吉忠の転身は苦い出来事だったはずだが、戦国末期の武将にとって、孤立した状況で降伏し、生き残ることも珍しい選択ではなかった。両者の関係は、個人的な友情や裏切りという単純な言葉だけでは説明できず、全国的な敗戦によって主従と同盟の形が急速に変わる乱世の厳しさを象徴している。

最上義光との敵対関係

義秀にとって最大の敵対勢力となったのが、出羽山形を支配する最上義光である。上杉景勝が会津百二十万石へ移った後、上杉領は会津・置賜と庄内に分かれ、その間に最上領が存在する形となった。上杉家にとって最上氏は領国の連絡を妨げる存在であり、最上氏にとっても庄内を支配する上杉家は西側から本領を脅かす相手だった。東禅寺城将となった義秀は、最上義光と直接会談や書状を交わす外交担当者というより、最上領に向けられた上杉側の軍事的な圧力そのものだった。義秀が東禅寺城に兵を置くだけで、最上氏は庄内からの侵攻に備えなければならなかった。慶長出羽合戦では義秀が最上領へ入り、白岩城などを攻略したため、両者の関係は明確な敵対へ発展した。最上義光は直江兼続の主力軍だけでなく、庄内から進む義秀の部隊にも対処しなければならなかった。義秀は上杉方の地域司令官として、最上氏の兵力を分散させる役割を果たしたのである。

最上義康・池田盛周らとの攻防

義秀は最上義光本人だけでなく、その嫡男である最上義康や、最上方の武将である池田盛周らとも敵対した。慶長5年(1600年)には池田盛周らが東禅寺城方面へ攻め寄せたものの、義秀はこれを退けたとされる。その後、義秀は守勢から攻勢へ転じ、最上領へ進入した。翌年には最上義康を中心とする軍勢が東禅寺城を攻め、義秀は長期間にわたって防戦した。この攻防は、単に武将同士の個人的な憎しみから起こったものではなく、徳川方として領地を回復しようとする最上氏と、正式な処分が決まるまで庄内を守ろうとする上杉氏の政治的な対立だった。義秀と最上義康は互いに主家の方針を実行する立場であり、戦場では敵であっても、その行動には領主としての責任があった。義秀は最終的に和議を結んで城を明け渡したとされる。最上軍との交渉がどの人物を通じて行われたかは明確ではないものの、無条件の潰走ではなく、城兵を伴って米沢へ撤退できたことから、敵方との現実的な交渉が成立したと考えられる。義秀は最後まで戦って全滅することよりも、家臣を生き残らせて主家へ戻る道を選んだのである。

徳川家康・江戸幕府との間接的な関係

義秀が徳川家康と直接親しく交わったことを示す記録はない。しかし義秀の人生は、徳川政権の成立によって大きく左右された。慶長5年の関ヶ原の戦いで家康方が勝利すると、上杉家は会津百二十万石から米沢三十万石へ減封され、義秀も東禅寺城と五千百石の知行を失った。高野山への蟄居も、単なる上杉家内部の判断だけでなく、徳川方に対して恭順を示す政治的な意味を持っていた可能性がある。慶長12年(1607年)の再蟄居は幕府の意向によるものとされ、義秀は新しい権力者との関係の中で一時的に排除された。一方、後に帰参して大坂の陣へ出陣した際には、上杉家の一員として徳川方に加わった。かつて徳川政権の成立によって処分を受けた義秀が、今度は幕府側の軍勢として戦ったのである。これは義秀が徳川家康へ個人的に心服したというより、上杉家を存続させるために新しい政治秩序へ適応した結果だった。義秀にとって最優先されたのは、個人的な感情や過去の遺恨ではなく、主家の決定に従うことだったと考えられる。

上杉定勝との関係と次代への奉公

元和9年(1623年)に上杉景勝が亡くなると、義秀はその子である上杉定勝に仕えた。景勝が亡くなった時、義秀は六十代半ばに達しており、すでに家臣団の長老だった。義秀は父祖以来の武功や自身の経験を理由に引退するのではなく、新しい藩主を支える道を選んだ。元和10年(1624年)には定勝の婚儀を取り仕切ったとされる。大名の婚姻は家族だけの祝いではなく、幕府や他家との政治関係を確認する重要な儀礼だった。日程、警備、行列、贈答品、客人の接待、費用の管理など、多くの実務を正確に進めなければならない。その責任者を任されたことは、定勝が義秀の経験と誠実さを信頼していたことを示す。義秀は景勝の時代には前線の城将として働き、定勝の時代には藩政と儀礼を支える重臣となった。若い藩主にとって義秀は、父・景勝の時代を知り、越後以来の家臣団の事情に通じた相談役でもあったと考えられる。

子・志駄義繁との親子関係

義秀の家督は、死後に次男の志駄義繁が継いだとされる。長男ではなく次男が家督を継いだ理由については明確でなく、長男が早世した、他家へ入った、あるいは家督継承に適さない事情があったなど、複数の可能性が考えられるが、確かな史料なしに断定することはできない。義秀にとって家督継承は特別な意味を持っていたはずである。自身が二歳で父を失い、祖父や直江家の助力によって志駄家を存続させた経験があったからである。義秀は義繁に対し、武勇だけでなく、上杉家への忠節、家臣の統率、行政実務などを伝えたと考えられる。戦国時代が終わった後の米沢藩では、息子が父と同じように敵城へ攻め込む機会は少なくなる一方、藩の法令を守り、知行を管理し、軍役を維持する能力が重要になった。義秀は自らが戦国武将から藩政官僚へ変化した経験を、次代の志駄家へ引き継ごうとしたのであろう。

上泉秀富との関係と剣豪上泉家への縁

義秀の子の一人である秀富は、上泉秀綱の婿養子となり、上泉主水秀富を名乗ったとされる。上泉氏は、剣豪として知られる上泉信綱の系統につながる家として知られている。秀富が上泉家へ入ったことにより、志駄家は上杉家中の別系統の武家とも縁を結んだ。武家の養子縁組は、後継者のいない家を存続させると同時に、家臣団内部の結び付きを強める役割を持っていた。義秀にとって、息子を他家へ送り出すことは自家の人数を減らすだけではなく、上杉家中に新たな親族関係を築く政治的な意味があった。秀富がどの程度父と交流を続けたかは分からないが、志駄家で受けた教育や義秀の奉公姿勢は、上泉家を継いだ後にも影響を与えたと考えられる。義秀の家族関係は志駄家の直系を守るだけでなく、婚姻や養子を通じて上杉家臣団全体へ広がっていた。

家臣・領民との関係

義秀の人間関係を考える際には、有名武将との交友だけでなく、彼のもとで働いた家臣や領民との関係も重要である。義秀は夏戸城、松倉城、大宝寺城、東禅寺城、荒砥城など、異なる地域の城や所領を任された。赴任先では地元の武士、農民、商人、鉱山労働者、寺社などと関係を築き、年貢や軍役を確保しなければならなかった。特に庄内金山や朝日軍道の事業では、多数の人々を動員する必要があった。過酷な負担を一方的に押し付ければ逃亡や反発を招き、工事や採掘を継続できない。義秀には主家の命令を実行しながら、現地の事情を把握し、人々の協力を引き出す調整力が求められた。東禅寺城が孤立した状況でも一定期間抵抗できたのは、城兵だけでなく、周辺から食料、情報、人員を得られる関係が存在したからだと考えられる。義秀と領民の間に温情深い逸話が残るわけではないが、複数の領地で行政を任された事実は、少なくとも統治を破綻させるような人物ではなかったことを示している。

二度の帰参を可能にした家中での信用

義秀の人間関係を最もよく表す出来事が、二度にわたる上杉家への帰参である。最初の蟄居後、義秀は慶長8年(1603年)に帰参して荒砥城代となった。その後、慶長12年(1607年)に再び蟄居させられたものの、慶長16年(1611年)には侍大将として復帰している。一度処分を受けた家臣が復帰するだけでも、主君や重臣の取りなしが必要だった可能性がある。それを二度経験し、最終的に政務奉行へ昇進したことは、義秀を支援し、その能力を評価する人々が上杉家中に存在したことを示す。直江兼続、上杉景勝、与板衆、志駄家の家臣など、それまで築いてきた関係が義秀の復帰を後押ししたと考えられる。義秀自身も蟄居中に主家を批判したり、他家へ仕官したりすることなく、再び召し出される機会を待ったのだろう。人間関係を派手な言葉で語るのではなく、長年の実績と沈黙の忍耐によって維持したところに、義秀らしい特徴がある。

志駄義秀の人間関係から見える人物像

志駄義秀は、上杉謙信のような圧倒的な求心力を持つ主君でも、直江兼続のように政権の中心で政策を立案する人物でもなかった。しかし、義秀は人と人、家と家、中央の命令と地方の現場をつなぐ役割を果たした。父の志駄義時から上杉家への忠節を受け継ぎ、直江景綱の家から養育と教育を受け、直江兼続の与力として軍事・行政を支えた。上杉景勝には危険な国境の城を任され、上杉定勝には婚儀などの重要な実務を任された。下吉忠とは味方として共に戦った後、敵味方に分かれる運命を経験し、最上義光や最上義康とは庄内支配をめぐって激しく対立した。息子たちには志駄家の家督と他家との縁を引き継がせた。これらの関係に共通しているのは、義秀が個人的な名声よりも、自分が属する家と組織の存続を優先したことである。義秀の人間関係は、一時的な友情や敵意ではなく、血縁、家格、所領、軍役、恩義という戦国武士社会の現実によって形作られていた。その中で義秀は、受けた恩を忘れず、主家が苦境に陥っても離れず、処分後にも奉公へ戻った。彼の生涯に見えるのは、言葉によって忠義を誇示する姿ではなく、数十年にわたる行動によって人との信頼を証明した実直な武将の姿なのである。

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■ 後世の歴史家の評価

派手な英雄ではなく上杉家を実務面から支えた武将

後世から見た志駄義秀は、一度の大勝利や豪快な武勇伝によって名を残した英雄というより、上杉家が直面した政治的・軍事的な変化に対応し、現場を支え続けた実務型の武将として評価される人物である。上杉謙信の家臣として出発し、御館の乱では上杉景勝方に立ち、直江兼続の与力として越後、越中、庄内、会津、米沢へと活動の場所を移した。さらに城代、金山代官、侍大将、米沢奉行など、時代に応じて異なる仕事を担当している。こうした経歴からは、義秀が戦闘だけに優れた人物ではなく、軍団の編成、城郭の管理、街道の整備、鉱山経営、領民統治、藩政運営まで任せられる総合的な能力を備えていたことが分かる。歴史上の人物は、有名な合戦で敵将を討ち取った場合に高く評価されやすい。しかし大名家の存続には、兵糧を整え、国境を守り、領地から収入を確保し、敗戦時には兵をまとめて撤退できる武将が不可欠だった。義秀はまさに、そのような組織の土台を担った家臣だった。上杉家が越後の戦国大名から会津百二十万石の大名となり、関ヶ原後には米沢三十万石へ縮小されながらも存続できた背景には、義秀のように主家とともに移動し、新たな環境で役割を果たした家臣たちの働きがあった。義秀は、その変化を現場で支えた代表的な一人と考えることができる。

残された記録が限られるため評価の難しい人物

志駄義秀を評価する際の難しさは、本人が残した日記、回想録、詳細な軍功記のような史料がほとんど確認されていない点にある。現存する情報の多くは、上杉家の分限帳、軍役帳、家臣団の由緒書、後世にまとめられた系譜や地域の記録などから復元されたものである。そのため義秀がどのような性格で、どのような言葉を使い、合戦の場で何を考えていたのかを詳しく知ることは難しい。上杉家に関する分限帳には家臣の所属、禄高、軍役などが記されているが、江戸時代後期に作成された写本も多く、原本からの書き写しの過程を考慮して利用する必要がある。先祖書や勤書も、藩士が父祖の奉公を藩へ報告する目的で作成されたため、家の由緒や功績を強調する性格を持つ場合がある。歴史研究では、このような史料をそのまま事実として受け入れるのではなく、作成年代、作成目的、他の文書との一致を確認しながら検討する必要がある。

この事情から、義秀について語られる幼少期の養育関係、個々の合戦での行動、二度の蟄居に至った事情などには、確実に確認できる部分と後世の伝承に依存する部分が混在している。したがって、謙信から特別に寵愛された、直江兼続の最も親しい友人だった、東禅寺城で数万の敵を一人で防いだといった劇的な人物像を作ることは適切ではない。一方で、史料が少ないから重要でなかったと判断することもできない。文禄3年の軍役記録で千五百石余りを持ち、九十三人余りの軍役を負担していたこと、会津移封後に東禅寺城五千百石を任されたこと、後に米沢奉行となって二千石を与えられたことは、上杉家中で一定以上の地位を占めていたことを示している。義秀は記録に多くの言葉を残した人物ではなく、任された役職と行動によって評価されるべき武将なのである。

武勇だけでは測れない統率者としての評価

軍事面における義秀の評価は、単純な猛将という言葉では十分に表せない。御館の乱では景勝方に立ち、越中の松倉城では織田勢力に備え、慶長出羽合戦では庄内方面から最上領へ進撃した。これらの経歴から、義秀が実戦経験の豊富な武将だったことは確かである。しかし、その本領は敵陣へ先頭で斬り込む個人的な武勇より、城と部隊を預かり、戦局に応じて行動する指揮能力にあったと考えられる。特に慶長5年(1600年)の出羽合戦では、義秀は東禅寺城から出撃して下吉忠らと呼応し、白岩城などを攻略した。ところが関ヶ原で西軍が敗れると、義秀は最上領内で孤立する危険に直面した。直江兼続からの撤退命令が届かなかったとする伝承もある中、周囲の情報から戦局の変化を判断し、占領地を放棄して朝日連峰を越え、庄内へ帰還したとされる。

攻め取った城を捨てて退く行為は、表面的には敗北に見える。しかし遠く離れた敵地で部隊を失えば、東禅寺城の防衛も不可能になった。義秀が険しい軍道を使って兵を帰還させた判断は、戦果への執着よりも部隊と拠点の維持を優先したものだった。歴史的には、このような撤退判断も指揮官の能力として評価される。無理な籠城や追撃によって全滅するより、残存兵力を保持し、次の防衛戦へ備える方が主家にとって有益だからである。義秀は東禅寺城へ戻った後も抵抗を続け、翌年の攻城戦を耐えた末、和議によって開城して米沢へ撤退した。敵を撃破して城を維持することはできなかったが、孤立した状況で一定期間守備を続け、最後には城兵を伴って退去した点は、敗戦処理を担った指揮官として評価できる。

朝日軍道に象徴される兵站能力への評価

義秀を特徴付ける功績として、朝日軍道の整備に関わったことが挙げられる。上杉景勝が会津へ移された後、上杉領は会津、置賜、庄内、佐渡などに分かれており、置賜と庄内の間には最上氏の勢力圏が存在していた。領国間の連絡を保つには、最上領を避けて朝日連峰を越える独自の経路が必要だった。直江兼続の構想によって整備された朝日軍道は、総延長約六十五キロメートル、幅約一・八メートルとも伝えられる山岳路である。義秀は庄内側の城将として、この軍道の整備や維持に関与したと考えられている。

軍道の開削は、武将の武勇を描く物語では目立ちにくい。しかし実際の戦争では、兵士、馬、武器、食料、命令書を安全に移動させる道路がなければ作戦を実行できない。急峻な山岳地帯で人夫を集め、道を切り開き、途中の小屋や水場を確保し、案内人を配置する仕事には、長期的な計画と現場の統率が必要だった。しかも慶長出羽合戦では、義秀自身がこの軍道を通って庄内へ撤退したと伝えられている。自ら整備に関わった交通路が、後に自軍を救う退路となったのである。この出来事から義秀は、目の前の戦闘だけでなく、地形や交通を利用して戦争を支える兵站型の武将として評価できる。朝日軍道に関する伝承には経路や時期の異同があるものの、義秀の名が地域の軍道史と結び付いて残ったことは、彼が庄内支配の現場で重要な役割を果たした証しでもある。

金山代官として評価される経済・行政能力

後世の評価において見落とせないのが、庄内における金山経営である。義秀は立岩喜兵衛とともに金山代官となり、玉川村周辺の金山開発や管理に関わったと伝えられる。金山代官には、採掘に従事する人々の統率、産出量の把握、精錬、運搬、収入の管理、現場の治安維持など、多くの仕事が伴った。鉱山から得られる金は、城の修築、武具の購入、兵糧の調達、家臣への支給に使える重要な財源である。そのため鉱山の管理は、財政担当者の仕事であると同時に、上杉家の軍事力を支える任務でもあった。

義秀は鉱山だけでなく、庄内の産物を領外へ移出する地域経済の振興にも関わったとされる。こうした活動からは、義秀が年貢を取り立てるだけの支配者ではなく、領地から継続的に収益を生み出す方法を理解していたことがうかがえる。上杉家が各地で軍事行動を展開するには、現地の経済を維持しながら収入を確保する必要があった。義秀は城将として敵に備える一方、資源開発によってその城を支える財政基盤を整えた。戦国武将を合戦の強さだけでなく、領国経営や資源管理の能力から見るならば、義秀は軍事と行政を結び付ける能力を持った地方統治者として、より高く評価される人物である。

直江兼続の構想を実行した現場責任者

志駄義秀は、直江兼続ほど大規模な政策を立案した人物ではない。上杉景勝の執政として領国全体を動かした兼続と比較すれば、義秀はその指揮下で働く与力であり、歴史叙述の中心に置かれにくい立場だった。しかし、兼続の政策は命令を出すだけで実現したわけではない。庄内を治め、金山を開き、軍道を整え、最上氏に備えるには、現地で家臣、領民、職人、人夫を動かす責任者が必要だった。その一人が義秀である。

この点から義秀は、政策立案者ではなく政策遂行者として評価される。歴史上では命令を出した人物に功績が集約されがちだが、実際の事業を成功させるには、現地の反発を抑え、資材や人員を調達し、予定どおりに作業を進める者が欠かせない。義秀が与板衆の筆頭格とされ、複数の城代や代官を務めたことは、兼続から実務能力を信頼されていたことを示す。義秀の功績を正しく評価するためには、兼続の陰に隠れた家臣と見るのではなく、兼続の構想を現実の支配へ変えるために必要だった協力者と捉えるべきである。

二度の蟄居をどう評価するべきか

義秀の経歴には、関ヶ原後を中心に二度の蟄居があったとされる。これを理由に、義秀が失策を重ねた武将だったと評価する見方も成り立つかもしれない。しかし、処分の具体的な原因や経過は十分に明らかでなく、東禅寺城開城の責任だけですべてを説明することは難しい。関ヶ原後の上杉家は、会津百二十万石から米沢三十万石へ大幅に減封され、家臣団の整理と徳川政権への恭順を迫られていた。旧領で最上軍と戦った義秀を処分することには、敗戦責任だけでなく、新たな政治秩序に適応するための意味があった可能性もある。

より重要なのは、義秀が処分後に二度とも上杉家へ復帰し、荒砥城代、侍大将、米沢奉行へ進んだことである。本当に能力や忠誠を失った家臣であれば、城と兵を再び任されることは考えにくい。特に晩年に米沢奉行となり、知行を二千石へ加増されたことは、過去の失敗よりも長年の経験と実績が評価されたことを示す。義秀の蟄居は経歴上の汚点としてだけでなく、敗戦後の政治的責任を引き受け、その後に信頼を回復した過程として見る必要がある。処分を受けて他家へ走るのではなく、再び召し出されるまで耐え、復帰後は主家のために働き続けた姿からは、義秀の忍耐力と忠誠心が読み取れる。

越後から米沢まで主家に従った忠節への評価

義秀は上杉謙信、上杉景勝、上杉定勝の三代に仕えた。謙信時代の越後から、景勝時代の会津、関ヶ原後の米沢へと本拠が移るたび、家臣たちは住み慣れた所領や人間関係を捨て、新しい土地へ移らなければならなかった。特に米沢への減封では、上杉家の石高が四分の一になったにもかかわらず、多くの家臣が主家に従ったため、一人当たりの知行や生活条件は厳しくなった。義秀も東禅寺城五千百石を失い、帰参後は荒砥城代千石から再出発している。それでも上杉家を離れず、最終的には藩政を担うまで奉公を続けた。

この経歴から、後世の義秀は上杉家への忠節を貫いた家臣として評価される。ただし、その忠義を物語的に美化し過ぎるべきではない。戦国武士にとって主家を離れることは、自身の家臣や家族、家名、所領の基盤を失う危険を伴った。義秀が上杉家に残った理由には、父祖以来の主従関係、直江家との血縁、志駄家臣団の存続、他家へ移ることの困難など、現実的な事情もあっただろう。それでも二度の蟄居を受け、石高を大きく減らされながら復帰を選んだ事実は軽視できない。義秀の忠節は、劇的な殉死や一度の自己犠牲ではなく、条件が悪化した後も長期間にわたって奉公を続ける持続的な忠誠だった。

戦国武将から近世藩士へ転身した適応力

義秀の歴史的評価で特に注目されるのは、戦国時代の武将として生まれながら、江戸時代の藩政官僚へ転身した点である。若い頃の義秀は御館の乱や国境の城で戦い、壮年期には庄内で軍事行動を行った。しかし徳川幕府成立後には、侍大将として軍制を支えると同時に、奉行郡代や米沢奉行として行政を担当した。元和8年(1622年)には最上家改易後の旧領処理にも関わったとされ、上杉定勝の時代には婚儀の実務を取り仕切った。

戦国時代には敵を攻める能力が重視されたが、江戸時代には法令を守り、財政を管理し、儀礼を滞りなく実施する能力が必要となった。武勇だけを頼りにしていた武将の中には、平和な時代に役割を失った者もいる。その中で義秀は、城将から奉行へと自らの役割を変え、七十歳前後まで家中の重職を務めた。これは義秀が新しい制度を理解し、過去の経験に固執しない柔軟性を持っていたことを示す。後世の視点では、義秀は乱世を生き残っただけではなく、武士の仕事そのものが変化する中で、自らの能力を更新した人物として評価できる。

「上杉二十五将」に名を連ねた意味

志駄義秀は、後世に「上杉二十五将」の一人として数えられている。上杉二十五将とは、上杉謙信と上杉家を代表する優れた武将を選び出した呼称であり、江戸時代に上杉家の将士を整理し、代表的な人物を顕彰する過程で定着したものと考えられている。義秀が亡くなった後に形成された一覧であるため、謙信存命中に二十五人の正式な精鋭部隊が存在し、義秀がその一員に任命されていたという意味ではない。後世の上杉家が父祖の武功を整理し、代表的な忠臣を顕彰する中で成立した枠組みと考えるのが妥当である。

この点を踏まえても、義秀が二十五将に選ばれた事実には意味がある。謙信時代の活躍だけを見るなら、義秀は若く、著名な宿老たちほど多くの軍功を挙げていない。それでも後世の上杉家が義秀を代表的武将に含めたのは、景勝への忠節、直江兼続のもとでの働き、庄内防衛、米沢藩政への貢献まで含めて評価したからだと考えられる。つまり義秀の顕彰は、一戦の武勇ではなく、上杉家の存続に長く貢献した生涯全体に対する評価だった。もっとも、二十五将という肩書きを理由に、義秀を謙信時代の最有力武将だったと断定するのは正確ではない。義秀の本当の価値は、後世の称号よりも、実際に任された役職と長期的な奉公の内容から判断する必要がある。

知名度が高くない理由

義秀が上杉二十五将に数えられながら、柿崎景家、斎藤朝信、甘糟景継、直江兼続などに比べて知名度が低い理由はいくつか考えられる。第一に、川中島の戦いのような広く知られた合戦で中心人物となった記録が少ないことである。第二に、義秀自身を主人公とする軍記や講談がほとんど作られなかったことである。第三に、活動の中心だった庄内の支配や朝日軍道、金山経営が、一般的な戦国物語では扱われにくいことである。第四に、慶長出羽合戦の物語が直江兼続と最上義光の対決を中心に描かれ、別方面から行動した義秀の働きが脇へ置かれやすいことが挙げられる。

また義秀の生涯には、華々しい最期も劇的な裏切りもない。七十歳を超えるまで生き、米沢藩の重臣として静かに没したことは、武将としては成功に近いが、物語の題材としては地味に見えやすい。しかし知名度の低さと歴史的重要性は同じではない。史料を丹念に追うことで、義秀が上杉家の地方支配、兵站、撤退、防衛、藩政を支えた人物だったことが見えてくる。義秀は有名な主君や軍師の陰に隠れた存在ではあるが、その陰にいたからこそ担えた仕事が数多くあったのである。

郷土史における評価

全国的な戦国史では義秀が大きく扱われることは少ない一方、新潟県の旧夏戸周辺、山形県庄内地方、朝日連峰沿線、米沢市などでは、地域の歴史と結び付いた人物として注目される。夏戸では志駄氏の城主として、庄内では東禅寺城を守った上杉方武将として、朝日連峰では軍道を利用して雪中撤退を行った人物として、米沢では上杉家に従って移住し藩政を支えた家臣として記憶されている。一人の武将が複数の地域史に登場するのは、義秀が主家の移封や任務によって広い範囲を移動したためである。

特に朝日軍道をめぐる郷土史では、義秀の撤退は険しい山岳地帯を越えた印象的な出来事として語られる。冬の朝日連峰をどの時期に、どの経路で、何人ほどの兵が通過したのかには検討の余地があるものの、義秀の名は軍道の歴史を伝える象徴となっている。また庄内では、東禅寺城が後の亀ヶ崎城へつながるため、城郭史の中でも義秀の存在が取り上げられる。郷土史による顕彰には地域的な誇張が加わることもあるため注意が必要だが、中央の政治史では見えにくい義秀の現場での働きを掘り起こす役割も果たしている。

現代的な視点から再評価される要素

現代の歴史観では、戦国武将を勝敗や討ち取った首の数だけで評価するのではなく、組織運営、外交、経済、交通、資源開発、危機管理など多方面から捉えるようになっている。その視点を志駄義秀に当てはめると、従来以上に評価できる要素が見えてくる。義秀は幼くして父を失いながら志駄家を存続させ、直江家との関係を生かして上杉家中で地位を築いた。国境の城を守り、鉱山を管理し、軍道を整え、敵領へ進撃し、敗戦時には撤退し、減封後は藩政に適応した。これらは現代の言葉に置き換えれば、危機管理、資源管理、交通網整備、組織再編、事業継続などに相当する能力である。

一方で、義秀を万能の名将として持ち上げることも適切ではない。慶長出羽合戦では最終的に占領地を失い、東禅寺城も開城している。上杉家の政治方針を決定する立場ではなく、直江兼続の指揮下で働く中堅・上級家臣だった。本人の発言や思想を詳しく示す史料も少ない。そのため、義秀の評価は「知られざる天下の名将」といった誇張ではなく、「上杉家の命令を現地で実行し、困難な局面を支えた有能な実務武将」とするのが最も実像に近い。

志駄義秀に対する総合的な歴史評価

志駄義秀を総合的に評価すると、その最大の功績は、上杉家の最盛期だけでなく、内乱、移封、敗戦、減封という苦境にも付き従い、必要とされた役割を果たし続けたことにある。御館の乱では景勝方の勝利を支え、越中では国境の城を預かり、庄内では金山と城を管理した。会津移封後には東禅寺城将として最上氏に備え、慶長出羽合戦では敵領へ進撃した。関ヶ原後には孤立した城を守り、開城後は処分を受けながらも復帰した。大坂の陣を経て戦乱が終わると、今度は米沢藩の奉行として行政を支え、上杉定勝の代まで仕えた。

義秀の生涯には、勝ち続けた無敗の将という分かりやすさはない。攻め取った城を放棄し、守った城を開城し、知行を失い、二度の蟄居も経験している。しかし、戦国武将の真価は成功だけでなく、失敗や敗戦の後に組織を立て直せるかどうかにも表れる。義秀は東禅寺城も五千百石の知行も失ったが、家名と奉公の機会を守り、最後には米沢藩の重職へ戻った。これは一時的な幸運ではなく、長年にわたって培った実務能力と信用があったからこそ可能だった。

後世の歴史家が義秀を評価するとすれば、勇猛果敢な先陣の将というより、主家の命令を理解し、遠隔地でも自律的に行動できる地域司令官、軍事と経済を結び付けた行政官、敗戦後の上杉家を支えた忠実な藩士という位置付けになるだろう。上杉二十五将に名を連ねたことは、その長い奉公が後世の上杉家から認められた証しである。志駄義秀は歴史の主役として大きく描かれる人物ではないが、主役たちの決断を現実のものとし、上杉家を戦国から近世へつないだ「支える力」を象徴する武将だったのである。

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■ 登場する作品(書籍・テレビ・ゲームなど)

作品の主役よりも上杉家臣団を支える人物として描かれる志駄義秀

志駄義秀は、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続といった全国的に知られる人物と深い関係を持ちながら、映像作品や小説で主役として取り上げられる機会は決して多くない。戦国時代を題材にした作品では、大名同士の決戦、天下統一をめぐる争い、劇的な裏切り、個性的な豪傑などが物語の中心になりやすい。義秀の功績は、城の守備、地方統治、金山経営、軍道の整備、撤退戦、敗戦後の藩政再建など、組織を内側から支える仕事に集中している。そのため、短い上映時間や限られた登場人物で構成される映画やテレビドラマでは、上杉家臣団の一人として背景に置かれることが多い。一方、多数の武将を収録できる歴史シミュレーションゲームでは、義秀のような中堅武将にも活躍の場所が与えられる。特に内政、築城、守備、部隊統率を扱う作品では、戦場と行政の双方を経験した義秀の経歴が能力値や特性へ反映されやすい。義秀の作品上の存在感を考える場合には、主人公として何作に登場したかだけでなく、上杉家という巨大な組織を再現するために必要な武将として、どのような役割を与えられているかを見ることが重要である。

NHK大河ドラマ『天地人』に登場した志駄義秀

志駄義秀が実写映像の人物として広く知られるきっかけの一つとなったのが、2009年に放送されたNHK大河ドラマ『天地人』である。同作は直江兼続を主人公とし、上杉謙信の時代から御館の乱、豊臣政権、関ヶ原の戦い、米沢藩の成立までを描いた歴史ドラマだった。兼続を中心とする物語であるため、泉沢久秀、甘糟景継、色部長実、大国実頼など、上杉家や直江家に関係する武将が数多く登場している。その中で志駄義秀は俳優の信太昌之によって演じられ、直江家の配下に属する与板衆の武将として描かれた。義秀は物語全体を動かす中心人物ではないものの、兼続が上杉家中で軍事・行政を進める際に、その命令を現場で実行する部将の一人として姿を見せる。

ドラマにおける義秀の役割は、実際の経歴と大きく離れたものではない。史実の義秀も直江家と血縁的に深く結ばれ、兼続の指揮下で与板衆の筆頭格として活動した。したがって『天地人』で兼続の手足となって働く武将として配置されたことには、歴史的な背景がある。ただし大河ドラマは限られた放送回数の中で主人公の人生を分かりやすく描く必要があるため、義秀が担当した金山経営、朝日軍道の整備、東禅寺城防衛、最上領への侵攻などが、すべて詳細に映像化されたわけではない。義秀個人の幼少期、直江家に養育された事情、二度の蟄居、米沢奉行としての晩年なども、独立した物語として深く掘り下げられてはいない。それでも名前の知られていない武将が実在の人物として配役され、上杉家臣団の一員として映像に登場した意義は大きい。『天地人』をきっかけに出演者一覧や上杉家臣の系譜を調べ、志駄義秀という人物へ関心を持った視聴者も少なくなかったと考えられる。

『天地人』で表現された上杉家臣団の一員という立場

『天地人』の志駄義秀は、単独で大きな見せ場を持つ英雄というより、直江兼続を取り囲む武将集団の一人として機能している。この描き方は義秀の知名度を高めるうえでは控えめに見えるが、上杉家臣団の構造を表現するという点では意味がある。兼続がいかに優れた政策や作戦を考えても、それを各地で実行する家臣がいなければ領国を動かすことはできない。義秀のような与板衆の武将が画面にいることによって、兼続の命令が個人の力だけで実現したのではなく、複数の部将や家臣によって支えられていたことが伝わる。

一方、ドラマだけを見た場合、義秀が上杉家の中でどの程度重要な人物だったのかは分かりにくい。実際には会津移封後に五千百石を与えられ、庄内の東禅寺城を任された地域司令官であり、関ヶ原後には苦境を経験しながら米沢藩の重職へ戻った人物である。映像作品での出番と歴史上の重要度が必ずしも一致しない好例といえる。『天地人』に登場する義秀を入口として史実を調べると、脇役として映っていた武将が、実際には庄内方面の軍事と行政を任された有力家臣だったことが見えてくる。こうした発見も、歴史ドラマを鑑賞する楽しみの一つである。

『信長の野望・創造』で武将として再現された志駄義秀

志駄義秀が比較的詳しく再現される分野が、コーエーテクモゲームスの歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』シリーズである。シリーズの一部作品では、志駄義秀が上杉家に所属する武将として登場し、プレイヤーが配下として登用したり、城や部隊を任せたりできる。『信長の野望・創造 with パワーアップキット』や『信長の野望・創造 戦国立志伝』では、生年や没年、上杉家臣としての経歴を反映した武将データが設定されている。

同作における義秀は、統率と政治が比較的高く、武勇や知略も極端に低くない、均衡の取れた武将として表現される。特に政治能力が武勇を上回る設定は、金山奉行、城代、米沢奉行などを務めた史実を意識したものと考えられる。戦法には味方を支える性質が与えられ、成長させることで土木、治水、商業、民心掌握、遠距離行軍、城の守備などに関係する能力を発揮できる。これは敵将を一撃で倒す豪傑ではなく、領国を整備し、城を守り、長期戦を支える武将としての義秀像である。

『創造』では大名だけでなく、多数の城主や家臣を適切に配置することが重要になる。上杉謙信や直江兼続のような高能力の武将は前線や重要政策へ集中させたいため、義秀のように内政と軍事の双方を担当できる武将は使い勝手がよい。城の開発を進めた後、そのまま部隊を率いて出陣させることもできるため、史実と同様に現場責任者として活躍させられる。知名度では上杉家の宿老に及ばなくても、実際のゲーム進行では領国を支える貴重な戦力となるのである。

『信長の野望・創造 戦国立志伝』で体験できるもう一つの人生

『信長の野望・創造 戦国立志伝』では、大名だけでなく家臣の立場から戦国時代を生きる遊び方が用意されている。そのため志駄義秀を選び、上杉家臣として所領を発展させながら出世していくという、史実を下敷きにした遊び方も可能である。幼くして父の跡を継ぎ、直江家の支援を受けて成長した史実を想像しながら、城代や軍団長を目指すことができる点は、人物単位で歴史を楽しむ作品ならではの魅力である。

プレイヤーの選択によっては、御館の乱で景勝を支えるだけでなく、自ら大名へ成長したり、史実とは異なる地域へ移ったりする展開も起こり得る。庄内の東禅寺城を守り抜く、最上氏を破って出羽を制圧する、上杉家を関ヶ原後の減封から救うといった仮想の歴史も作ることができる。史実では直江兼続の指揮下で働いた義秀が、ゲームでは独自の領国を築き、天下へ進む可能性を持つ。こうした史実と仮想の間を行き来できることが、シミュレーションゲームにおける志駄義秀の大きな魅力である。

『信長の野望・新生』における守備と政務を重視した人物像

『信長の野望・新生』にも志駄義秀は武将として収録されている。同作での能力は、武勇や知略よりも政務が高めに設定され、所属する城の防御に役立つ特性を持つ。戦法も敵部隊の攻撃力を抑える性質であり、正面から圧倒的な攻撃を仕掛けるというより、敵の勢いを弱めながら城や部隊を守る武将として設計されている。

この設定には、義秀が松倉城、東禅寺城、荒砥城などを任された城将であったことが反映されていると考えられる。特に関ヶ原後の東禅寺城では、上杉家の立場が不利となり、援軍を期待しにくい中でも一定期間抵抗を続けた。最終的には開城したものの、城兵をまとめ、和議によって撤退した経験は守備型武将の人物像と結び付きやすい。また政務能力が比較的高い点には、金山の管理、庄内経営、米沢藩の奉行としての働きが表現されている。

上杉家でプレイする場合、義秀は最強の攻撃部隊を率いる武将ではないが、前線の城を任せたり、領内の政策を進めたりする際に役立つ。ゲーム上でも、派手な戦闘力ではなく、城と地域を支える安定した家臣という史実に近い役割を担うのである。

『信長の野望 20XX』に登場するカード武将

現代を舞台に戦国武将たちが異形の敵と戦う『信長の野望 20XX』にも、志駄義秀はカード武将として登場している。同作は通常の歴史シミュレーションとは異なり、戦国武将が現代兵器や特殊な能力を用いて戦う独特の世界観を持つ。義秀は高い希少度を持つ主役級の武将ではないものの、上杉家に所属する武将の一人として収録され、各種の武将募集や催しなどで登場する。

この作品では、謙信、景勝、兼続といった著名武将だけでなく、岩井信能、千坂景親、中条藤資、北条景広、志駄義秀など、上杉家臣団を構成した幅広い人物がカード化されている。義秀単独の人生が詳しく描かれるわけではないが、多数の上杉武将の中に名前が並ぶことで、実際の上杉家が限られた有名人だけで成り立っていたのではないことが視覚的に伝わる。歴史上では脇役になりがちな人物を収集し、育成し、戦闘へ参加させられる点は、カード型ゲームならではの再評価につながっている。

アーケードゲーム『戦国大戦』の志駄義秀

セガのアーケード用カードゲーム『戦国大戦』にも、志駄義秀は上杉家の武将カードとして登場した。同作では武将ごとに兵種、武力、統率、特技、計略が設定され、実物のカードを盤面で操作しながら敵軍と戦う。義秀のカードには、上杉二十五将の一人であり、東禅寺城を守って慶長出羽合戦に参加した人物であることを踏まえた紹介が付けられている。

ゲーム上の義秀は鉄砲隊として設定され、城や部隊の防御に関係する特技を持つ。敵の移動を妨げる計略も与えられ、相手の進撃を遅らせて戦場を制御する役割を担う。これは東禅寺城の守備や最上軍との対陣を連想させる設計である。武力だけで敵を圧倒するカードではないが、味方の布陣を整え、敵の動きを制限することで効果を発揮する。史実の義秀が軍道、城郭、地域支配を利用して戦ったことを考えると、力押しよりも防御と統制を重視するゲーム上の表現は、人物像に適したものといえる。

カードの外見や台詞には史実そのものではない創作的な個性も加えられている。歴史ゲームでは、記録の少ない武将へどのような性格や話し方を与えるかが制作側の工夫となる。義秀の場合も、堅実な城将という史実的な要素に、親しみや意外性を持たせる演出が加えられた。これによって、それまで名前を知らなかった利用者がカードをきっかけに義秀の経歴を調べる機会が生まれた。

オンラインゲーム『戦国IXA』でカード化された志駄義秀

オンライン戦国ゲーム『戦国IXA』では、志駄義秀が武将カードとして登場している。同作では武将カードを組み合わせて部隊を編成し、城の攻撃や防御、領地の獲得などを行う。多数の武将が継続的に追加されるため、全国的な知名度が高くない人物にも独自の能力やイラストが与えられる。

義秀のカード化は、近年の戦国ゲームが織田信長、武田信玄、上杉謙信といった大名だけでなく、それぞれの家臣団を構成した人物へ対象を広げていることを示している。歴史シミュレーションでは能力値で表現される人物が、カードゲームではイラスト、技能、部隊相性などによって再解釈される。利用者にとって義秀は、上杉家の部隊を補強する一枚であると同時に、東禅寺城や慶長出羽合戦を知る入口となる人物でもある。

山岳史の書籍で取り上げられた雪中踏破

志駄義秀を直接的に扱う書籍として注目されるのが、朝日連峰と戦国史を結び付け、義秀の雪中踏破や朝日軍道との関係を取り上げた山岳史・地域史関係の文章である。一般的な武将列伝とは異なり、朝日連峰を舞台とした山岳史と戦国史を結び付け、義秀と朝日軍道の関係を扱う点に特徴がある。

義秀は慶長出羽合戦の際、庄内方面から最上領へ侵攻した後、関ヶ原で西軍が敗れたことを知って東禅寺城へ引き返した。伝承では、険しい朝日連峰を通る軍道を利用し、部隊を率いて庄内へ戻ったとされる。この出来事は、大軍同士が平野で激突する一般的な合戦物語とは異なり、山岳地帯の地形、気候、交通路、兵站に焦点を当てられる題材である。山岳史や古道研究の分野では、義秀の撤退が登山史や交通史の視点から扱われ、戦国武将の行動と朝日連峰の自然が一つの物語として結び付けられている。

こうした書籍での扱いは、義秀の人物像を理解するうえで重要である。義秀の代表的な特徴は、個人の剣技や一騎打ちではなく、地形を理解し、道を整え、部隊を移動させる能力にあった。山岳史の中で名前が残ったことは、彼の功績が戦国史だけでなく、交通史や登山史の分野にも広がっていることを示している。

朝日軍道に関する地域史・研究資料

義秀は山形県の朝日連峰、長井市、置賜地方、庄内地方などの地域史資料でも取り上げられている。朝日軍道に関する資料では、直江兼続の命令によって置賜と庄内を結ぶ道が整備され、東禅寺城にいる義秀への武器や物資の輸送、庄内産の金の運搬などに使われたと説明される。また、上杉家が庄内を失った際に、義秀がこの道を通って米沢方面へ移ったという伝承も紹介されている。

地域史資料では、全国規模の戦国史で省略されやすい土地の具体的な地形や村落名、峠、山道などが詳しく扱われる。そのため義秀は、単に上杉二十五将の一人としてではなく、実際に朝日連峰を越えた武将、庄内と置賜を結ぶ交通路を利用した城将として姿を現す。朝日軍道を歩いた登山家や郷土史家による踏査記録、古文書の研究、講演会の記録などにも義秀の名前が登場する。

ただし、軍道が使われた正確な時期、義秀が通過した経路、積雪状況、同行した兵数などには複数の説がある。地域伝承を読む場合には、史料で確認された事実と、後世に語り継がれた物語を区別する必要がある。それでも義秀が朝日軍道を象徴する人物となったこと自体は確かであり、地域の歴史文化を伝える重要な存在となっている。

上杉家臣団や慶長出羽合戦を扱う歴史書

志駄義秀は、上杉家臣団、直江兼続、慶長出羽合戦、庄内地方の城郭などを扱う歴史書や武将事典にも登場する。義秀だけを主題とした一般向け伝記は多くないが、上杉景勝の会津移封後の家臣配置を説明する場面では、東禅寺城を任された武将として名前が挙げられる。慶長出羽合戦を扱う書籍では、直江兼続が率いた主力軍とは別に、庄内方面から最上領へ入った部隊の指揮官として紹介される。

また、上杉二十五将を一人ずつ紹介する武将事典、米沢藩士の系譜を整理した資料、亀ヶ崎城や庄内金山を扱う郷土史などにも義秀の経歴が記載される。こうした書籍では、御館の乱、与板衆、直江家との関係、東禅寺城防衛、米沢奉行就任などが短い文章にまとめられることが多い。個々の記述は簡潔でも、複数の資料を組み合わせることで、義秀が軍人、城代、鉱山管理者、藩政担当者という複数の顔を持っていたことが分かる。

小説や漫画で主役になりにくい理由

志駄義秀を単独の主人公とする著名な長編小説や商業漫画は、広く確認できる範囲では多くない。その理由として、義秀本人の発言や感情を詳しく伝える史料が乏しいことが挙げられる。歴史小説では、主人公の考え方、家族との会話、敵将との対立、恋愛や友情などを物語として描く必要がある。しかし義秀については、父を幼くして失ったこと、直江家に養育されたこと、景勝方として戦ったことなどは分かっても、本人がどのような性格で、どのような言葉を残したのかはほとんど分からない。

さらに義秀の代表的な活動である金山管理や軍道整備は、戦国史として重要でも、漫画や映像で派手に見せるには工夫が必要になる。東禅寺城防衛も最終的には開城しており、分かりやすい勝利の物語にはなりにくい。しかし見方を変えれば、義秀の生涯には創作に適した題材が数多く存在する。二歳で父を失った幼君、直江家での成長、御館の乱での決断、兼続との協力、庄内への赴任、朝日連峰を越える撤退、二度の蟄居、老年での復帰という流れは、一人の武士が戦国から江戸へ生き抜く物語として十分な厚みを持っている。

動画やインターネット解説で広がる知名度

近年では、動画投稿サイトや歴史系ウェブサイトでも志駄義秀の生涯が紹介されている。動画では、直江家との結び付き、上杉二十五将としての位置付け、朝日軍道、慶長出羽合戦、東禅寺城防衛などが、地図や人物画像を用いて説明される。長編の書籍を読む機会が少ない人でも、短時間で義秀の基本的な経歴を知ることができるため、知名度の向上に役立っている。

特に朝日軍道は、険しい山岳地帯を通る秘密の軍道という印象的な題材であり、動画向けの物語として扱いやすい。義秀が自ら整備に関わったとされる道を利用して危機を脱したという構成は、視聴者の興味を引きやすい。一方、動画や個人サイトには、伝承を確定した史実として語ったり、異なる説を混同したりする場合もある。義秀を詳しく知る際には、映像解説を入口としつつ、自治体の地域史、博物館資料、軍役帳、朝日軍道研究などを併せて確認することが望ましい。

ゲーム作品で表現される義秀像の共通点

複数のゲーム作品に登場する志駄義秀には、いくつかの共通した人物像がある。第一は、武勇だけに特化していないことである。多くの作品で義秀は、統率、政治、守備、内政などに一定の能力を持つ万能型または行政型の武将として設定される。第二は、城の防衛や敵の妨害に向いた能力を持つことである。これは東禅寺城や荒砥城を任された経歴と結び付いている。第三は、上杉家臣団の層を厚くする人物として登場することである。

上杉家には謙信、景勝、兼続、本庄繁長、柿崎景家、斎藤朝信など強力な武将が多い。その中で義秀は最上級の能力を持つ人物ではないが、内政や守備を任せることで主力武将を重要な戦場へ送り出せる。ゲーム上の役割は、史実で義秀が果たした現場責任者としての仕事に近い。利用者が長期間上杉家を運営するほど、義秀のような中堅武将の価値が分かる仕組みになっている。

今後の映像化や物語化に期待される題材

志駄義秀を主人公とする作品を作る場合、最も魅力的な題材となるのは、朝日軍道と慶長出羽合戦である。庄内の東禅寺城を守る義秀が最上領へ出撃し、関ヶ原の敗報によって孤立し、険しい山道を越えて城へ戻る展開は、戦争映画や歴史小説として緊張感のある物語になる。そこへ幼少期に直江家から受けた恩、兼続との主従関係、家臣を生かすための撤退判断、開城後の責任と蟄居を重ねれば、単なる合戦物語ではなく、人間的な苦悩を描くことができる。

また義秀の人生全体を描けば、戦国武将が江戸時代の藩士へ変化する過程を表現できる。若い頃には槍を取り、壮年期には城と鉱山を管理し、敗戦後には処分を受け、晩年には政務を担う。この変化は、戦国の英雄だけを扱う作品とは異なる視点を提供する。上杉家の最盛期ではなく、減封後に家臣たちがどのように生活を立て直したのかを描く作品でも、義秀は重要な役割を果たせる人物である。

登場作品から見える志駄義秀の魅力

志駄義秀は、映像、ゲーム、書籍での扱い方によって異なる顔を見せる。『天地人』では直江兼続を支える与板衆の武将として登場し、『信長の野望』では内政と守備に優れた実務型の家臣として再現される。『戦国大戦』や『戦国IXA』ではカード武将として独自の能力と外見を与えられ、『信長の野望 20XX』では現代的な架空世界で戦う人物となる。山岳史の書籍や地域資料では、朝日連峰を越えた武将、軍道を利用した城将として扱われる。

いずれの作品でも共通しているのは、義秀が上杉家の中心に立って天下を動かす人物ではなく、中心人物の決断を現場で支える家臣として描かれる点である。その立場は一見すると地味だが、上杉家の組織を現実的に表現するうえでは欠かせない。義秀がいることで、直江兼続の命令を実行する軍勢が存在し、庄内の城が守られ、金山が運営され、軍道が使われたことが具体的に理解できる。

志駄義秀が登場する作品を楽しむ際には、画面や物語の中で目立つかどうかだけで判断せず、その人物がどの城を任され、どの能力を与えられ、誰を支える役割を担っているのかに注目するとよい。そこには、派手な英雄とは異なる、組織を支え続けた実務武将としての魅力が表れている。今後、朝日軍道や東禅寺城防衛を題材とする小説、漫画、映像作品が作られれば、志駄義秀はこれまで以上に立体的な人物として知られる可能性を持っているのである。

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■ IFストーリー(もしもの物語)

もし志駄義秀が東禅寺城を守り抜いていたら

ここから描く物語は、志駄義秀の史実を土台としながら、「慶長出羽合戦後も東禅寺城を失わなかったら」という仮定を加えた歴史創作である。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで石田三成を中心とする西軍が敗れたことで、上杉景勝の立場は急速に悪化した。直江兼続が率いていた上杉軍主力は長谷堂城の包囲を解き、米沢へ撤退する。庄内方面から最上領へ進入していた志駄義秀も、戦局の変化を察して白岩城などを放棄し、朝日連峰を越えて東禅寺城へ戻った。史実では翌慶長6年、最上軍の攻撃を受けた義秀は、援軍を得られないまま東禅寺城を開城し、米沢へ退いたとされる。しかし、もし義秀が庄内の国人、港湾商人、農民、鉱山関係者をまとめ上げ、東禅寺城を一年以上守り続けていたならば、上杉家と最上家の関係、さらには徳川家康による東北地方の領地処分にも、わずかながら違いが生まれていたかもしれない。

敗報が届いた白岩城

慶長5年9月の終わり、志駄義秀は最上領内の白岩城にいた。庄内から進んだ義秀の軍勢は、下吉忠らとともに村山地方の城や集落を押さえ、最上軍の西側を脅かしていた。直江兼続の主力が長谷堂城を包囲し、義秀の別働隊が庄内側から迫ることで、最上義光を挟み撃ちにする構想だった。ところが義秀のもとへ届いたのは、勝利の知らせではなかった。美濃国関ヶ原において石田三成方が敗れ、徳川家康が天下の主導権を握ったという報告である。さらに、長谷堂城を攻めていた兼続も撤退を始めたらしいという情報が入った。

軍議の席では意見が割れた。占領した城に籠もり、最上氏と戦い続けるべきだと主張する者もいれば、直ちに庄内へ帰らなければ退路を断たれると訴える者もいた。義秀はしばらく黙って地図を見つめた。敵地で戦果に執着すれば、兵を失う。だが東禅寺城へ戻ったとしても、徳川方となった最上軍が庄内へ押し寄せることは避けられない。それでも義秀は撤退を命じた。自分の役目は、白岩城で名を挙げることではなく、庄内の拠点とそこに暮らす人々を守ることだと考えたからである。

義秀の軍勢は大頭森山を越え、朝日連峰へ入った。かつて直江兼続の命令を受け、義秀自身が整備に関わった軍道が、この時ばかりは命をつなぐ道となった。兵たちは重い武具を背負い、負傷者を助けながら険しい尾根を進んだ。夜になると山の冷気が肌を刺し、足元では濡れた落ち葉が滑った。追撃を恐れた義秀は、火を大きく燃やすことを禁じ、少人数ずつ隊列を組ませた。食料は少なく、脱落者も出た。それでも義秀は最後尾を進み、遅れる兵を置き去りにしなかった。何日もの山越えを経て、一行が庄内平野を見下ろした時、義秀は初めて表情を緩めたという。

東禅寺城で始まった籠城準備

東禅寺城へ帰還した義秀は、休む間もなく防衛の準備を始めた。城内にある米、塩、味噌、薪、矢、鉄砲の玉を調べ、何か月持ちこたえられるかを計算させた。酒田湊の商人には、海路を使って越後や佐渡方面から物資を運べないか交渉した。庄内の農村には必要以上の年貢を求めず、その代わりに城周辺の堀や土塁を補修する人夫を出すよう命じた。鉱山で働いていた者には坑道を掘る技術を生かさせ、城内から外へ通じる秘密の抜け道と地下貯蔵庫を造らせた。

義秀はただ城門を閉ざしたのではなかった。周辺の小さな砦や見張り所を整理し、最上軍の接近を早く察知できるようにした。最上川には小舟を配置し、敵が川を渡ろうとした場合には夜襲をかける計画を立てた。さらに城外の村々には、戦いが始まれば家財や食料をどこへ移すかを前もって知らせた。農民を無理に城へ集めれば食料が早く尽きるため、戦闘に必要な者だけを城内へ入れ、残りは山間部や海岸部へ避難させる方針を取った。

家臣の中には、すでに上杉家の敗北が決まった以上、早々に最上氏へ城を渡すべきだと訴える者もいた。義秀はその意見を一方的に退けなかった。彼自身も、庄内を永久に守れるとは考えていなかったからである。しかし、徳川家康から正式な命令が届く前に城を明け渡せば、上杉家の所領を独断で捨てたことになる。義秀は家臣たちを前にして、「勝ち目があるから守るのではない。主家から預かった城であるから、引き渡すべき相手と条件が定まるまで守るのだ」と告げた。

最上義光の庄内奪還作戦

山形城の最上義光は、上杉軍が長谷堂から退いた直後から庄内奪還を計画していた。庄内は米の取れる豊かな土地であり、酒田湊を持つ経済上の要地でもある。上杉景勝が関ヶ原で敗れた今こそ、奪われていた庄内を取り戻す好機だった。義光は嫡男の最上義康に軍勢を与え、東禅寺城を攻めさせることにした。さらに、前年まで上杉方として行動しながら、撤退に取り残されて最上家へ降った下吉忠を道案内に加えた。

下吉忠は東禅寺城周辺の地理と、義秀の戦い方を知っていた。義康は正面からの力攻めだけでは被害が増えると考え、周辺の道を封鎖し、城への食料搬入を止める長期包囲を選んだ。庄内の諸城には降伏を勧める使者を送り、東禅寺城を孤立させようとした。最上方の軍勢が近づくと、義秀は城外の小規模な砦を順次放棄し、兵を本城へ集めた。敵に利用される可能性のある橋は壊したが、村や田畑を無差別に焼くことは許さなかった。義秀は庄内を守るために戦っているのであり、守るべき土地を自ら荒廃させれば、たとえ城が残っても意味がないと考えたのである。

下吉忠との再会

最上軍が城を包囲して数日後、下吉忠を名乗る使者が東禅寺城へ現れた。義秀は櫓の上から、かつて共に白岩城を攻めた武将の姿を見た。下吉忠は最上方の使者として城の開城を求め、「上杉家はすでに敗れ、庄内を保持する望みはない。今降れば城兵と家族の命は保証する」と伝えた。

城内には下吉忠を裏切り者と罵る声もあった。しかし義秀は使者を斬ることを許さず、正式な客として扱った。二人が対面すると、下吉忠は義秀へ深く頭を下げた。敵へ降ったことを詫びたのではなく、旧友としての礼だった。義秀は責めなかった。撤退命令が届かず敵地へ取り残された武将が、家臣を生かすために降伏することを、義秀は理解していたからである。

義秀は開城の申し出を断った。「最上殿の言葉を疑っているわけではない。しかし、私は景勝様よりこの城を預かった。景勝様の命令か、公儀より正式な城引き渡しの命が届かぬ限り、城門を開くことはできぬ」と告げた。下吉忠は義秀の返事を聞き、説得を続けることなく引き下がった。別れ際、彼は小声で「次に会う時は、使者ではなく攻め手でござる」と告げた。義秀は「互いに己の主人へ仕えるのみ」と答えた。

東禅寺城の攻防

最上軍は夜明けとともに攻撃を開始した。鉄砲隊が城壁へ射撃を浴びせ、その間に足軽が堀へ土俵や木材を投げ込んだ。しかし義秀は攻撃の場所を予測し、土塁の裏側に鉄砲隊を配置していた。敵が堀へ近づいた瞬間に一斉射撃を行い、先頭の兵を退かせた。城門前にはわざと防御の弱そうな場所を作り、敵を狭い通路へ誘い込んだところで、側面の櫓から矢と石を浴びせた。

義秀自身は本丸にとどまらず、攻撃を受けた場所へ移動して兵を励ました。敵兵を自ら斬り伏せるような派手な戦い方ではなかったが、指揮官が前線へ現れることで城兵の動揺を抑えた。負傷者はすぐに後方へ運ばせ、治療に当たる僧や女性たちにも役割を与えた。戦えなくなった者を役立たずとして扱わず、矢の整理や炊き出しに回したため、城内の人々は自分にも役割があると感じられた。

攻撃は数日にわたったが、最上軍は城を落とせなかった。正面攻撃で被害を出した義康は、再び包囲策へ切り替えた。城内の井戸を絶つため地下水脈を探らせ、酒田湊からの物資搬入も止めた。義秀は夜陰に乗じて小舟を出し、海岸沿いの村から食料を運び込ませた。兵には食事を減らす一方、領民や負傷者へは一定量を配り続けた。武士だけが十分に食べれば、籠城は内部から崩れると知っていたからである。

海から届いた援助

籠城が三か月を越えた頃、酒田沖に数隻の船が現れた。最上軍は上杉家の援軍だと考えて警戒したが、船に乗っていたのは越後や佐渡の商人たちだった。義秀が庄内で金山や産物の流通を管理していた時代に関係を築いた者たちである。彼らは正式な軍勢ではなく、米、塩、薬、鉄砲の火薬を積んでいた。

商人たちは上杉家への忠義だけで危険を冒したのではない。義秀が庄内を治めていた時、通行税を一定にし、役人による勝手な取り立てを抑え、商取引の安全を守ったため、その恩を返そうとしたのである。義秀が戦時だけでなく平時の統治によって築いた信用が、城を支える力となった。

物資を積んだ船は夜間に河口へ近づき、城方の小舟へ荷を移した。すべてを運び込むことはできなかったが、わずかな米と火薬は城兵の士気を大きく高めた。最上義康は海上封鎖を強めたものの、日本海沿岸のすべてを監視することは難しかった。義秀は庄内が陸上だけでなく海上交通によって成り立つ土地であることを理解し、それを籠城戦に利用したのである。

徳川家康へ送られた書状

城を力攻めで落とせないと判断した最上義光は、徳川家康へ上杉方の抵抗を報告した。義光は、庄内が最上家の旧領であること、上杉家が関ヶ原後も城を明け渡さないことを訴え、幕府の命令による開城を求めた。一方、義秀も密かに使者を米沢へ送り、上杉景勝と直江兼続へ状況を報告した。

景勝は苦しい立場にあった。義秀の忠節を評価してはいたが、徳川家康へ恭順を示さなければ上杉家そのものが滅ぼされる可能性がある。兼続も、東禅寺城一城のために再び最上氏と全面戦争を行うことは不可能だと理解していた。二人は義秀へ開城を命じることを考えたが、その前に家康から庄内の処分に関する使者が到着した。

この仮想の歴史では、家康は義秀の抵抗を単純な反逆とは見なさなかった。義秀が最上領へ新たな攻撃を仕掛けず、正式な命令が届くまで城を保持しているだけだという報告を受けたためである。家康は上杉家の領地を米沢三十万石へ削減する一方、東禅寺城については、城兵の安全、家臣の知行の一部保証、武具の持ち出しを条件として最上家へ引き渡すよう命じた。

名誉ある開城

徳川家康の朱印状と上杉景勝の命令書が東禅寺城へ届くと、義秀は家臣を集めた。多くの者は、これで戦わずに済むと安堵した。しかし一部には、長く守り抜いた城を渡すことに納得できない者もいた。義秀は彼らへ、「城を守るとは、城壁にしがみついて死ぬことではない。主君の命令が届くまで預かり、命令が届けば傷付けずに返すことも城将の役目である」と説いた。

開城の日、義秀は城内を清掃させ、蔵の米や武具を帳簿と照合した。火を放つことも、井戸へ毒を入れることも許さなかった。城門が開かれると、志駄家の旗を先頭に、城兵とその家族が整然と外へ出た。最上義康は街道の両側へ兵を並べたが、攻撃を命じなかった。義秀は義康の前で馬を降り、城の鍵と帳簿を差し出した。

義康は「なぜ勝ち目のない城をこれほど長く守った」と尋ねた。義秀は「勝つためだけに守ったのではござらぬ。誰の命によって、どのような条件で城を渡すのかを明らかにするために守ったのでござる」と答えた。その言葉を聞いた義康は、義秀と城兵が米沢へ帰るための食料を与えた。下吉忠も列の中から義秀を見送ったが、二人は言葉を交わさなかった。かつての味方と敵が、それぞれの役目を終えた瞬間だった。

米沢で待っていた新たな役目

米沢へ帰った義秀は、史実のような長期蟄居ではなく、短期間の謹慎を命じられた。上杉家としては徳川政権への配慮を示す必要があったが、東禅寺城を正式な命令が届くまで守り、城兵を無事に帰還させた働きは高く評価された。上杉景勝は義秀へ、「城を失ったのではない。家臣を連れて帰ったことこそ功である」と伝えた。

直江兼続は義秀を米沢城へ呼び、減封後の家臣団再編を任せた。上杉家は百二十万石から三十万石へ削られたため、以前と同じ知行を家臣へ与えることができなかった。浪人となる者、農業へ戻る者、他家へ仕官する者も出た。義秀は東禅寺城で共に戦った者を優先することなく、家族の人数、軍役、過去の働き、現在の技能を調べ、限られた土地を配分した。武芸に優れた者は侍組へ、土木技術を持つ者は河川工事へ、鉱山経験者は山間部の資源調査へ回した。

義秀の働きによって、庄内から米沢へ移った人々の多くが新しい役目を得た。酒田の商人とも連絡を保ち、米沢の産物を日本海側へ運ぶ交易路を整えた。上杉家は領地を大きく失ったものの、義秀が庄内で築いた人脈を完全には失わなかった。これによって米沢藩は、史実より早く財政基盤を整えることになった。

最上家との新しい関係

東禅寺城の長期防衛は、最上家にも影響を与えた。最上義光は庄内を取り戻したが、城と町が焼かれず、米蔵や港湾施設も大きな損害を受けなかったため、領国経営をすぐに始めることができた。義秀が開城時に帳簿を残したことで、最上家は年貢や村落の状況も把握しやすかった。

最上義康は義秀の防衛と開城の姿勢を評価し、米沢へ使者を送った。両家の間に正式な同盟が結ばれたわけではないが、国境で小さな争いが起きた場合には、まず奉行同士が話し合う取り決めが作られた。この仮想の歴史では、義秀は上杉家と最上家の間を取り持つ人物となる。かつて武器を交えた相手であるからこそ、互いの恐れや事情を理解できたのである。

最上義光の死後、最上家では後継者をめぐる不安が高まった。史実では元和8年(1622年)に最上家が改易されるが、この物語では、上杉家と最上家の国境交渉が続いていたことで、家中の問題が早く幕府へ報告される。義秀は直接最上家の内紛へ介入しなかったものの、旧知の家臣たちへ争いを避けるよう書状を送った。その結果、最上家は大幅な減封を受けながらも完全な改易を免れ、山形の一部を治める小大名として存続する可能性も生まれた。

大坂の陣での志駄隊

慶長19年(1614年)、豊臣家と徳川幕府の対立が大坂冬の陣へ発展すると、上杉景勝も徳川方として出陣した。義秀は五十代半ばに達していたが、東禅寺城の防衛で名を高めた武将として一隊を任された。義秀の部隊には、庄内からともに撤退した古参兵と、米沢で新たに取り立てられた若者が混在していた。

若い武士たちは、義秀が最上の大軍を相手に東禅寺城を守った話を聞き、彼を勇猛な老将と考えていた。しかし義秀は出陣前、兵たちへ「戦場で最も大切なのは、敵を多く斬ることではない。命令を聞き、隣の者と離れず、退く時に隊列を崩さぬことだ」と教えた。

大坂の陣で義秀隊は、上杉軍の側面と補給路を守る役目を担った。若い武将たちは最前線へ出ることを望んだが、義秀は無断の突撃を禁じた。豊臣方の部隊が夜襲を仕掛けた際にも、義秀は追撃し過ぎず、陣地の外へ深く出ることを許さなかった。その判断によって上杉軍の補給線は保たれ、翌日の攻撃に必要な兵糧と火薬が無事に届いた。

目立つ首級を挙げたわけではなかったが、徳川方の軍監は義秀隊の秩序を高く評価した。関ヶ原後に上杉家への疑念を持っていた幕府も、大坂の陣での働きを通じて、上杉家が新しい秩序に従う大名であると認めるようになった。

直江兼続の死と義秀への遺言

元和5年(1619年)、直江兼続が病に倒れると、義秀は江戸へ見舞いの使者を送った。幼い頃から直江家に育てられた義秀にとって、兼続は上司であると同時に、同じ家の運命を背負ってきた近親者に近い存在だった。二人の関係は常に穏やかだったわけではない。庄内経営の方法、慶長出羽合戦での進軍、東禅寺城をどこまで守るかをめぐり、意見が食い違うこともあった。しかし義秀は兼続の構想を現場で実行し、兼続も義秀の判断力を認めていた。

この物語では、兼続は死の前に義秀へ一通の書状を残す。そこには、「戦の世には武勇が人を従わせる。しかし平和の世には、公平であることが人を従わせる。そなたは城を守る術を知る。これよりは人の暮らしを守れ」と記されていた。

兼続の死後、義秀は米沢藩の政務をより深く担うようになる。治水、街道整備、新田開発、山林管理を進める際、義秀は東禅寺城の経験を思い出した。城を守るには、城壁だけでなく、米を作る農民、物を運ぶ商人、道を直す人夫、傷を治す医師や僧侶が必要だった。藩も同じであり、武士だけを豊かにしても存続できないと考えたのである。

米沢藩を変えた庄内の経験

義秀は米沢藩の奉行に就くと、庄内で行っていた産物の流通と鉱山管理の経験を生かした。米沢周辺の山林から得られる木材や漆、紅花、青苧などを調べ、商人を通じて領外へ売る仕組みを整えた。農民には一律の作物を強制せず、土地の気候や水利に合う産物を選ばせた。新しい道を造る際には、軍隊が通ることだけでなく、荷車や商人が安全に往来できることを重視した。

また、東禅寺城の籠城で食料不足を経験した義秀は、米沢城下と各支城に非常用の穀物を備蓄させた。毎年すべてを使い切らず、古い米から順に入れ替える制度を設け、飢饉や戦争に備えた。家臣たちは当初、使う予定のない米を蓄えることに反対したが、義秀は「城が落ちるのは石垣が崩れた時ではない。食う物がなくなり、人の心が離れた時だ」と説明した。

この備蓄制度によって、後に冷害が起きた年にも米沢藩では多くの餓死者を出さずに済む。義秀の名は戦場の武将としてだけでなく、領民の命を救った奉行として語られるようになった。

上杉景勝の最期と義秀の役目

元和9年(1623年)、上杉景勝が亡くなると、上杉定勝が家督を継いだ。義秀は謙信、景勝に続いて三代目の主君に仕えることになった。若い定勝は、越後時代を知らず、御館の乱や会津移封も経験していない。義秀は家臣団の長老として、父祖の戦いを美化するだけでなく、敗戦から学ぶべきことを伝えた。

定勝が「上杉家はかつて百二十万石を領した」と誇らしげに語った時、義秀は静かに答えた。「大きな領地を持っていたことより、失った後にも家臣と領民が残ったことを誇るべきでございます」。この言葉は定勝の藩政方針へ影響を与えた。定勝は失われた領地を取り戻す野心よりも、現在の米沢領を安定させることを重視するようになる。

義秀は定勝の婚儀を取り仕切り、幕府や他大名との関係を整えた。かつて敵城を攻めた武将が、今では贈答品の数や客人の席順を確認している。若い家臣の中には、それを地味な役目と見る者もいた。しかし義秀は、刀を抜かずに家と家の争いを防ぐことも、武士の戦いであると教えた。

志駄義秀の最期

寛永9年(1632年)、義秀は病床で自らの生涯を振り返った。幼い頃に父を失い、直江家に育てられ、御館の乱で景勝を選び、越中や庄内の城を守った。最上領へ攻め込み、関ヶ原の敗報によって朝日連峰を越え、東禅寺城では長い籠城を経験した。大坂の陣にも出陣し、晩年は米沢藩の政務を担った。

枕元には家督を継ぐ義繁をはじめ、志駄家の者たちが集まった。義繁は父へ、武将として最も誇りに思う戦いは何かと尋ねた。御館の乱、白岩城攻略、東禅寺城防衛、大坂の陣のいずれかが答えとして返ってくると思ったのである。

義秀はしばらく考えた後、「東禅寺城を出た日だ」と答えた。義繁が驚くと、義秀は続けた。「城を守っている間は、死ぬ覚悟さえあればよかった。しかし城を渡し、家臣と領民を生かして新しい土地へ連れていくには、死ぬよりも多くの覚悟が要った。武士は死ぬ場所を選ぶ者ではない。生きて役目を続ける場所を選ぶ者だ」。

義秀は七十三歳ほどで静かに息を引き取った。葬儀には上杉家臣だけでなく、米沢の商人、農民、職人、庄内から訪れた者も参列した。最上家からも弔いの使者が届き、その中には老いた下吉忠の名代もいたという。義秀の墓前には、槍や甲冑ではなく、朝日連峰の石と庄内の土、米沢で実った稲穂が供えられた。

東禅寺城防衛が後世へ与えた影響

この仮想の歴史において、志駄義秀の東禅寺城防衛は、上杉家が武力だけでなく秩序と交渉を重んじる家であることを徳川幕府へ示す出来事となる。義秀は幕府の命令へ反抗して城を守ったのではなく、正式な命令が届くまで主君から預かった城を維持し、命令が届けば破壊せず引き渡した。その態度が家康に評価され、上杉家への警戒は史実より早く薄れていく。

上杉家は三十万石への減封こそ免れなかったものの、家臣団の一部に幕府から扶持が与えられ、庄内から移住した人々も米沢で新たな生活を築く。義秀が整えた交易路や備蓄制度によって米沢藩の財政は安定し、後世の藩政改革もより早く始まる。朝日軍道は戦争のための秘密路ではなく、庄内と置賜を結ぶ交易路として整備され続ける。峠には宿場が置かれ、商人、修験者、旅人が行き交うようになる。

東禅寺城の開城をめぐる義秀と最上義康の対話は、後世に能や講談の題材となる。「城を守るとは、死ぬことではなく、正しく渡す時まで預かることである」という義秀の言葉は、米沢藩士の教訓として伝えられる。江戸時代後期に描かれる上杉二十五将の肖像では、義秀は槍を構えた姿ではなく、東禅寺城の鍵と帳簿を手にした姿で表されるようになる。

もし義秀が庄内の独立大名を目指していたら

さらに大胆な仮定として、義秀が関ヶ原後に上杉景勝から離れ、庄内で独立を目指していた可能性を考えることもできる。東禅寺城、酒田湊、金山、庄内平野を押さえれば、小規模ながら独自の領国を築ける条件はあった。徳川家康へ早く降伏し、庄内の案内役を引き受ければ、義秀が一万石以上の大名として取り立てられる可能性も皆無ではない。

しかし義秀がその道を選んだ場合、志駄家は一時的に所領を得ても、上杉家臣としての信用を失うことになる。直江家から受けた恩、父・義時以来の忠節、共に戦った与板衆との関係も断ち切られる。最上義光も、庄内を自らの領地と考えているため、義秀の独立を認めるとは限らない。徳川家康にとっても、戦局に応じて主家を離れる武将は利用価値がある一方、長期的には警戒すべき存在となる。

仮に義秀が庄内一万石の領主となったとしても、最上氏と上杉氏の間に挟まれ、両方から疑われる不安定な立場になった可能性が高い。義秀の実際の人物像を考えれば、独立の野心を優先するより、上杉家へ戻り、減った知行の中で家名を守る選択の方が自然である。義秀の価値は、天下や一国を奪おうとしなかったことにある。自らの力が及ぶ範囲を理解し、主家の中で最も必要とされる役割を選び続けた点こそ、彼らしい生き方だった。

もし御館の乱で上杉景虎方を選んでいたら

義秀の運命を大きく変えるもう一つの分岐点が、天正6年(1578年)の御館の乱である。史実の義秀は上杉景勝を支持したが、もし上杉景虎方へ加わっていたならば、その後の人生はまったく違うものになっていた。景虎は北条氏康の子であり、越後国内にも支持者を持っていた。義秀が夏戸周辺の勢力や直江家に不満を持つ家臣と結び、景虎方へ転じる可能性を想定することはできる。

しかし景虎方は最終的に敗北した。義秀が景虎方の武将として戦っていれば、所領を没収され、討死するか、北条氏を頼って越後を去ることになった可能性が高い。幼い義秀を育てた直江家とも敵対することになり、直江兼続との協力関係、庄内経営、東禅寺城、米沢奉行という後半生は存在しない。

一方、景虎方の義秀が北条氏へ逃れて生き延びた場合、関東の武将として小田原合戦へ参加したかもしれない。豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅びれば、義秀は再び主家を失う。徳川家康に召し抱えられる可能性もあるが、上杉家臣として米沢へ至った史実ほど高い地位を得られたかは分からない。御館の乱で景勝を選んだ決断は、義秀にとって単なる一度の陣営選択ではなく、その後五十年以上の人生を決定する選択だったのである。

もし朝日軍道が存在しなかったら

朝日軍道が整備されていなければ、慶長出羽合戦後の義秀は最上領内で孤立した可能性が高い。通常の街道を使って庄内へ戻ろうとすれば、最上軍の支配地域を通らなければならず、追撃を受けて部隊が壊滅したかもしれない。義秀自身が討死する、あるいは下吉忠と同じように最上氏へ降伏する展開も考えられる。

義秀が庄内へ戻れなければ、東禅寺城には経験豊富な指揮官が不在となる。最上軍は早い段階で城を奪還し、上杉家は庄内をほとんど抵抗なく失っただろう。義秀が後に米沢藩へ帰参し、侍大将や奉行として働く未来もなくなる。一本の山道が、一人の武将だけでなく、志駄家とその家臣たちの運命を救ったことになる。

この仮定から見えてくるのは、戦国時代の歴史が大名の決断だけで動いたのではないということである。名も知られない人夫が木を切り、土を削り、橋を架けて造った道が、数年後に軍勢の退路となった。義秀の物語は、戦いの結果が戦場に立つ武将だけでなく、事前に行われた土木工事や物資の準備によって決まることを教えてくれる。

IFストーリーから浮かび上がる志駄義秀の本質

志駄義秀を題材とするIFストーリーでは、彼を天下人や独立大名へ変えることもできる。しかし、義秀らしさを最も強く表す物語は、派手な領土拡大よりも、孤立した城を守り、家臣を生かし、敗戦後の主家を立て直す展開であろう。義秀は実際の歴史でも、主君の座を狙ったり、他家へ乗り換えて大領を得たりした人物ではない。与えられた城と地域を管理し、戦況が変われば撤退し、処分を受けても上杉家へ戻り、晩年には藩政を担った。

もし東禅寺城を史実以上に長く守ったとしても、義秀は最後まで城に火を放って討死する道より、正式な命令を受けて城兵とともに退く道を選んだ可能性が高い。もし徳川家康から大名への誘いを受けたとしても、直江家と上杉家への恩を優先しただろう。もし最上氏との交渉役になったならば、かつての敵を憎み続けるのではなく、同じく家臣を背負う者として現実的な合意を探したと考えられる。

義秀のIFストーリーが示す最大の魅力は、歴史を一変させる天才ではなく、歴史の変化に耐えながら人と組織を次の時代へ運ぶ人物にある。天下分け目の戦いで敗れた側に属しても、人生がそこで終わるとは限らない。城を失っても家臣を残し、所領を失っても信用を残し、戦争が終われば行政という新しい戦場で役割を果たすことができる。志駄義秀の「もしもの物語」は、勝者だけが歴史を作るのではなく、敗北を受け入れ、その後の社会を支えた者もまた歴史をつないだのだという事実を、より鮮明に浮かび上がらせるのである。

[rekishi-11]

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