『宇都宮広綱』(戦国時代)を振り返りましょう

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【時代(推定)】:戦国時代

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■ 概要・詳しい説明

宇都宮広綱(うつのみや ひろつな)は、戦国時代の下野国を代表する名族・宇都宮氏の第21代当主として、16世紀中頃の北関東を生きた戦国大名である。天文14年(1545年)に生まれ、父は宇都宮氏第20代当主の宇都宮尚綱、母は下総国を中心に勢力を持った結城氏の一族で、結城政朝の娘と伝えられている。幼名は伊勢寿丸。後に宇都宮氏の家督を継いで広綱と名乗った。正室には常陸国の有力戦国大名・佐竹義昭の娘を迎えており、この女性は後に南呂院と呼ばれる。嫡男として宇都宮国綱が生まれたほか、結城朝勝、芳賀高武らも広綱の子として知られている。広綱の生涯を特徴づけるのは、巨大な領土を一代で築いた征服者としての華々しさではない。幼少時に本拠を奪われながらも家臣や周辺勢力の支援を受けて復帰し、その後も上杉氏・北条氏・佐竹氏などの強大な勢力が衝突する北関東で、名門宇都宮氏を存続させた「再興の当主」であったという点にある。

幼くして名門宇都宮氏の存亡を背負った当主

広綱が生まれた宇都宮氏は、鎌倉時代以前から下野国に根を張った東国屈指の名族であり、宇都宮城を中心として長い歴史を築いてきた。しかし広綱が誕生した16世紀中頃には、かつてのように当主の命令だけで領国内を一枚岩に動かせる状況ではなくなっていた。芳賀氏や壬生氏をはじめとする有力家臣がそれぞれ独自の軍事力と領地を持ち、周辺では那須氏・小山氏・結城氏・佐竹氏などが勢力を競っていた。さらに関東南部では後北条氏が急速に勢力を広げ、越後からは上杉謙信が関東への軍事介入を繰り返していた。広綱は、まさに北関東の勢力図が激しく書き換えられていく時代に幼少期を迎えたのである。

その人生を大きく変えたのが天文18年(1549年)の出来事だった。父・宇都宮尚綱が那須高資との戦いである五月女坂の戦いに出陣し、戦死したのである。広綱はこのときまだ幼児で、自ら家臣団を統率できる年齢ではなかった。戦国大名の家では当主の突然の死だけでも重大な危機となるが、幼い後継者しか残されなかった場合、その危険性はさらに大きくなる。宇都宮氏でも家中の主導権争いが表面化し、壬生氏が宇都宮城を掌握する事態へと進んでいった。幼名・伊勢寿丸を名乗っていた広綱は、先祖代々の本拠である宇都宮城を離れ、宇都宮氏重臣の芳賀高定を頼って真岡城方面へ退くことになった。つまり広綱は、名門の嫡子として生まれながら、幼少期から「城を持たない当主」という厳しい境遇に置かれたのである。

芳賀高定に守られた雌伏の少年時代

広綱の前半生を語るうえで欠かすことができない人物が芳賀高定である。芳賀氏は宇都宮氏を古くから支えてきた有力家臣であり、宇都宮氏家中でも大きな発言力を持っていた。父を失い、宇都宮城から離れざるを得なくなった幼い広綱にとって、芳賀高定の存在は単なる家臣以上の意味を持っていた。主家再興を目指す政治的・軍事的な後見人であり、広綱が成長するまで宇都宮氏の正統性を守り続ける役割を担った人物と考えることができる。

真岡を拠点とした時期の広綱は、敵を討ち破って領土を拡張するような戦国大名ではなかった。むしろ重要だったのは、「宇都宮氏の正統な当主が存在している」という事実そのものだった。壬生氏が宇都宮城を支配したとしても、長年下野国に君臨してきた宇都宮氏の権威まで簡単に消滅するわけではない。芳賀高定をはじめ旧来の家臣たちは広綱を奉じることで、宇都宮氏再興の旗印を維持することができた。広綱自身も成長とともに、単なる保護される少年から、宇都宮氏を再びまとめる当主へと変化していったと考えられる。

この期間は広綱にとって不遇な時代であった反面、後の政治姿勢を形づくった重要な経験でもあった。自家の力だけでは失った本拠を取り戻すことが難しく、家臣団の協力と他国大名との外交が生存に直結することを幼くして経験したからである。後年の広綱が佐竹氏や上杉氏との連携を重視し、ときには周辺情勢に応じて慎重な外交姿勢を取った背景には、こうした少年時代の体験があったと見ることもできる。

1557年の宇都宮城奪還と名門復興

広綱の人生における最大の転機は弘治3年(1557年)である。この年、広綱と芳賀高定は常陸国の大大名・佐竹義昭に援助を求めた。佐竹義昭は軍勢を動かして宇都宮方を支援し、壬生氏に圧力をかけた。こうした軍事的・外交的な働きかけを背景として、広綱はついに宇都宮城への復帰を果たす。父の戦死からおよそ8年、まだ少年から青年へ成長する途中の広綱が、失われていた本拠地を取り戻したのである。

宇都宮城奪還は単なる一つの城の所有権が移った出来事ではなかった。宇都宮城は下野宇都宮氏の政治的象徴であり、長い歴史を持つ一族の本拠そのものである。そこへ正統な当主である広綱が戻ったことによって、分裂状態にあった宇都宮氏は再び戦国大名としての形を整えることが可能となった。その意味で弘治3年は、広綱本人だけでなく宇都宮氏全体にとって「再出発の年」といってよい。

ただし、城を取り戻したからといって、すべての問題が解決したわけではない。壬生氏を完全に服属させたわけではなく、家中には独立志向を持つ有力領主が残っていた。外部では後北条氏が北関東進出を強めており、那須氏や小山氏など周辺勢力との関係も複雑だった。広綱は、復帰した直後から「宇都宮氏を再興する戦い」と同時に、「再び家を失わないための政治」を続けなければならなかったのである。

佐竹氏との婚姻が広綱政権を支えた

広綱の政治を安定させるうえで、とりわけ大きな意味を持ったのが佐竹氏との関係である。宇都宮城奪還に力を貸した佐竹義昭との結びつきは、その後さらに婚姻関係へと発展した。広綱は義昭の娘を正室に迎え、宇都宮氏と佐竹氏は軍事協力だけではない強固な姻戚関係で結ばれることになった。この正室が、後世「南呂院」の名で知られる女性である。

戦国時代の婚姻は個人同士の結婚であると同時に、大名家同士の外交そのものだった。宇都宮氏にとって佐竹氏との結びつきは、勢力を拡大する後北条氏に対抗するうえで極めて重要であった。一方の佐竹氏にとっても、下野中央部に根を張る宇都宮氏との連携は北関東政策を進めるうえで価値があった。広綱と佐竹氏の娘との婚姻は、双方の利害が一致した戦略的な同盟でもあったのである。

永禄11年(1568年)には嫡男・国綱が誕生し、宇都宮氏の後継体制も整えられた。広綱自身が幼少時に父を失ったため、嫡男の誕生は一族にとって特に大きな意味を持ったはずである。さらに広綱と南呂院の間に成立した佐竹氏との血縁は、後に広綱が亡くなり国綱が幼少で家督を継いだ際にも、宇都宮家を支える重要な政治基盤となっていく。

巨大勢力の狭間で生き残ることを求められた戦国大名

広綱の時代の北関東は、一つの勢力に従えば安泰になるような単純な情勢ではなかった。南からは小田原を本拠とする後北条氏が勢力を伸ばし、北西からは関東管領の権威を掲げる上杉謙信が何度も関東へ出兵した。常陸には佐竹氏が存在し、下野国内にも那須・小山・壬生・皆川など、それぞれ独自の思惑を持つ領主がいた。その中央付近に領国を持つ宇都宮氏は、常に複数勢力から圧力を受ける位置にあった。

広綱は基本的には佐竹氏との関係を軸としながら上杉謙信とも結び、後北条氏の北関東進出に対抗していった。しかし実際の戦国外交は単純な「上杉派」「北条派」という二分だけでは説明できない。強大な軍勢が接近すれば一時的な妥協を選び、情勢が変われば再び旧来の同盟へ戻ることも珍しくなかった。広綱の政治にもそうした揺れが見られ、これは本人の優柔不断というよりも、小規模・中規模の戦国領主が巨大勢力に挟まれながら領国を守るために必要とされた現実的な対応であった。

そのため広綱を理解するときには、織田信長や武田信玄のような「領土を急激に拡大した戦国大名」という物差しだけで評価すると、その本質を見失いやすい。広綱の課題は天下を狙うことではなく、幼少期に一度崩壊しかけた宇都宮氏を再建し、下野の有力大名として生き残らせることであった。その目的に対して、外交・婚姻・家臣統制・周辺勢力との戦いを組み合わせながら対応した点に、広綱という人物の特色がある。

病弱だったとされる広綱と32歳前後での早世

広綱は長寿を全うした戦国大名ではない。一般には天正4年(1576年)8月に亡くなったとされ、生年を天文14年(1545年)とすれば数え年32歳という若さだった。死因について戦死を示す確かな記録はなく、病没したとする見方が広く知られている。もともと身体が丈夫ではなかったとする伝承もあり、幼少期からの避難生活、家督争い、周辺勢力との戦争、絶え間ない外交交渉などが続いた広綱の人生は、決して平穏なものではなかった。

一方、広綱の死去を天正8年(1580年)頃とする記述も存在する。この違いについては、天正4年に実際には死亡していたものの、嫡男・国綱がまだ幼かったため、宇都宮家中が広綱の死をすぐには公表せず、数年間にわたって生存しているかのような形を取った可能性が指摘されている。戦国時代には、当主の死が敵国に知られれば侵攻や家臣の離反を招く危険があった。特に広綱の死去当時、国綱はまだ幼少であり、後継政権は極めて不安定な状態だった。そのため死を秘すことには十分な政治的理由が存在したのである。

広綱の死後、正室は出家して南呂院と号したとされ、幼い国綱を支える存在となった。さらに南呂院の実家である佐竹氏、とりわけ佐竹義重との関係が宇都宮氏の政治に大きな影響を与えていく。広綱が生前に築いていた婚姻外交が、自らの死後に宇都宮家を支える安全保障の役割を果たしたという点は重要である。

「失われた宇都宮家を取り戻した当主」としての広綱

宇都宮広綱の生涯を一言で表すなら、「幼くして失った家を取り戻し、その存続の道筋を次世代へ残した戦国大名」といえる。4~5歳ほどで父を失い、本拠宇都宮城まで奪われた状況は、本来ならば大名家そのものが消滅しても不思議ではないほど深刻だった。それでも芳賀高定ら旧臣の忠節を背景に成長し、佐竹義昭の力を借りて宇都宮城へ帰還した。さらに佐竹家との婚姻を通じて外交基盤を整え、上杉氏などとも関係を築きながら、北条氏の勢力拡大に対抗するという政治路線を形成した。

もちろん広綱の治世ですべてが安定したわけではない。壬生氏や皆川氏など宇都宮氏から自立しようとする勢力は存在し続け、下野国全域を完全に統一することもできなかった。また、佐竹氏など外部勢力の援助を必要としたことから、宇都宮氏単独の軍事力には限界があったことも否定できない。しかし、戦国時代の評価で重要なのは、単純な領土の広さだけではない。滅亡寸前の家を再建し、周辺の強国と外交関係を組み直し、嫡男へ家督を引き継ぐところまで一族を存続させたこと自体が広綱の大きな成果だった。

父・尚綱が戦場で倒れたことによって始まった広綱の苦難は、宇都宮城奪還によって一つの区切りを迎えた。しかしその後も彼は、一族内部の統制、後北条氏の北上、佐竹・上杉両氏との連携など、終わることのない政治課題に向き合った。そして若くして世を去った後も、広綱が築いた佐竹氏との血縁と政治的結びつきは、幼い国綱を中心とする宇都宮氏を支え続けることになる。

戦国史全体で見れば、宇都宮広綱は全国制覇を競った巨大大名ほど広く知られた人物ではない。しかし北関東の地域史という視点に立てば、彼は宇都宮氏が戦国時代後半まで存続できた重要な転換点を担った当主である。幼年当主として始まった波乱の人生、真岡での雌伏、宇都宮城奪還、佐竹氏との同盟と婚姻、上杉・北条という二大勢力への対応、そして30代前半での早世――。その生涯には、巨大勢力だけでは語り尽くせない戦国時代の地方大名の現実が凝縮されているのである。

■ 活躍・実績・合戦・戦い

宇都宮広綱の武将としての活動は、織田信長や武田信玄のように大軍を率いて周辺諸国を次々と征服したという種類のものではない。むしろ、その最大の実績は、一度は本拠地である宇都宮城を失って崩壊寸前となった宇都宮氏を立て直し、後北条氏・上杉氏・佐竹氏などの巨大勢力が角逐する北関東で大名家として生き残らせたことにあった。広綱の時代には、単純に一度の合戦へ勝利すれば領国が安泰になるわけではなかった。ある年には上杉氏と連携し、別の局面では北条氏の圧力を受けて一時的な妥協を余儀なくされ、さらに家中の有力者が独自に動いて本拠を奪うという内部危機まで発生している。広綱の戦いとは、城をめぐる攻防、家臣統制、婚姻外交、同盟形成を組み合わせた、まさに戦国時代の地方大名らしい生存競争だったのである。

宇都宮城奪還――広綱最大の「復活戦」

広綱の前半生における最大の実績は、弘治3年(1557年)の宇都宮城奪還である。天文18年(1549年)、父・宇都宮尚綱が那須氏との戦いで戦死すると、まだ幼かった広綱は自ら家臣団を統率できる状態ではなかった。その隙を突くように宇都宮氏重臣であった壬生氏が勢力を拡大し、宇都宮城を掌握したため、広綱は芳賀高定らに守られて真岡方面へ退くことになる。

戦国時代に本拠城を失うことは、単に住居を失うという意味ではない。本拠を押さえた者には軍事・行政・経済の拠点が集中し、周辺領主へ「誰が実力者なのか」を示す政治的効果まで生まれる。幼い広綱が長期間宇都宮城へ戻れなければ、宇都宮氏旧臣が次々と壬生氏や別勢力へ転じ、主家そのものが消えてしまう可能性も十分にあった。

この危機を切り抜けるため中心となって動いたのが芳賀高定であり、その外交によって常陸国の佐竹義昭から援助を受ける態勢が築かれた。佐竹氏という有力大名を後ろ盾とすることによって壬生氏に圧力を加え、最終的に壬生綱雄が宇都宮城を開城したことで、広綱は同年12月に先祖代々の本拠へ帰還したとされる。

広綱自身が最前線で槍を振るい敵将を討ち取ったという華々しい武功ではないものの、この宇都宮城奪還は彼の生涯で最も重要な政治的・軍事的勝利だった。幼少の正統当主を旗印として旧臣を再結集し、外部勢力との同盟を利用して本拠を回復するという過程そのものが、戦国大名としての宇都宮氏再建につながったのである。

家中再編――城を取り戻した後に始まった本当の戦い

宇都宮城へ帰還した広綱にとって、本当の意味で難しい戦いはむしろその後に始まった。宇都宮氏は歴史の古い名門であったが、それだけに芳賀氏・壬生氏・塩谷氏・多功氏など領国内の有力武士が強い独立性を保持しており、当主がすべてを直接支配していたわけではない。特に父・尚綱の死後に家中の分裂が進んだ結果、広綱には散らばった家臣勢力をもう一度「宇都宮家」という枠組みにまとめ直す必要があった。

この点で広綱の治世は、一城を攻め落としただけでは評価できない。家臣たちに所領を保障し、軍事動員の体系を再構築し、周辺大名との外交方針を提示しながら、宇都宮氏当主としての権威を回復していく必要があったからである。永禄年間には分裂していた家中の再編が進み、宇都宮氏は佐竹氏を後ろ盾とする下野の有力地域勢力として再び存在感を示すようになった。

しかし、その統制は決して完全ではなかった。戦国期の宇都宮氏では、有力家臣が当主に従いながらも独自外交を展開したり、情勢によって他勢力へ接近したりする例が少なくない。広綱はそのような家臣団を抱えながら戦う必要があり、「敵国との戦争」と「家中をまとめる政治」を同時に進めなければならなかったのである。

上杉謙信の関東出兵に呼応――北条氏に対抗する広綱

永禄3年(1560年)、越後の長尾景虎、後の上杉謙信が関東へ大規模な進出を開始すると、北関東の情勢はさらに大きく動いた。謙信は関東管領上杉憲政を擁し、後北条氏に対抗する勢力を結集しようとした。広綱もこの動きに呼応して上杉方へ接近し、謙信の関東における軍事行動へ協力する立場を取った。

翌永禄4年(1561年)には謙信が大軍を率いて小田原方面へ南下しており、宇都宮氏もその関東戦略の一角を担うことになった。ここで重要なのは、広綱と謙信の関係を単なる主従関係として理解しないことである。宇都宮氏には宇都宮氏の領国利益があり、謙信には後北条氏を関東から圧迫したいという目的があった。広綱にとって上杉氏との協力は、北条氏の北上を防ぐための安全保障政策という意味合いが強かった。

宇都宮領は後北条氏の本拠・小田原から見れば北方に位置していたものの、北条氏が武蔵・下総・上野方面へ勢力を拡大すれば、やがて下野も直接的な圧力を受ける。そこで広綱は上杉氏や佐竹氏と協力することによって、一家だけでは対抗できない強敵へ集団的に向き合おうとしたのである。

上杉と北条の狭間――「転属」も生存戦略だった

ところが、上杉謙信が関東へ出兵しても、長期間その地にとどまり続けることはできなかった。謙信が越後へ帰れば後北条氏が再び勢力を盛り返すという状況が繰り返され、北関東の大名たちはそのたびに難しい選択を迫られた。

永禄9年(1566年)、謙信が下総の臼井城攻略で大きくつまずくと、関東で上杉方に属していた諸大名の間に動揺が広がった。この時期には宇都宮広綱をはじめ、小山秀綱や結城晴朝、小田氏治など複数の有力者が後北条氏側へ人質を差し出し、その圧力を受け入れる形となったことが知られている。

現代の感覚では、以前まで味方していた陣営から別陣営へ動くことを「裏切り」と捉えやすい。しかし戦国期の北関東では、これは決して珍しい行動ではなかった。上杉軍が遠く越後へ帰還してしまえば、宇都宮氏が単独で北条軍の圧力を受ける可能性がある。領民と家臣、そして一族を守るためには、力関係によって一時的な服属や妥協を選ばざるを得ない場合もあった。

広綱の外交が揺れ動いて見える背景には、そのような北関東特有の軍事情勢が存在していた。彼の戦略は一つの大勢力への忠誠を最後まで貫くことではなく、宇都宮氏そのものを存続させることであった。その目的から見れば、上杉・佐竹陣営との連携も、北条氏との一時的妥協も、同じ生存戦略の一部だったと理解できる。

佐竹氏との共同戦線――軍事同盟を婚姻で強化

広綱にとって最も継続的で重要な軍事的パートナーとなったのが佐竹氏である。宇都宮城奪還時から佐竹義昭の援助を受け、その後には義昭の娘を正室として迎えたことで、両家の関係は単なる一時的な援軍関係から姻戚同盟へと発展した。

これは広綱にとって大きな成果だった。常陸を基盤とする佐竹氏は北関東でも有数の軍事力を持ち、後北条氏の勢力拡大に対抗する立場にあった。下野中央部を支配する宇都宮氏と常陸の佐竹氏が結びつけば、双方にとって北条氏への防壁となる。

広綱の時代には、このような同盟関係を背景として周辺勢力への軍事行動が展開された。広綱本人だけが突出して活躍するのではなく、宇都宮・佐竹両氏を中心に複数の領主が協力する連合軍形式の戦いが重要になっていく。この戦い方こそ、単独では数万規模の軍勢を常時動員することが難しい北関東の諸大名にとって現実的な手段だった。

1572年、宇都宮城を再び襲った家臣の反乱

元亀3年(1572年)、広綱は生涯でも屈指の危機を迎える。有力家臣の皆川俊宗が反抗し、宇都宮城を占拠したのである。広綱は幼少時にも壬生氏によって宇都宮城を失っており、皮肉にも成人後再び家臣勢力による本拠掌握という事態に直面した。

この事件は、単純な家臣の野心だけで説明できるものではない。当時の宇都宮家中には、上杉氏や佐竹氏との連携を重視する勢力と、北条氏との関係改善を模索する勢力があり、巨大勢力の対立がそのまま家中政治へ入り込んでいた。皆川俊宗が北条氏寄りの姿勢を強めれば、宇都宮氏全体の外交路線まで大きく変わりかねなかった。

さらに広綱自身が病気に苦しんでいたとされることも、有力家臣が台頭する一因になったと考えられている。当主が軍事・政務を十分にこなせなくなれば、実際に兵力を持つ重臣の発言力は急速に強くなる。これは幼少の広綱が経験した危機と構造的によく似ていた。

しかし広綱は、この危機でも佐竹氏との結びつきを活用した。姻戚である佐竹義重へ支援を求め、宇都宮・佐竹陣営は皆川氏に対する反撃を開始していく。ここでも広綱の強みは「自分一人の軍事力」ではなく、「必要なときに有力な同盟者を動かせる外交関係」にあった。

多功原合戦――佐竹氏とともに北条軍を迎撃

皆川氏をめぐる争いは、やがて宇都宮氏と北条氏の直接的な軍事衝突へと拡大していった。元亀3年末、佐竹義重は広綱を支援して皆川方への攻勢を強めた。これに対し、皆川氏を助けようとする北条氏政も下野方面へ軍勢を進め、両勢力が衝突したのが多功原周辺での戦いである。

この戦いでは宇都宮・佐竹側が北条軍を押し返したとされる。北条氏という関東屈指の大勢力を相手に、宇都宮氏が単独ではなく佐竹氏と協力して対抗したことに大きな意味がある。広綱の軍事政策が「強力な同盟者との連携によって不足する兵力を補う」という方向に徹していたことを象徴する戦いでもあった。

皆川氏に対する攻撃は翌元亀4年(1573年)にかけても続き、広綱は再び宇都宮氏当主としての主導権を立て直していった。ただし、この勝利によって北条氏の北関東進出が終わったわけではない。天正年間になると北条氏の圧力はむしろ強まり、宇都宮氏・佐竹氏を中心とする反北条勢力と激しい対立を続けることになる。

戦場の猛将ではなく「家を残すために戦った武将」

宇都宮広綱の軍事的な実績を総合すると、本人が先頭に立って何十もの城を攻め落とした猛将というより、家臣団と同盟者を組み合わせながら危機を切り抜ける「政治型の戦国大名」という姿が浮かび上がる。

父の戦死によって本拠を奪われたところから出発し、芳賀高定と佐竹義昭の協力によって宇都宮城を奪還する。その後は上杉謙信の関東進出に呼応し、後北条氏の勢力拡大へ対抗する一方、上杉方が劣勢となれば北条氏との妥協も選んだ。そして皆川氏が反抗して再び宇都宮城が危機に陥ると、佐竹義重との同盟を活用して反撃する。この一連の行動には、一貫して「宇都宮氏を滅ぼさない」という目的を見ることができる。

広綱の生涯では、勝利だけでなく敗北、服属、妥協、家臣の反乱も繰り返されている。それでも宇都宮氏は彼の代で滅亡せず、嫡男・国綱へと家督をつなぐことができた。戦国大名の功績を領土拡張だけで測るなら広綱は目立たない。しかし、幼少期に崩壊寸前となった名門を再建し、上杉・北条という巨大勢力の狭間で約20年にわたり宇都宮氏の政治的地位を維持した事実は、十分に大きな実績である。

戦国時代における「勝つ」とは、必ずしも敵国を征服することだけではなかった。自分より強大な敵に囲まれながら城を守り、家臣をつなぎ止め、必要なら別の大名へ頭を下げ、好機には反撃し、次の世代まで家名を残すことも立派な勝利である。その意味で宇都宮広綱は、戦国乱世における地方大名の現実的な戦い方を象徴する人物の一人だったのである。

■ 人間関係・交友関係

宇都宮広綱の生涯を理解するうえで、合戦の勝敗以上に重要なのが周囲の人物との関係である。広綱は幼少時に父を失い、家臣によって本拠地を奪われた状態から出発したため、最初から自らの軍事力だけを頼りにできる立場ではなかった。そのため芳賀高定をはじめとする忠臣、佐竹義昭・佐竹義重ら姻戚となった佐竹氏、越後から関東へ進出した上杉謙信、敵対と妥協を繰り返した後北条氏、さらには壬生氏・皆川氏など宇都宮家中から自立しようとした勢力との関係が、その人生を大きく左右した。広綱の政治は「誰と親しかったか」という単純な交友関係ではなく、家を守るために味方を増やし、ときには敵と妥協し、有力家臣の離反を警戒するという戦国大名特有の人間関係によって成り立っていたのである。

父・宇都宮尚綱――幼い広綱へ家督と危機を残した存在

広綱の父は宇都宮氏第20代当主の宇都宮尚綱である。尚綱は下野国における宇都宮氏の勢力維持に努めたが、天文18年(1549年)、那須高資との争いの中で発生した五月女坂の戦いにおいて戦死した。まだ幼かった広綱にとって、父との具体的な交流を示す史料は多くないが、尚綱の突然の死こそが広綱の人生を決定的に変えた。

通常であれば父から成年となった嫡男へ家督を継ぎ、家臣団や領国支配の仕組みを段階的に受け継ぐ。しかし広綱の場合、そのような準備期間はほとんど与えられなかった。幼児の段階で名門宇都宮家の当主という地位を背負わされ、同時に父の死によって弱体化した家中まで引き受けることになったのである。

尚綱の死後、壬生氏が宇都宮城を掌握したことで、広綱は父の領国をそのまま受け継ぐどころか、失われた本拠を取り戻すところから当主人生を始めなければならなかった。この意味で父・尚綱は広綱にとって直接的な政治指南役にはなれなかったものの、その死と残された家督そのものが、広綱の人生を規定した最大級の要因だったといえる。

母方の結城氏――広綱を東国名族の血縁網につないだ存在

広綱の母は結城政朝の娘と伝えられている。結城氏は下総国結城を中心に勢力を持った名門で、宇都宮氏と同じように中世以来の伝統を持つ東国武士の家柄だった。この婚姻関係によって、広綱は父方の宇都宮氏だけでなく、母方を通して結城氏とも血縁で結ばれていた。

戦国時代における血縁は、単なる親戚関係ではなく外交上の資産でもある。宇都宮・結城両氏はときに利害が対立することもあったが、周辺には小山氏・小田氏・佐竹氏・那須氏など多数の勢力が存在しており、互いの関係は敵か味方かだけでは割り切れないものだった。

後に広綱の子である朝勝が結城氏へ入ったことから見ても、宇都宮家と結城家の縁は一代限りで消滅するものではなかった。広綱の家族関係には、こうした北関東・下総の名門同士を結びつける政治的な血縁網が形成されていたのである。

芳賀高定――幼い広綱を守り宇都宮家を再興した最大の功臣

広綱の人間関係で最も重要な一人が芳賀高定である。広綱の父・尚綱が戦死し、壬生氏が宇都宮城を押さえると、幼い広綱は真岡城を基盤とする芳賀氏の保護を受けた。ここで芳賀高定が広綱を見捨てていれば、宇都宮氏嫡流が戦国大名として復活することは極めて難しかったと考えられる。

高定は単に幼君を保護しただけではない。宇都宮氏再興のために外交工作を行い、佐竹氏など外部勢力の支援を引き出し、壬生氏から宇都宮城を取り戻す態勢を作り上げた。広綱が弘治3年(1557年)に宇都宮城へ復帰できた背景には、高定を中心とする芳賀勢力の働きがあった。

広綱にとって高定は、家臣という言葉だけでは表現しにくい存在だった。父を失った少年を守る後見人であり、宇都宮氏の正統性を守る政治家であり、失地回復を実現した実務担当者でもあったからである。

一方で、この関係は戦国期の宇都宮氏が抱えていた弱点も示している。当主が有力家臣に大きく依存しなければならないということは、それだけ家臣の政治的発言力も強くなることを意味する。芳賀氏が忠実である間は頼もしい支柱だったが、有力家臣が別の方向へ動けば、壬生氏や皆川氏のように当主の立場を脅かす勢力にもなり得た。広綱の家臣統制とは、こうした強力な国衆たちとの均衡の上に成立していたのである。

佐竹義昭――宇都宮家再興を助けた最大の外部支援者

広綱が宇都宮城を取り戻す過程で欠かすことのできない大名が、常陸国の佐竹義昭である。芳賀高定らが主家再興を目指した際、重要な支援者となったのが佐竹氏だった。義昭の軍事的・政治的な援助は壬生氏への強い圧力となり、1557年の宇都宮城復帰へつながった。

広綱と義昭の関係は、その後さらに婚姻によって強化された。広綱は義昭の娘を正室として迎えたため、義昭は広綱の義父となったのである。ここから宇都宮・佐竹両氏は単なる軍事的協力者ではなく、血縁で結ばれた同盟者になった。

この婚姻には極めて現実的な政治判断があった。宇都宮氏は壬生氏との争いによって弱体化しており、南方から勢力を広げる後北条氏に単独で対抗することは容易ではなかった。一方、佐竹氏も北条氏の北関東進出を警戒していた。両家が手を結べば、常陸から下野へ連なる反北条勢力圏を形成することが可能になる。

広綱から見れば佐竹義昭は、「失った城を取り戻すために力を貸した人物」であると同時に、「宇都宮氏を再建した後の安全保障まで支えてくれた義父」であった。広綱の生涯で最も成功した外交関係の一つだったと評価できる。

南呂院――広綱と佐竹氏を結んだ妻であり、死後の宇都宮家を支えた存在

広綱の正室となった佐竹義昭の娘は、後に南呂院と呼ばれる女性である。戦国大名の妻は史料上表舞台に現れる機会が少ないことも多いが、南呂院は宇都宮家の存続を考えるうえで非常に重要な女性だった。

広綱との結婚によって宇都宮家と佐竹家は姻戚となり、広綱は佐竹氏から軍事的支援を受けやすい立場となった。そして二人の間には後継者となる国綱が生まれた。広綱が若くして亡くなると、幼少の国綱には当然ながら単独で領国を統治する力はない。そこで南呂院や芳賀氏などの重臣が政権を補佐し、さらに南呂院の実家である佐竹家との関係が宇都宮氏を支えることになった。

つまり広綱が生前に成立させた婚姻は、本人が生きている間だけの外交手段ではなかった。彼の死後まで機能し、次代の国綱政権を守る重要な政治的遺産となったのである。夫婦の個人的な感情を詳しく示す史料は乏しいものの、戦国大名家の婚姻という観点では極めて大きな成果を上げた関係だったといえる。

佐竹義重――姻戚として広綱を支援した北関東の有力武将

佐竹義昭の後を継いだ佐竹義重も、広綱にとって重要な存在だった。義重は後に「鬼義重」とも呼ばれるほどの武将として知られ、常陸を中心として勢力拡大を進めた人物である。広綱の妻が佐竹氏出身だったため、両家の関係は義昭の死後も継続した。

特に元亀3年(1572年)頃、宇都宮家臣の皆川俊宗が反抗して宇都宮城を占拠するという危機が発生すると、広綱側は佐竹義重の援助を受けて対抗した。広綱自身はこの頃病状が悪化していたとされ、以前のように政務・軍事を自由に行えない状況にあった可能性がある。そのような場面で義重という有力武将を味方につけていたことは、広綱にとって極めて大きかった。

義重にとっても宇都宮氏は重要だった。下野中央部に宇都宮氏が存続していれば、常陸の佐竹領と北条氏勢力との間に防衛線を形成できる。したがって両者の協力は友情だけではなく、地政学上の利害が一致した結果でもあった。

広綱の死後、義重は幼い国綱を支える立場にもなり、宇都宮氏と佐竹氏の連携はさらに深まっていく。広綱が佐竹氏との姻戚関係を築いたことは、自身の治世を守っただけでなく、次世代の宇都宮氏の外交方針まで方向づけたのである。

上杉謙信――共通の敵・北条氏に対抗するため結んだ有力な同盟者

越後の上杉謙信も広綱の政治人生に大きな影響を与えた人物である。謙信が関東管領として後北条氏への攻勢を開始すると、広綱は佐竹氏など北関東の諸勢力とともに上杉側へ接近した。

広綱が謙信に協力した最大の理由は、後北条氏の勢力拡大への警戒だった。北条氏が北へ進出すれば下野の宇都宮領も圧迫される。そのため、越後から巨大な軍事力をもって関東へ進出する謙信は、広綱にとって強力な対北条の同盟者となった。

ただし両者の関係を個人的な友情として見るのは適切ではない。謙信は越後を本拠とするため、関東へ出陣している時期には頼もしいものの、越後へ帰れば北関東の味方は北条氏の反撃を直接受けることになる。広綱は上杉氏へ協力しながらも、情勢次第では北条氏との妥協を選ばざるを得なかった。

これは謙信への忠誠心が不足していたからではなく、宇都宮家を存続させなければならない当主としての現実的な判断だった。広綱と謙信の関係は、戦国時代の地方領主と巨大大名との同盟がいかに不安定で、利害によって変化するものだったかを示している。

後北条氏――最大級の敵でありながら、ときには妥協した相手

広綱にとって最も警戒すべき外部勢力の一つが小田原北条氏だった。北条氏康から氏政へと続く時代、後北条氏は相模・武蔵だけでなく上野・下総方面へ勢力を拡大し、北関東の諸大名に強い圧力を加えていた。

宇都宮氏は佐竹・上杉両氏と連携して北条氏に対抗する立場を取ることが多かったが、常に反北条を貫き通せたわけではない。上杉謙信の関東支配力が低下した局面では、広綱も北条氏との妥協を迫られている。

ここに戦国大名としての広綱の現実主義が表れている。北条氏は基本的には脅威である。しかし勝てない状況で全面戦争を選び領国そのものを失ってしまえば意味がない。そこで必要ならば一時的に服属姿勢を示し、情勢が変われば佐竹・上杉陣営へ戻る。この柔軟さは現代的な意味での一貫性には欠けて見えるものの、戦国時代に弱小・中堅大名が生存するためには不可欠な外交術だった。

壬生綱房・壬生綱雄――広綱から宇都宮城を奪った最大の家中敵対者

広綱の幼少期最大の敵となったのが壬生氏である。壬生綱房・綱雄父子はもともと宇都宮氏の重臣でありながら、父・尚綱の戦死後に勢力を伸ばし、宇都宮城を占拠した。

この関係が興味深いのは、「国外から攻め込んできた敵」ではなく、「主家内部から生まれた敵」である点にある。戦国大名にとって最も危険なのは、必ずしも国境の向こう側の大名だけではない。領国内で兵力・城・土地を所有する有力家臣が独立すれば、当主そのものを追放できる場合があった。

広綱は芳賀高定や佐竹氏の力を利用して1557年に宇都宮城を奪還したが、その後も壬生氏の独立性を完全に消滅させることはできなかった。壬生氏は後世になるほど北条氏へ接近し、宇都宮氏とは異なる外交路線を選択することになる。

壬生氏との関係は、広綱に「外敵に対抗する以前に家中をまとめること」の重要性を強く認識させたはずである。彼の政治人生の出発点そのものが、家臣による本拠奪取だったからである。

皆川俊宗――晩年の広綱を再び窮地へ追い込んだ有力家臣

壬生氏と並び、広綱の晩年に大きな脅威となったのが皆川俊宗である。皆川氏も下野国南部に強い基盤を持つ有力領主であり、形式的には宇都宮氏との関係を持ちながら、高い独立性を維持していた。

1572年頃、広綱が病気によって十分に政務を執れなくなると、家中の対立が激しくなった。この状況の中で皆川俊宗が宇都宮城を一時的に掌握する事件が起きたとされている。

広綱にとってこれは幼少期の悪夢が再現されたような出来事だった。少年時代には壬生氏に宇都宮城を奪われ、成人してから再び有力家臣に本拠を押さえられたのである。

しかし今回は広綱には佐竹義重との姻戚関係があった。佐竹氏の軍事的支援を利用することで皆川氏に対抗し、宇都宮家の体制を立て直していった。壬生氏と皆川氏という二つの事例を見ると、広綱が生涯を通して「有力家臣との関係」に苦しみ続けたことが分かる。

宇都宮国綱――広綱が未来を託した嫡男

広綱の嫡男が宇都宮国綱である。国綱は広綱と佐竹義昭の娘との間に生まれ、宇都宮氏の次代当主となった。

広綱にとって国綱の誕生には特別な意味があったと考えられる。広綱自身が幼くして父を失い、後継者の幼少を理由として主家が崩壊寸前まで追い込まれる経験をしていたからである。嫡男が誕生し、宇都宮氏の血統を次世代へつなぐことは、一族の存続という意味で極めて重要だった。

しかし皮肉にも広綱は30代前半で早世し、国綱もまた幼い年齢で父を失うことになった。結果として広綱が少年時代に経験した「幼少当主を重臣と外戚が支える」という政治構造が、息子国綱の時代にも繰り返されることになる。

ただし国綱の場合には、広綱が築いた佐竹氏との婚姻関係が残されていた。母である南呂院、佐竹義重、芳賀氏らの支援を受けることができた点で、父・広綱が家督を継いだ1549年とは条件が異なっていた。広綱の外交努力は自分自身のためだけではなく、結果的に息子を守る政治的な防波堤となったのである。

結城朝勝・芳賀高武――広綱の血統を周辺有力家へつないだ子供たち

広綱の子には国綱のほか、結城朝勝や芳賀高武がいる。これらの子供たちが結城氏や芳賀氏と結びついていくことは、戦国大名宇都宮氏の家族戦略を考えるうえで重要である。

戦国時代には一人の嫡男だけを本家に残し、ほかの男子を有力一族や家臣の家へ入れることで、家同士の結束を強めることが行われた。宇都宮家も例外ではない。母方の血縁を持つ結城氏、宇都宮家中最大級の重臣である芳賀氏などと広綱の子供が結びつけば、宇都宮氏を中心とする政治的ネットワークを広げることができる。

特に芳賀氏は広綱自身を幼少時から支えた一族だった。広綱の子が芳賀家と関係を深めることは、主家と有力家臣の結束を血縁によって補強する意味を持ったと考えられる。

「人の力」で滅亡の危機を乗り越えた宇都宮広綱

宇都宮広綱の人間関係を全体として眺めると、彼という戦国大名が自分一人の武勇によって成功した人物ではなかったことが分かる。父を失った後には芳賀高定が支え、宇都宮城奪還では佐竹義昭が力を貸した。義昭の娘を妻としたことで佐竹氏との同盟を強固にし、義重の時代になってもその関係を維持した。北条氏への対抗では上杉謙信と連携し、形勢が悪くなれば北条氏との妥協も選んだ。

その一方で、壬生氏や皆川氏のように、本来なら宇都宮家の側に立つはずの有力領主が最大の敵になることもあった。広綱にとって人間関係とは、友情と敵意を固定的に分けられるものではない。今日の味方が明日には離反し、昨日の敵と今日は講和しなければならないのが戦国社会だった。

だからこそ広綱の最大の能力は、「最強の武将になること」よりも、「自分だけでは足りない力を他者との関係によって補うこと」にあったと見ることができる。芳賀氏の忠節、佐竹氏との婚姻、上杉氏との連携を組み合わせることで、幼少時には領国を失いかけた宇都宮氏を再び下野の有力勢力へ戻したのである。

広綱が短い生涯の中で残した最大の財産は、城や領土だけではなかった。宇都宮氏を支える家臣団と、佐竹氏を中心とした外部勢力との人的ネットワークを築き、それを嫡男国綱の世代へ残したことにあった。巨大勢力が激突した戦国時代の北関東において、広綱は「人との結びつきを武器として戦った大名」と表現することのできる人物なのである。

■ 後世の歴史家の評価

宇都宮広綱は、戦国時代を代表する全国的な有名武将と比べると、後世の歴史叙述で大きく取り上げられる機会が多い人物ではない。織田信長や豊臣秀吉のように天下統一へ進んだわけでも、武田信玄や上杉謙信のように数多くの有名合戦で軍才を示したわけでもなく、一代で大規模な領土拡張を成し遂げた人物でもなかったからである。しかし、下野国の戦国史や宇都宮氏の歴史という視点から見ると、その評価は大きく変わってくる。幼児期に父を失って本拠地を追われながら宇都宮城への復帰を果たし、佐竹氏との婚姻同盟を築き、上杉氏・北条氏という巨大勢力の競争に巻き込まれながら宇都宮氏を存続させた広綱は、「領土を増やした名将」というより「滅亡しかけた名門を再建した当主」として評価するのが適切である。後世から広綱を見る場合、その功績と限界の双方を考えなければ、彼が置かれていた厳しい歴史的条件を正しく捉えることはできない。

最大の評価は「宇都宮氏を一度滅亡の危機から救ったこと」

宇都宮広綱を評価する際に、何よりも重視されるのが宇都宮家再興の功績である。広綱が家督を継ぐことになった1549年前後の宇都宮氏は、単に当主が交代したという程度の状況ではなかった。父・尚綱が戦場で急死し、後継者である広綱は幼児で、さらに重臣の壬生氏が宇都宮城を支配するという、戦国大名家としては最悪に近い危機に直面していた。

この状態が長期間続いていれば、宇都宮氏は名目上の当主を残したまま実権を失い、最終的には一地方領主へ転落するか、完全に消滅していた可能性すらある。戦国時代には、こうした幼少当主の時期に有力家臣が主家を乗っ取り、旧来の大名家が没落する例が決して珍しくなかった。

ところが広綱の周囲には芳賀高定をはじめ主家再興に動く家臣がおり、さらに佐竹義昭の支援を獲得することで宇都宮城復帰への道が開かれた。広綱自身が幼少だったため、城奪還までの功績すべてを本人の指導力だけに帰することはできない。しかし重要なのは、広綱という宇都宮氏嫡流の存在が、家臣たちを結集させる正統性の中心となったことである。

その後広綱が成人し、宇都宮氏当主として政権を維持したことで、家名は次代の国綱まで続いた。この点から後世の地域史研究では、広綱を「宇都宮氏中興の過程を担った人物」と見ることができる。華々しい征服者ではないものの、失われかけた大名家を復活させたことこそが、彼の歴史的価値なのである。

個人の武勇より「家臣と同盟者を動かす政治力」が評価される人物

戦国武将という言葉から、多くの人は自ら槍や刀を振るって戦場を駆け、敵軍を打ち破る猛将像を思い浮かべる。しかし宇都宮広綱について、そのような個人的武勇を伝える有名な逸話は非常に少ない。むしろ広綱の能力を評価する場合には、外交や人間関係を利用して不足する軍事力を補った点を見る必要がある。

宇都宮氏単独では、後北条氏のような巨大大名と長期にわたって正面から戦うことは難しかった。そのため広綱は佐竹氏との関係を強化し、上杉謙信が関東へ進出した際には上杉陣営へ加わるなど、複数勢力との連携を活用した。

特に佐竹氏との関係は重要である。広綱は佐竹義昭の娘を正室に迎えたことで、一時的な軍事援助を恒常的な姻戚同盟へ変えた。これは戦国時代の外交として非常に合理的だった。妻を通じて佐竹家と血縁を結び、その間に嫡男国綱が誕生したことで、宇都宮・佐竹両家は次世代まで強く結びつくことになった。

広綱が早世した後も、この婚姻関係は宇都宮氏を支える政治的財産となった。そのため結果論ではあるが、広綱の外交は本人の生存期間を超えて効果を発揮したことになる。こうした点から見れば、広綱は「戦場で勝つ能力」以上に「生き残るための関係を築く能力」を持った大名として評価できる。

上杉・北条の間を動いた外交は「節操のなさ」ではなく現実主義

宇都宮広綱の行動を現代の視点から表面的に見ると、上杉氏へ協力したかと思えば北条氏へ接近し、その後再び反北条陣営へ戻るなど、一貫性を欠くように映ることがある。この点だけを切り取れば、「どの陣営につくのか定まらない大名」と評価される可能性もある。

しかし戦国期の中小規模の領主によるこうした陣営移動は、単純な裏切りや優柔不断だけでは説明できない。戦国時代の同盟関係は恒久的な国家間同盟ではなく、その時々の軍事情勢によって大きく変化したからである。

上杉謙信が大軍を率いて関東へ進出している時期には、宇都宮氏にとって上杉氏と協力することに大きな利点がある。しかし上杉軍が越後へ帰還すれば、下野の宇都宮氏が後北条氏から直接圧力を受けることになる。遠方の同盟者への忠義にこだわって城や領地を失えば、戦国大名としては本末転倒だった。

広綱が情勢に応じて北条氏と妥協したことは、こうした現実の軍事情勢を反映したものだったと考える方が自然である。最終目的が「宇都宮氏を存続させること」であったなら、敵と一時的に講和することさえ戦略の一つになる。

「家臣統制が弱かった」という厳しい評価も可能

一方で、広綱の治世をすべて成功と評価することはできない。彼の政治における最大の弱点として挙げられるのが、宇都宮氏内部の有力家臣を完全には統制できなかったことである。

幼少期には壬生氏によって宇都宮城を奪われ、成人後にも皆川氏など有力領主の離反・反抗に苦しめられた。つまり広綱の生涯では、宇都宮城が家臣勢力によって脅かされるという問題が繰り返されている。

これは宇都宮氏そのものが抱えていた構造的な問題でもあった。中世以来の歴史を持つ宇都宮氏の領国には、芳賀・壬生・皆川・塩谷など、それぞれ独自の城・領地・家臣を持つ有力領主が存在した。彼らは近世大名の家臣のように当主から俸禄を与えられて全面的に従属している存在ではなく、状況によっては独自に外交を行えるほどの力を持っていた。

したがって、広綱だけに家臣統制失敗の責任を負わせることは公平ではない。しかし同時に、彼の治世を通じても強力な中央集権的支配体制を確立することができなかったのは事実である。後世の視点から見れば、この問題は次代国綱にも引き継がれ、最終的な宇都宮氏の不安定さへつながった一因と評価することができる。

佐竹氏への依存をどう見るかで評価が分かれる

広綱の政治については、佐竹氏との密接な関係も二面的な評価が可能である。一方から見れば、佐竹氏という強力な同盟者を得たことによって、宇都宮氏は壬生氏や皆川氏への対抗、さらに北条氏への防衛を可能にした。これは広綱の外交的成功である。

しかし反対側から見れば、宇都宮氏が自力だけで家中を統制する力を失い、外部の佐竹氏に頼らなければ政権を維持できなかったともいえる。宇都宮城奪還から晩年の家中争乱に至るまで、重要な局面で佐竹氏の軍事力が必要になったことは、宇都宮氏の弱体化を示している。

ただし「他家の援軍を求めたから能力が低い」という評価は、戦国時代の現実を単純化しすぎている。武田氏や上杉氏のような強大な勢力でさえ同盟を必要とした時代であり、中規模勢力だった宇都宮氏が佐竹氏との連携を利用すること自体は合理的だった。

むしろ広綱の功績は、佐竹氏に完全吸収されることなく、その軍事力を利用しながら宇都宮氏の独立した家名を維持したことにあると見ることもできる。依存と同盟は表裏一体であり、その境界線を保ちながら生き残ったところに広綱外交の特徴があった。

病弱・早世という条件を考えれば統治期間そのものが評価対象になる

広綱の人物像を考える場合、健康問題も無視することができない。広綱は病弱だったとする伝承があり、晩年には十分な政務を行うことが難しかったと考えられている。そして1576年に死去したとする説では、数え年32歳ほどという非常に若い死だった。

これは広綱の歴史的評価にも影響する。戦国大名として本格的に政治・軍事を担えるようになったのは宇都宮城へ復帰してからであり、成人後に自ら領国支配を行えた期間は決して長くない。その限られた時間の中で家を再建し、婚姻同盟を形成し、後継者を残したことは一定の成果だったといえる。

もし広綱が50代、60代まで生きていれば、家臣団の統制が進んだ可能性もあれば、反対に北条氏との戦いで敗れていた可能性もある。実際にどのような未来になったかは分からない。しかし少なくとも広綱が若くして亡くなったことで、宇都宮氏は再び幼少の国綱を中心とする不安定な政権へ移行せざるを得なかった。

派手な領土拡張がないため全国史では目立ちにくい

宇都宮広綱の知名度が比較的低い理由の一つは、その活動が全国史の中心的事件と直接結びつきにくいことである。

同時代には織田信長が桶狭間の戦いから勢力を伸ばし、足利義昭を奉じて上洛し、さらに浅井・朝倉氏や武田氏と戦っていた。西日本では毛利氏が勢力を拡大し、甲信地方では武田信玄、越後では上杉謙信が大規模な軍事行動を展開している。

これらと比較すると、広綱の活動は下野・常陸・下総を中心とする地域的な政治に限られている。そのため一般的な戦国時代の概説書では、名前すら詳しく取り上げられない場合がある。

しかし、これは「重要ではなかった」という意味ではない。全国統一へ直接つながらなかった地域にも、それぞれ独自の政治秩序と戦争が存在していた。宇都宮広綱の生涯を追うことで、戦国時代が信長・秀吉・家康だけによって進んでいたのではなく、日本各地の無数の領主がそれぞれの領国存続を懸けて戦っていたことが分かる。

「弱い大名」ではなく「弱体化した条件から再建した大名」と見るべき理由

宇都宮氏が佐竹氏へたびたび援軍を求めたり、北条氏の圧力に屈したりした史実だけを見ると、広綱を弱い戦国大名と評価したくなるかもしれない。しかし広綱が家督を継いだ時点の条件を考慮すれば、その評価はかなり変わってくる。

彼は安定した領国・強力な常備軍・従順な家臣団を父から受け継いだわけではない。父は戦死し、本拠城は奪われ、自らは幼児で、重臣たちはそれぞれ異なる思惑を持っていた。つまり広綱はゼロから勢力を拡大したのではなく、「マイナスの状態から家を立て直した」人物だった。

その広綱が宇都宮城へ復帰し、宇都宮氏という大名家を再建し、少なくとも自らの生涯中に家を消滅させなかった。この成果を基準とすれば、決して無能な当主とはいえない。

芳賀高定ら家臣の功績を広綱本人の功績と混同しないことも重要

一方、広綱の評価を過度に高める場合にも注意が必要である。特に幼少期の宇都宮氏再興では、実際に政治・軍事を担った芳賀高定ら重臣の存在が非常に大きかった。

広綱は1549年の父・尚綱戦死時には幼児であり、その直後から自ら高度な外交戦略を立案していたわけではない。佐竹氏との交渉や反壬生勢力の結集などは、当然ながら芳賀高定を中心とする成人家臣たちが実務を担った。

したがって「幼い広綱が卓越した智略によって宇都宮城を奪還した」と表現するなら、歴史的には誇張になってしまう。むしろ広綱の重要性は、家臣たちが奉じることのできる正統な当主であり続けたこと、そして成人後に彼らとの関係を維持しながら政権を形成した点にある。

宇都宮広綱の人物像を示す逸話が少ないことも評価を難しくする

広綱については、武田信玄の「人は城、人は石垣」のように広く知られた言葉や、織田信長のような個性的な逸話が多数残されているわけではない。そのため、現代人が広綱の性格を具体的に再現することは難しい。

勇猛だったのか慎重だったのか、感情的だったのか冷静だったのか、家臣に厳格だったのか温厚だったのかについて、確実な判断材料は限定されている。

そのため広綱について「非常に温厚だった」「天才的な策略家だった」といった性格評価を断定することには慎重であるべきである。史料から比較的確実に読み取れるのは、彼が置かれていた政治環境と、そこで実際に選択された外交・婚姻・軍事行動である。

そうした行動を見る限り、少なくとも広綱政権は一つの勢力との全面対決に固執せず、その時々の力関係に合わせて柔軟に動いている。そのため人物像をあえて表現するなら、「勇猛果敢な征服者」よりも「現実的な生存策を選択した領国経営者」というイメージの方が史実には近い。

次代・国綱へ家名を渡したことが広綱の最終的な成果

戦国大名にとって最終的な評価基準の一つが、家を次世代へ残せたかどうかである。その点で広綱は最低限かつ非常に重要な使命を果たしている。

広綱は嫡男国綱を残し、宇都宮氏の家督を継承させた。広綱が亡くなった時点で国綱は幼かったため、決して理想的な継承ではなかった。しかし南呂院、芳賀氏、佐竹義重らが国綱を補佐できる政治環境は残されていた。

ここには広綱が生前に築いた人間関係が生きている。特に佐竹家との婚姻同盟は、広綱死後も国綱政権を支える基盤となった。

宇都宮氏そのものは後に豊臣秀吉の全国統一過程を生き延び、国綱の時代には豊臣政権下の大名として存続する。しかし最終的には慶長年間を前に改易されることになる。それでも広綱が1550年代の危機を乗り越えていなければ、宇都宮氏はそれより数十年早く戦国大名として消えていた可能性が高い。

現代的な評価――「勝者だけではない戦国史」を象徴する人物

現代において宇都宮広綱を再評価する最大の意味は、戦国時代を天下人や巨大大名だけの物語として見ないことにある。

実際の戦国日本の大部分には、宇都宮氏のような地域大名が存在していた。彼らは何十万という兵力を持つわけではなく、一度の敗戦や家臣の離反によって家そのものが崩壊する危険を抱えていた。そして強国から圧力を受ければ同盟を変更し、婚姻によって味方を作り、有力家臣との交渉を続けながら領国を守った。

広綱の人生には、この「戦国時代を生き残ることの難しさ」が非常によく表れている。父を失い、城を失い、忠臣に守られ、佐竹氏の援助を受けて帰還し、上杉氏と協力し、北条氏の圧力に妥協し、有力家臣に再び本拠を脅かされ、それでも家を存続させて子へ家督を残した。

宇都宮広綱に対する後世の評価をまとめるなら、「軍事的征服者としては目立たないが、滅亡寸前の宇都宮氏を再興し、北関東の複雑な勢力関係の中で家名を次代へつないだ現実的な戦国大名」という位置づけが最も適しているだろう。

領土拡張という尺度では一流の戦国英雄には数えられない。家臣統制にも限界があり、佐竹氏への依存も大きかった。しかし、それらの弱点を抱えた状態から宇都宮家を復活させた点にこそ、広綱の本当の価値が存在する。天下を取ることだけが戦国大名の成功ではない。滅びかけた家を立て直し、敵と味方が目まぐるしく変化する時代を耐え抜き、次の世代へ家名を手渡すこともまた、一つの大きな成功だった。宇都宮広綱は、そのような「生存すること自体が戦いだった戦国大名」の姿を伝える人物として、下野国の歴史に重要な位置を占めているのである。

■ 登場する作品(書籍・テレビ・ゲームなど)

宇都宮広綱は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・武田信玄・上杉謙信のように大河ドラマや映画の主人公として何度も描かれてきた戦国武将ではない。しかし、下野国を代表する戦国大名の一人であり、宇都宮氏第21代当主という明確な立場を持っているため、日本全国の戦国大名を網羅する歴史シミュレーションゲームでは比較的登場機会が多い。また、北関東戦国史を扱った専門書・軍記物・研究論文では、宇都宮氏再興、佐竹氏との同盟、上杉氏と北条氏の勢力争い、家中分裂などを考えるうえで重要な人物として取り上げられている。特にゲームでは、強大な北条氏や佐竹氏などに囲まれた宇都宮家の当主として配置されることから、「有名武将を率いて圧倒する人物」というより、「小勢力から外交と内政を駆使して生き残る大名」という独特の魅力を持っている。

『信長の野望』シリーズ――宇都宮家を率いて史実を塗り替える

宇都宮広綱を現代の戦国ゲームで知る代表的な入口が、コーエーテクモゲームスの歴史シミュレーション『信長の野望』シリーズである。作品によって収録状況や開始年代、能力値などは異なるものの、広綱は宇都宮氏を代表する戦国武将・大名としてたびたび登場している。

ゲーム上で宇都宮家を選ぶ面白さは、史実以上の発展を自分の手で実現できることにある。現実の広綱は北条・佐竹・上杉といった強力な勢力の間で家を存続させることに苦心したが、ゲームでは北条氏を破って関東を統一したり、東北や甲信へ進出したり、最終的には天下統一を実現することさえ可能になる。

宇都宮家は最初から圧倒的な国力や多数の超一流武将を持つ勢力ではないため、強豪大名とは違った緊張感がある。芳賀氏をはじめとする家臣を活用し、外交を利用して戦う相手を限定し、内政によって国力を高める必要がある。この点は史実の広綱が行った「自家だけでは足りない力を外交で補う」という戦略ともよく重なる。

『信長の野望・革新』『天道』『創造』『新生』などで味わえる北関東の生存競争

シリーズの中でも『革新』『天道』『創造』『新生』などでは、北関東の地理と周辺大名との勢力関係を生かしたゲーム展開を楽しむことができる。宇都宮氏を選べば、北条・佐竹・上杉などの勢力拡大を警戒しながら、どこと結び、どこへ進出するかを判断することになる。

広綱でのプレイは、単純な正面決戦より外交が重要になりやすい。北条氏と戦うために佐竹氏と友好関係を築くのか、逆に北条氏と結んで佐竹氏を攻めるのか、あるいは上杉氏の南下に合わせて関東へ進出するのか。プレイヤーの判断によって史実とはまったく異なる宇都宮氏の歴史を作ることができる。

特に近年の作品では武将ごとの能力や個性が細かく設定されるようになり、広綱も単純な猛将ではなく政治・外交面を意識した武将として表現される場合がある。史実の広綱が佐竹氏との婚姻や上杉氏との連携によって大名家を維持したことを考えると、このようなゲーム上の人物像には一定の説得力がある。

『信長の野望 出陣』などスマートフォン作品にも広がる知名度

位置情報ゲームをはじめとするスマートフォン向けの『信長の野望』関連作品でも、宇都宮広綱は宇都宮氏の武将として扱われることがある。こうした作品は歴史に詳しくない利用者も遊ぶため、広綱の名前を現代へ伝える役割という意味では非常に大きい。

戦国史に詳しくなければ、学校の日本史で宇都宮広綱の名前を学ぶ機会はほとんどない。しかしゲームで武将を入手し、「宇都宮広綱とは誰なのか」と調べることで、父尚綱の戦死、芳賀高定、佐竹義昭、国綱といった周辺人物へ興味が広がっていく。

全国的な有名武将だけではなく、このような地方大名まで収録できるのは戦国ゲームならではの強みであり、宇都宮広綱の現代的な知名度を支える一つの要素になっている。

『鬼武者Soul』――戦国武将を幻想世界へ取り込んだキャラクター化

『信長の野望』シリーズとは異なる作品として、カプコンの『鬼武者Soul』にも宇都宮広綱が登場した。同作では日本各地の実在戦国武将が多数キャラクター化され、史実の戦国時代を下敷きにしながら幻想的な世界観の中で描かれている。

このような作品に登場する場合、広綱は歴史上の行動を完全に再現する人物というより、宇都宮氏当主という史実上の属性を持ったゲームキャラクターとして再構築される。

歴史シミュレーションでは「領国を運営する大名」という側面が強く、キャラクターゲームでは「一人の戦国武将」としてビジュアルや個性が付加される。この違いを比較すると、同じ宇都宮広綱でもメディアによって人物の見せ方が大きく変化することが分かる。

『関八州古戦録』――後世の軍記物に描かれた宇都宮広綱

ゲームよりもはるか以前から、広綱は関東戦国史を題材とした軍記物の中で語られてきた。代表的なものの一つが『関八州古戦録』である。

同書は後世に成立した軍記であり、現代の研究書のようにすべてを同時代史料によって厳密に検証した作品ではない。そのため記述には物語的な脚色や後世の解釈が含まれる可能性があり、内容をそのまま史実と断定することはできない。

しかし、北条・上杉・武田・佐竹・宇都宮など関東周辺の武将たちが後世にどのように記憶されたのかを知る資料として興味深い。現代語訳された版では広綱の死に関わる場面も扱われており、宇都宮氏が関東戦国史を構成する一勢力として認識されていたことが分かる。

『戦国武将列伝3 関東編【下】』――地域史研究から広綱を読み直す

現代の研究成果を踏まえて宇都宮広綱を知るための書籍として、関東地方の戦国武将を扱う人物列伝などがある。こうした書籍では、広綱を単純な弱小大名として扱うのではなく、宇都宮氏家中の分裂、佐竹氏との関係、自身の健康問題、北関東の政治状況などを踏まえて評価する傾向がある。

広綱という人物を理解するうえでは、この地域史の視点が非常に重要である。全国史の中だけで見れば、信長や秀吉の活動とは直接結びつかないため目立ちにくい。しかし下野国を中心に見ると、宇都宮氏の存亡を左右した重要人物として位置づけられる。

地域史の研究が進むことで、「天下統一に関与したかどうか」だけでは測れない地方大名の役割が明らかになり、広綱もより立体的に評価されるようになっている。

専門研究――宇都宮広綱本人を対象とした論考

宇都宮広綱については、本人を研究対象とした専門的な論考も存在する。こうした研究では宇都宮氏関係文書、周辺大名の文書、系譜、軍記などを比較しながら、広綱の政治的位置や年代、家臣団との関係などが検討される。

広綱については没年などにも異なる説があるため、簡略な人物紹介だけでは判断しにくい部分が存在する。専門研究には、後世の軍記に書かれた内容と同時代文書から確認できる事実を分けながら人物像を再構成する役割がある。

これは広綱のような地方戦国大名を調べる場合に特に重要である。有名武将のように大量の一般向け伝記があるわけではないからこそ、地域史・自治体史・専門論文の蓄積が人物像を復元するための中心になるのである。

宇都宮氏を扱った一族史・地域史では欠かせない人物

広綱だけを主人公とした一般向け伝記は多くないものの、宇都宮一族全体を扱う書籍や栃木県・宇都宮市の歴史を扱う資料では重要人物として登場する。

宇都宮氏の長い歴史を戦国時代までたどる場合、尚綱・広綱・国綱の三代は非常に重要である。父尚綱の戦死によって家が崩壊しかけ、広綱が宇都宮城へ復帰し、国綱の時代に豊臣政権へ参加していくという流れが、一族の戦国史における大きな物語となるからである。

特に広綱の幼少期は、「重臣に城を奪われた幼君が忠臣の支援を受けて復帰する」という非常にドラマ性の高い展開を持つ。そのため宇都宮氏を紹介する地域史では、家の存亡を左右した転換期として取り上げやすい。

テレビドラマや映画では主要人物として描かれる機会が少ない

一方、全国的なテレビドラマや映画において宇都宮広綱が主要人物になる機会は多くない。その理由は、広綱個人の魅力が乏しいということではなく、北関東の戦国史そのものが全国規模の映像作品で詳しく描かれる機会が少ないためである。

上杉謙信を扱うドラマでも、武田信玄との川中島合戦や越後国内の出来事が中心となることが多く、関東への長期的介入まで詳細に描かれることは少ない。佐竹氏も同様で、義昭や義重を中心とする常陸・下野の勢力争いは全国史の映像作品では脇に置かれやすい。

しかし、もし上杉謙信の関東政策や北条氏の北関東進出、佐竹義重の勢力拡大を中心に描いた作品が制作されれば、広綱は重要な登場人物となる可能性が高い。

歴史漫画・小説の題材として魅力的な「奪われた城を取り戻す少年当主」

宇都宮広綱は、創作作品の題材として見ると意外なほど物語性の高い人生を送っている。

幼くして父を失い、重臣に城を奪われ、忠臣に守られて真岡へ逃れ、佐竹氏の力を借りて本拠を奪還する。その後は佐竹家の娘と結婚し、上杉謙信や北条氏といった巨大勢力の争いに巻き込まれながら家を守り、晩年には再び有力家臣の反乱に苦しみ、若くして世を去る。

天下統一を目指す英雄とは違い、「失ったものを取り戻して守る」という方向に物語の軸がある。この点は歴史漫画や歴史小説の主人公として非常に扱いやすい。

広綱は、すでに大量の映像・漫画作品が存在する信長や信玄とは違い、まだ創作上の人物像が固定されていない。そのため史実を大切にしながらも、新しい解釈を加えて描ける余地が大きい人物なのである。

ゲームでは「弱小勢力から歴史を変える主人公」になれる

宇都宮広綱の作品登場歴を総合すると、現在最も存在感を示している分野は歴史シミュレーションゲームである。

ここには広綱ならではの魅力がある。史実で天下を取った信長や秀吉を選べば、プレイヤーはある程度「歴史上の勝者をさらに勝たせる」ことになる。しかし宇都宮広綱を選んだ場合、史実では北関東の生存競争に苦しんだ地方大名を、自分の力で天下人へ押し上げることができる。

北条氏を倒して関東を統一する広綱、佐竹氏を従えて東北へ進む広綱、武田信玄や上杉謙信と互角に戦う広綱、そして織田信長より先に上洛する広綱――。現実には起こらなかった歴史を作れる点に、ゲーム版広綱の大きな魅力がある。

そして史実の広綱自身も、幼少期に宇都宮城を失いながら本拠を奪還した人物である。その意味では、「不利な状態から勢力を立て直す」というゲームプレイ自体が、広綱の実際の人生とよく重なっている。

宇都宮広綱は映像作品のスター武将とはいえない。しかし歴史ゲームでは、強国に囲まれた地方勢力だからこその高い挑戦性を持ち、歴史書では北関東戦国史を理解する重要人物として扱われている。史実を学ぶ入口としても、まったく新しい歴史を作り上げるIF世界の主人公としても楽しめる人物なのである。

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■ IFストーリー(もしもの物語)

宇都宮広綱の生涯は、幼くして父を失い、宇都宮城を追われながらも家臣や佐竹氏の支援によって本拠を取り戻し、北関東の戦国大名として家名を存続させたという波乱に満ちたものだった。しかし広綱は30代前半という若さで亡くなったとされ、その後の宇都宮氏は幼い国綱を中心として再び不安定な時代へ入っていく。もし広綱が病に倒れず、その後20年、30年と生き続けていたならば、宇都宮氏の運命は大きく変わっていた可能性がある。ここでは史実そのものではなく、当時の勢力関係や広綱が築いていた人脈を土台として、「もし宇都宮広綱が長命だったら」という架空の歴史を描いていく。

もし広綱が1576年を越えて生きていたなら――宇都宮家に訪れる第二の成長期

天正4年(1576年)。史実ではこの頃、宇都宮広綱は病によって生涯を閉じたとされる。しかし、ここでは病状が奇跡的に回復したと仮定する。

長い闘病から立ち直った広綱は、自らの体調悪化によって家中の有力者が再び独立姿勢を強めたことを深刻に受け止める。少年時代には壬生氏によって宇都宮城を失い、成人後には皆川氏の反抗によって再び本拠地を脅かされた。二度にわたって同じ危機を経験した広綱は、このままでは自分が死んだ瞬間に宇都宮氏が再び分裂すると考えるようになる。

そこで広綱は、単純に反抗的な家臣を討伐するのではなく、家臣団そのものの仕組みを変える改革へ乗り出す。芳賀氏・多功氏など忠実な一族を政権の中枢へ配置し、その一方で独立性の強い領主には軍役や人質提出を求め、宇都宮城を中心とする主従関係を強めていく。

史実の広綱は家臣団の独立性に苦しみ続けた。しかし長命であれば、この問題を解決するための時間が与えられる。広綱の第二の人生は、「宇都宮城を取り戻した若き当主」から「宇都宮家を中央集権化する成熟した大名」への変化として始まるのである。

上杉謙信死去――広綱に迫る最大の外交選択

天正6年(1578年)、越後の上杉謙信が死去する。謙信は広綱にとって後北条氏へ対抗するための重要な同盟者だった。その死は北関東諸大名に大きな衝撃を与える。

さらに上杉家内部では景勝と景虎による御館の乱が発生する。景虎は北条氏政の弟でもあり、この争いは越後内部だけの問題ではなく、北条氏・武田氏・佐竹氏を巻き込む大規模な外交戦へ発展していく。

広綱はここで慎重に動く。佐竹義重との姻戚関係を維持しながら、上杉景勝との関係を築く一方、北条氏との全面戦争は避ける。広綱自身が幼少時から何度も経験してきたように、一方の大国へ完全に依存することが危険であることを知っているからだ。

「北条とは戦う。しかし北条を追い詰めすぎない。佐竹とは結ぶ。しかし佐竹に飲み込まれない。上杉とは友好を保つ。しかし越後の戦争へ深く入りすぎない。」

こうした均衡外交によって、宇都宮氏は北関東における第三勢力として生き残る道を選択する。

武田家滅亡――広綱が初めて織田信長の存在を強く意識する

天正10年(1582年)、武田勝頼が織田・徳川連合軍によって滅ぼされる。この知らせが下野へ届いたとき、広綱は大きな衝撃を受ける。

甲斐・信濃を支配し、かつて上杉謙信と何度も激突した巨大勢力・武田氏がわずかな期間で消滅したからである。

広綱は家臣たちを集めて語る。

「北条と佐竹だけを見ていてはならぬ。西から天下そのものを変える者が来る。」

この時点で広綱は、北関東の局地的な勢力争いだけでは宇都宮氏の未来を守れないことを理解する。織田信長という新たな中央権力との関係を築く必要があると判断し、使者を西へ送る。

もし信長がそのまま天下統一へ進んでいれば、宇都宮氏は早い段階で織田政権へ従属し、北関東の所領を安堵される道を選んだ可能性もあった。

しかし同年、本能寺の変が発生する。

織田信長は死去し、再び天下の行方は分からなくなる。

広綱は改めて悟る。

「強者に従えば家が残るとは限らぬ。強者そのものが明日には消えるのが乱世だ。」

これは父を失い、城を失い、自らも何度も危機を経験した広綱だからこそ到達できる考えだった。

豊臣秀吉の台頭――広綱が選んだ「最も早い臣従」

本能寺の変後、中央では羽柴秀吉が急速に勢力を拡大していく。

北関東では依然として北条氏が強大であり、佐竹義重と宇都宮広綱はその圧力を受け続けていた。しかし広綱は、秀吉が柴田勝家を破り、徳川家康とも政治的妥協を成立させ、四国・九州まで勢力を広げていく様子を注意深く観察する。

そして天正年間後半、広綱は佐竹義重より一歩早く秀吉への接近を決断する。京や大坂へ使者を送り、宇都宮氏が古くから下野国を治めてきた名族であることを訴え、豊臣政権への服属を表明するのである。

秀吉にとっても、北条氏の北側に位置する宇都宮氏を味方につける価値は高い。広綱は豊臣政権から所領安堵の内意を取り付け、北条氏との戦いに備える。

この瞬間、宇都宮氏は「北関東で生き残るための大名」から「天下政権の一員」へ立場を変えることになる。

1590年、小田原征伐――広綱、生涯最大の晴れ舞台

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は後北条氏に対する小田原征伐を開始する。

史実では宇都宮国綱が豊臣軍へ参加することになるが、このIF世界では45歳となった広綱自身が宇都宮軍を率いて出陣する。

広綱にとって後北条氏は特別な相手だった。若い頃からその巨大な軍事力に圧迫され、ときには上杉氏と結んで戦い、ときには北条方へ人質を差し出して妥協しなければならなかった。宇都宮氏内部の皆川氏や壬生氏が北条氏へ接近することで、家中そのものを揺さぶられたこともある。

その北条氏が今、豊臣秀吉の大軍によって包囲されている。

広綱は息子国綱と並んで出陣し、北関東の北条方諸城攻略へ参加する。

若い国綱に広綱はこう語る。

「強き者と戦う時は一人で戦うな。敵より大きな流れを味方につけよ。それが我が生涯で学んだことだ。」

これは広綱の人生そのものを象徴する言葉だった。

芳賀氏に守られ、佐竹氏の援軍を得て城を取り戻し、上杉氏と組み、最後には豊臣政権を利用して北条氏へ対抗する。広綱は一度として「自分だけが最強の武将」であったことはない。しかし、誰と手を結べば自家を守れるのかを見極める能力によって生き続けてきたのである。

小田原落城後――広綱が目指す「下野の統一」

北条氏が降伏すると、北関東の政治構造は劇的に変化する。

それまで北条氏を後ろ盾として宇都宮氏から独立的に動いていた壬生氏や皆川氏は、強力な支援者を失うことになる。

広綱はこの機会を逃さない。ただし彼は武力による一族皆殺しのような強硬策を選ばず、豊臣政権の権威を利用する。

「天下人秀吉公の法に従い、下野の所領争いを停止する。」

豊臣政権の命令を利用して私闘を禁じ、従う者には所領を保証し、抵抗する者だけを処罰することで、宇都宮氏を中心とした領国支配を完成させていく。

戦国前半には当主と有力家臣が半ば対等に近かった宇都宮領が、次第に「宇都宮家を頂点とする近世大名領」へ変化していくのである。

豊臣秀吉との宇都宮対面――名門当主として迎える絶頂期

小田原征伐の後、豊臣秀吉は関東・奥羽の大名を服属させるため宇都宮へ進む。

そこで行われるのが歴史的な宇都宮仕置である。

このIF世界では、その舞台となる宇都宮城で広綱自身が秀吉を迎える。

幼い頃に追い出された城。佐竹氏の力を借りて取り戻した城。家臣の反乱によって再び危機に陥った城。その宇都宮城へ、今度は天下人が客としてやって来る。

広綱にとってこれ以上象徴的な出来事はない。

45年前、幼児だった彼は父を失い、この城を追われた。それから数十年後、天下を統一した豊臣秀吉を宇都宮氏当主として迎えている。

広綱は宴席の後、静かに宇都宮城を歩く。

「ようやく父上に、この城を守ったと申せる。」

戦国大名宇都宮広綱の人生における最大の勝利は、天下を取ることではなかった。「宇都宮城に宇都宮氏がいること」。それこそが彼にとっての勝利だったのである。

国綱への家督譲渡――父が果たせなかった「生前継承」

1590年代初頭、広綱は50歳近くになる。

戦国武将としてはまだ活動可能な年齢だが、ここで彼は嫡男国綱へ家督を譲る決断をする。

その理由には自分自身の経験があった。

広綱は幼児のときに突然父を失った。その結果、家臣団は分裂し、宇都宮城まで奪われた。そして史実では広綱自身も若くして亡くなったため、国綱も幼いまま家督を背負うことになった。

しかしこのIF世界では同じことを繰り返さない。

広綱は生きているうちに国綱を正式な当主とし、自らは後見として政務を支える。家臣への引き継ぎ、豊臣政権との外交、佐竹氏との関係、領国内の城主配置。それらを数年かけて国綱へ教えていく。

「当主が死んでから家督を渡しては遅い。我が父の代も、我が若き日も、それで家中は乱れた。」

この制度的な家督継承によって、宇都宮氏は初めて安定した世代交代を経験するのである。

最大の分岐点――宇都宮氏改易は回避できたのか

史実の宇都宮氏にとって最大の悲劇の一つが、慶長2年(1597年)の宇都宮国綱改易である。豊臣政権下で所領を維持してきた宇都宮氏は改易され、長く続いた下野国支配を失う。

しかし広綱が存命だった場合、この結果は変わった可能性がある。

長年の外交経験を持つ広綱は、豊臣政権内部の人間関係に極めて慎重に対応する。浅野長政をはじめとする奉行衆との関係を整え、石高の申告や家中再編を早い段階から進め、豊臣政権に疑念を持たれないよう細心の注意を払う。

さらに国綱の養子問題についても、広綱が直接交渉する。佐竹氏との関係を保ちながらも、豊臣政権から「宇都宮家が独自勢力を形成しようとしている」と疑われるような動きを避ける。

その結果、宇都宮氏は改易を免れる。

石高は多少削減されるかもしれない。しかし宇都宮城と周辺領地は維持され、宇都宮氏は豊臣大名として存続するのである。

1600年、関ヶ原――広綱最後の決断

そして慶長5年(1600年)。天下は再び二つに割れる。徳川家康と石田三成の対立である。

すでに55歳となった広綱は隠居しているものの、国綱から意見を求められる。

佐竹氏は徳川家康に対して曖昧な態度を取っている。一方、宇都宮領は徳川氏の関東領に近く、敵対すれば甚大な危険を招く。

家臣の中には豊臣家への恩義を重視して西軍参加を主張する者もいる。

しかし広綱は言う。

「我らは天下を決める家ではない。天下が決まった後にも残る家であらねばならぬ。」

そして宇都宮氏は徳川家康への協力を決断する。会津征伐に参加し、東軍側として北関東の守備を担当する。

関ヶ原で徳川家康が勝利すると、宇都宮氏は所領を安堵される。

かつて幼い広綱が追放された宇都宮城は、江戸時代を迎えても宇都宮氏の城として残ることになる。

もし宇都宮氏が江戸時代まで続いていたなら

このIF世界では宇都宮氏は徳川政権下でも下野宇都宮の大名として存続する。

国綱は近世の宇都宮藩主となり、広綱はその父として城下町整備を見守る。

戦国時代には軍事拠点だった宇都宮城の周囲に町人町が整備され、奥州街道・日光方面へ通じる交通の要衝として宇都宮はさらに発展する。

宇都宮氏は中世以来の名門という格式を利用し、徳川幕府の譜代大名とは異なる「旧族大名」として独特の立場を築く。

そして広綱は晩年、自らの人生を書き残させる。父尚綱の戦死、真岡への避難、芳賀高定の忠義、宇都宮城奪還、佐竹家との婚姻、上杉謙信との連携、北条氏との攻防、豊臣秀吉への臣従、徳川家康との関係。

それは単なる武功記ではなく、「弱い立場の大名が乱世をどう生き残ったか」という記録になる。

晩年の広綱――宇都宮城で迎える静かな最期

慶長年間のある冬。

60歳を越えた広綱は宇都宮城から城下を眺める。

若い頃には存在しなかった整然とした町並みが広がり、街道を商人や旅人が行き交っている。

かつて城を取り戻すために戦った時代からは想像もできない風景だった。

隣には国綱がいる。

広綱は息子へ語る。

「我は天下を取らなかった。」

国綱は答える。

「父上は宇都宮を残されました。」

広綱は静かに笑う。

「それでよい。」

数日後、宇都宮広綱は宇都宮城で静かに息を引き取る。

幼い頃に追われた城であり、生涯をかけて守り続けた城であり、子へ渡すことのできた城だった。

史実では若くして亡くなった広綱だが、この世界では父尚綱が果たせなかった「成長した息子へ自ら家督を渡す」という役割まで成し遂げたのである。

このIFストーリーで最も変わるのは「宇都宮氏の時間」

もし宇都宮広綱が長命だった場合、必ず宇都宮氏が天下を取ったとは考えにくい。北条氏や佐竹氏と比較して領国規模は小さく、信長・秀吉・家康のような全国規模の権力を築く条件も整っていなかった。

しかし「宇都宮氏が生き残る可能性」は大きく高まったと想像できる。

広綱が長命であれば国綱の幼少継承は避けられる。家臣団統制を進める時間が増える。豊臣政権への対応を本人が行える。国綱へ外交経験を直接継承できる。改易につながった政治問題について、経験豊富な前当主が調整役となれる。

つまり広綱の長命によって宇都宮氏が手に入れる最大のものは、領土でも兵力でもなく「時間」なのである。

実際の戦国大名家では、能力ある当主であっても早世すれば政権は簡単に不安定化した。反対に、長期間当主が政務を担当すれば家臣団の統制や後継者教育を進めることができる。

宇都宮広綱ほど、この「時間の重要性」を感じさせる人物も少ない。

幼い頃に父を失ったために城を奪われ、自らも若くして亡くなったため息子国綱へ十分な準備期間を与えることができなかった。もし広綱にあと20年の時間が与えられていたなら、宇都宮氏は豊臣政権、そして徳川政権まで続く大名家として残った可能性があったかもしれない。

もう一つの宇都宮広綱――「天下人にならなくても勝者になれる」物語

このIFストーリーにおける宇都宮広綱は、最後まで天下人にはならない。

織田信長を倒すわけでもない。豊臣秀吉より先に全国統一するわけでもない。徳川家康と関ヶ原で天下を争うわけでもない。

しかし広綱にとって、それは敗北ではない。

幼少期に失った宇都宮城を守り抜き、家臣の反乱を抑え、佐竹・上杉・北条・豊臣・徳川という巨大勢力が次々と現れる時代を乗り越え、最後には息子へ安定した領国を渡す。

それこそが広綱にとって最大の勝利となる。

戦国時代の物語では、どうしても天下を取った者が主人公になりやすい。しかし実際には、何百もの大名や領主が「家を残す」という別の勝利を目指していた。

宇都宮広綱のIFストーリーは、そのもう一つの戦国時代を描くことができる。

もし彼が長生きしていたならば、現在の歴史では「宇都宮氏最後の戦国当主」として知られる国綱ではなく、その後も宇都宮氏の歴代藩主が続いていたかもしれない。そして宇都宮城には、数百年にわたって宇都宮氏の旗が翻っていた可能性さえ想像できる。

それは決して天下を塗り替えるほど派手な歴史ではない。

しかし、一度すべてを失いかけた少年が故郷へ戻り、乱世を生き抜き、最後には自らの手で次世代へ家を渡す――。

宇都宮広綱という人物の実際の生涯を踏まえるからこそ、その「もしもの未来」は壮大な天下取り以上に、彼らしいもう一つの戦国物語となるのである。

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