合戦名 | 第一次天正伊賀の乱 | |
合戦の年月日 | 天正6年(1578年) - 天正7年(1579年) | |
合戦の場所 | 伊賀国 | |
合戦の結果 | 伊賀衆の勝利 | |
交戦勢力 | 織田軍 | 伊賀惣国一揆、伊賀十二人衆 |
指導者・指揮官 | 織田信雄、滝川雄利、柘植保重、土方雄久、日置大膳亮 | 百地丹波、植田光次 |
戦力 | 8.000 | 1.500 |
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[sengoku-1]概要 (説明はWikipediaより)
伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との戦いの総称である。
北畠家の養子となっていた織田信長の次男織田信雄は、天正4年(1576年)に北畠具教ら北畠一族を三瀬の変で暗殺し伊勢国を掌握すると、次は伊賀国の領国化を狙っていた。
1578年(天正6年)2月、伊賀国の郷士の日奈知城主・下山平兵衛(下山甲斐守)が信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。
信雄は同年3月に滝川雄利に北畠具教が隠居城として築城した丸山城の修築を命じた。
[sengoku-2]これを知った伊賀国郷士衆は驚き、丸山城の西にある天童山に密偵を送り、築城の様子をうかがった。
すぐさま伊賀郷士11名が平楽寺に集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議一決した。
丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、同年10月25日に集結した忍者たちが総攻撃を開始した。
不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。
『伊乱記』には、「伊賀衆は雄利を討ち取ったと喜んだ。
しかし雄利が無事であることを知って落胆した」とある。
[sengoku-3]翌天正7年(1579年)9月16日、信雄は信長に相談もせず独断で8,000の兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し信雄軍を伊勢国に敗走させた。
伊賀衆の夜襲や松明を用いた撹乱作戦や地形を活かした奇襲などで、2~3日で信雄軍は多くの兵を失い 、伊勢へ敗走した。
信雄軍は重臣の柘植保重を討たれる(鬼瘤峠の戦い)など被害は甚大で、侵攻は失敗に終わった。
信雄が無断で伊賀に侵攻し、さらに敗戦したことを知った信長は激怒し、信雄を叱責した。
信長が信雄に「親子の縁を切る」と書いた書状をしたためたというからその怒りは相当なものであったと考えられる。
また、この信雄の敗戦を受け、信長は忍者に対し警戒心を抱き、後の第二次伊賀の乱へ繋がっていく。
しかし信長はこの頃石山本願寺との抗争が激化し、伊賀国平定は後回しせざるを得なかった。
[sengoku-4]第一次天正伊賀の乱(最新無料動画を楽しみましょう♪)
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