【時代】 戦国時代 – 安土桃山時代
【生誕】 天文17年9月24日(1548年10月25日)
【死没】 天正14年7月27日(1586年9月10日)
【改名】 千寿丸(幼名)→ 吉弘鎮理 → 高橋鎮種、紹運(号)
【別名】 孫七郎(通称)、三河入道、主膳兵衛、主膳入道(仮名)
【官位】 主膳正
【主君】 大友宗麟
【氏族】 吉弘氏→高橋氏
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[sengoku-1]概要 (説明はWikipediaより)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
豊後大友氏の家臣。
吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父にあたる。
紹運は法名であり、初めは吉弘 鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種(たかはし しげたね)と称した。
天文17年(1548年)、大友義鑑の重臣・吉弘鑑理の次男として豊前国筧城に生まれる。
義鑑の子・大友義鎮(のちの宗麟)と父・鑑理から1字ずつ賜り鎮理と名乗る。
初陣は13歳で永禄4年(1561年)の第四次門司城の戦いと考えられている。
永禄10年(1567年)、大友氏の家臣であった高橋鑑種が豊前国・筑前国・肥前国の国人と連携して謀反を起こした際、父・鑑理や兄・吉弘鎮信と共に出陣して武功を挙げた。
永禄12年(1569年)に大友義鎮(宗麟)の命により高橋氏の岩屋城と宝満城の2城を継ぎ、名を鎮種と改めた。
以降は北九州の軍権を任されていた立花道雪と共に筑前国を支配することとなる。
[sengoku-2]その後、鎮種含む大友の筑前五城将(道雪、鎮種と鷲ヶ岳城主・大鶴鎮正、荒平城主・小田部紹叱、柑子岳城主・臼杵鎮続、木付鑑実)は筑前、筑後、肥前、豊前の諸勢力(秋月種実、筑紫広門、原田隆種、原田鑑尚、鳥飼氏勝、龍造寺隆信、宗像氏貞、麻生元重、問註所鑑景、城井鎮房、長野助盛、千手宗元)と戦を繰り返す。
天正6年(1578年)耳川の戦いで大友氏は薩摩国の島津氏に大敗を喫する。
この大敗により兄・吉弘鎮信、義兄・斎藤鎮実、大友氏重臣の角隈石宗、佐伯惟教、田北鎮周など多数の有力武将が戦死。
肥前国の龍造寺氏や筑後国の筑紫広門、筑前国の秋月種実らが大友領への侵攻を開始した。
同年、鎮種は剃髮して紹運と号している。
天正9年(1581年)、男子のいない道雪の度重なる要請により、嫡男・統虎を道雪の娘・誾千代の婿養子とした。
これにより高橋家は次男・高橋統増が継ぐこととなる。
天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち死にしたことにより、島津方の圧力が強まる中、紹運は立花道雪や朽網鑑康と共に筑後を守るべく戦っていた。
3月、豊後国の大友軍は黒木家永の筑後猫尾城を攻撃したが、城方の奮戦や龍造寺方の援軍・土肥家実(土肥出雲守)を前に戦線は膠着した。
8月18日、道雪と紹運は大友義統の出兵要請を受け、両家合わせておよそ5,000の兵で出陣し、勇ましい強行軍の態勢で敵領地の筑後川や道路が未整備の鷹取山、耳納連山の高峰や九十九折など山険難所を越え、鉄砲隊で埋伏していた秋月、筑紫、草野、星野連合軍を蹴散らし(田主丸町・片瀬、恵利渡口・石垣表の戦い)、ただ1日で筑前から筑後まで15里(約60キロ)の行程を走って、8月19日夕方、猫尾城の支城・高牟礼城下に到着した。
道雪はさっそく城将・椿原氏部を調略し、24日に高牟礼城は開城降服して、土肥家実も城から逃れ去った。
つづいて犬尾城の川崎重高(一説には河崎鎮堯)も降り、25日には川崎の権現山に陣替えしたが、筑後高良山座主・丹波良寛や大祝保真、宗崎孝直、甘木家長、稲員安守らも大友軍に加わった。
28日には道雪が一族の立花鎮実(戸次右衛門大夫)を将として800兵の別働隊を率いて坂東寺に入って城島城を攻めて、立花勢は鎮実以下、竹迫鑑種(竹迫日向守)と安倍親常(安倍六弥太)は勇戦して数人を討ち取って城の外郭を焼きしたが、城主西牟田家親と西牟田家和兄弟と城兵300騎の激しい抵抗に遭い、そこへ龍造寺政家の援兵が到着したので、百余りの死傷者を出した。
道雪と紹運の本隊は酒見・榎津・貝津などの集落を焼き払って、ついに大友諸将と軍議をひらいて猫尾城の総攻撃を決めて、9月5日に落城させた。
9月8日から11日まで、蒲池鎮運の山下城や谷川城、辺春城、兼松城、山崎城など筑後諸城を降伏、攻落した。
この間にもう一度坂東寺に陣を取り、豊後大友軍の総大将・田原親家と軍議して三潴郡の西牟田村・酒見村・榎津近辺数百の民家を焼き払い、9日に柳川城周辺の山門郡内の龍造寺方の諸城を攻めて、10日に上瀬高・下瀬高・鷹尾村を焼き払って、城主・田尻鑑種が不在であった鷹尾城も占領した。
[sengoku-3]龍造寺家晴の柳川城は九州有数の難攻の水城であり、その支城、百武賢兼の妻・圓久尼が鎮守する蒲船津・百武城も同じ水路が入りくみ沼地が自然の要害となっていた難攻の城で、さすがの道雪、紹運も攻略の進展ができなかった。
そのため、10月3日には筑後高良山座主・丹波良寛の勧めもあって、高良山に引揚げ、軍勢を転じて久留米城、安武城、吉木竹井城を攻落した。
10月4日、両軍は草野鎮永の発心岳城を進攻し、のち星野吉実の鷹取城・福丸城・星野城、そして11月14日に問註所康純の井上城を攻めて、秋月領の甘木辺りまで焼き討ちした。
その際、田原親家は両将の戦功を嫉み、更に年の暮れが迫っていたので、豊後に引揚げた。
残された道雪、紹運や朽網鑑康、志賀親守らは、高良山を中心に筑後川に沿った柳坂から北野に布陣したまま、年の越えを迎える。
天正13年(1585年)2月上旬から4月23日まで龍造寺政家、龍造寺家晴、鍋島直茂、後藤家信、筑紫広門、波多親、草野鎮永、星野吉実、秋月種実、問註所鑑景、城井鎮房、長野種信など肥前、筑前、筑後、豊前連合軍およそ30,000余の大軍と小森野、十三部、祇園原など(総じて筒川合戦や久留米合戦)で数々の激戦があったが、道雪と紹運、鑑康、良寬ら大友軍は9,800の劣勢ながら、いずれも見事で兵法、戦術や兵器、陣形を活用してしばしば局地戦で敵大軍を撃破したが、のち道雪は老衰で発病のため、龍造寺側に決定的な打撃を与えることができなかった。
天正13年(1585年)9月、道雪が病没。
これを好機と見た筑紫広門に宝満城を奪取されたため、紹運は筑後遠征を中止して宝満城を奪回する。
のちに広門と和睦し、広門の娘・加袮を次男・統増の正室に迎えた。
天正14年(1586年)、島津氏が大友氏を滅ぼすべく岩屋城・宝満山城のある太宰府まで北上。
紹運は防御の薄い岩屋城にておよそ763名と共に迎撃、島津軍の降伏勧告を拒絶し徹底抗戦した(岩屋城の戦い)。
半月に及ぶ戦いの末、敵兵多数を道連れにし玉砕。
岩屋城は陥落した。
享年39。
[sengoku-4]高橋紹運(最新無料動画を楽しみましょう♪)
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