【時代】 戦国時代 – 江戸時代前期
【生誕】 永禄10年8月3日(1567年9月5日)
【死没】 寛永13年5月24日(1636年6月27日)
【改名】 梵天丸(幼名)→政宗
【別名】 仮名:藤次郎、渾名:独眼竜
【官位】 従五位下左京大夫、侍従、越前守
従四位下右近衛権少将、陸奥守、正四位下参議、従三位権中納言、贈従二位
【主君】 豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光
【氏族】 伊達氏
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[sengoku-1]概要 (説明はWikipediaより)
出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。
近世大名としては仙台藩の初代藩主である。
幼名梵天丸。
没後は法名から貞山公と尊称された。
幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。
永禄10年8月3日(1567年9月5日)、出羽国米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗の嫡男として、正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)から生まれた。
天正5年(1577年)11月15日、元服して伊達藤次郎政宗と名付けられる。
梵天丸は固辞したが、父の輝宗より強いて命ぜられる。
諱の「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するため藤次郎政宗と呼ぶことも多い。
史料上にも正宗と書かれたものがいくつかあるが、これは誤記や区別のための書き違えである。
伊達家はそれまで足利将軍からの一字拝領を慣習としてきたが、政宗の元服に際しては、当時織田信長によって京より追放されていた足利義昭からの一字拝領を求めなかった。
天正7年(1579年)10月、田村清顕より婚儀の相談があり、御入輿の日取り、路次警固等合い調う。その冬、伊達政宗が13歳のとき、仙道の戦国大名であった三春城主・田村清顕の娘、当時12歳の愛姫(伊達政宗と同じく伊達稙宗を曽祖父にもつ)を正室に迎える。
伊達郡梁川城で輿の引継ぎが行われ、伊達成実・遠藤基信らに守られて、雪深い板谷峠を避け、小坂峠、七ヶ宿、二井宿峠を経て、米沢城に入輿した。
天正9年(1581年)5月上旬、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で伊具郡に出陣、初陣を飾る。
また、このころから輝宗の代理として田村氏や蘆名氏との外交を担当しており、蘆名盛隆が対相馬氏戦で援軍を送ったのは政宗の働きかけによるものである。
天正12年(1584年)10月、父・輝宗の隠居にともない家督を相続し、伊達家第17代当主となる。
このとき、政宗は若年を理由に辞退を申し出たが、一門・重臣の勧めを受けて家督を譲り受けている。
仙台藩の公式記録である『伊達治家記録』では、家督相続を10月6日から22日の間の出来事と記し、これについては現存史料でも輝宗の当主としての発給文書の終見が10月5日付で、政宗の当主としての発給文書の初見が10月23日付のうえ、輝宗隠居の知らせを聞いた石川昭光(輝宗の実弟)からの問い合わせに対する回答と伝えられているため、この推定はほぼ正確と思われる。
この当主交代について、小林清治は10月6日に会津の蘆名盛隆が家臣に暗殺されたことを受けて、輝宗がかつて蘆名盛氏(盛隆の養父)に対して自分の次男(小次郎)が成長したら盛氏の養子にする案を示した書状を交わしていたことを理由に、9月に生まれたばかりの盛隆の遺児蘆名亀王丸(亀若。小林は「亀若丸」とする。母は輝宗の妹彦姫であり輝宗の実の甥)ではなく、実子の小次郎を蘆名氏の当主に送り込もうと計画した。
しかし、常陸の佐竹義重がこれに反対して、蘆名家中に対して亀王丸の家督相続を支持する書状を送ったために小次郎の入嗣計画が失敗し、それが引き金になって輝宗の隠居および政宗による蘆名氏との同盟破棄につながったと唱えている。
これに対して、垣内和孝は政宗は家督継承直後は蘆名氏との関係を修復する意向を持っていたとして、輝宗の隠居は蘆名氏の家督問題そのものよりも隣国の当主の不慮の死とそれにともなう混乱を見て、こうしたリスクを回避するために自分が健在のうちに次の当主への交代を決めたとしている。
小浜城主・大内定綱は二本松城主・畠山義継と手を組み、田村氏の支配から離脱していた。
大内氏は蘆名氏の支援を求め、田村氏は伊達氏の支援を求めることになった。
こうした状況を受けて、蘆名盛隆と畠山義継は輝宗父子に対して田村氏と大内氏の和睦を持ちかけていた。
一方、家督継承前から蘆名氏との外交に関わってきた輝宗も蘆名氏や岩城氏と田村氏の和睦の仲介にあたろうとしていた。
しかし、前者は田村氏の婿である政宗が拒否し、後者は盛隆没後の蘆名氏が受け入れるところとならなかった。
伊達氏・田村氏と蘆名氏・大内氏の和睦の不成立は、長く続いた伊達氏と蘆名氏の同盟に終止符を打つことになる。
天正13年(1585年)5月に蘆名領檜原を攻めると、8月には大内領小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめとして撫で斬りを行い、城中の者を皆殺しにしている。
大内定綱の没落を間近で見た義継は和議を申し出、輝宗の取りなしにより5か村のみを二本松領として安堵されることになった。
ところが輝宗は、所領安堵の件などの礼に来ていた義継の見送りに出たところを拉致される。
当時鷹狩りに出かけていた政宗は、急遽戻って義継を追跡し、鉄砲を放って輝宗もろとも一人も残さず殺害した。
この事件については、鷹狩中の手勢がなぜか鉄砲で武装していたことを根拠に、政宗による父殺しの陰謀と見る説もある。
その後、初七日法要を済ますと、輝宗の弔い合戦と称して二本松城を包囲。
11月17日、二本松城救援のため集結した佐竹氏率いる約3万の南奥州諸侯連合軍と安達郡人取橋で激突した。
数に劣る伊達軍はたちまち潰走し、政宗自身も矢玉を浴びるなど危機的状況に陥ったが、殿軍を務めた老臣・鬼庭左月斎の捨て身の防戦によって退却に成功し、翌日の佐竹軍の撤兵によりかろうじて窮地を脱した(人取橋の戦い)。
なお、この年の3月、正親町天皇は織田信長の比叡山焼き討ちによって焼失した延暦寺の根本中堂などの再建への助力のために政宗に対し、献金と引換に美作守への叙任を打診した。
しかし、政宗は周辺情勢の緊迫化によって助力が困難であることから、同年閏8月に政宗は会見した青蓮院の使者に対して美作守の辞退を正式に通知している(もっとも、稙宗以来歴代当主が左京大夫を称してきた伊達氏としては美作守は格下扱いと考えた可能性はある)。
ところが、このときの綸旨と口宣案はこの件を仲介しようとしていた青蓮院で宙に浮いてしまい、政宗の死から80年以上経った享保7年(1722年)になって青蓮院から仙台藩主伊達吉村に引き渡されたため、この叙任が『治家記録』などの後世の史料に史実として記載されている(享保当時の伊達家にも青蓮院にも、天皇の綸旨を政宗が辞退することは考えられず、戦乱のために伝達できなかったと誤認したとみられる)。
天正14年(1586年)4月、政宗は自ら出馬して二本松城を包囲、畠山氏は当主・国王丸を立てて必死に抵抗する。
7月、相馬義胤の仲介で伊達氏と蘆名氏の間で和議が結ばれ、国王丸は二本松城を明け渡して会津の蘆名氏のもとに亡命することとなった。
これによって二本松畠山氏は事実上滅亡した。
その後、政宗は佐竹氏やほかの南奥州諸侯との和議を進め、いったんは平和を回復した。
ところが、11月に蘆名亀若丸がわずか3歳で急死すると、佐竹義重は自分の子である義広を蘆名氏の当主に擁立した。
しかし、義重は事前に白河結城氏・岩城氏などに義広の擁立に関する同意を取りつける一方で、弟の小次郎を擁するとみられた政宗には何ら通告を行わなかった。
これを佐竹氏による伊達氏排除の意思とみた政宗は佐竹氏との全面対決を決意することになった。
天正15年(1587年)12月、関白・豊臣秀吉は関東・奥羽の諸大名、特に関東の北条氏と奥州の伊達氏に対して、惣無事令(私戦禁止令)を発令した。
しかし、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。
天正16年(1588年)2月、北方の大崎氏家中の内紛に介入して兵1万を侵攻させたが、黒川晴氏の離反と大崎方の頑強な抵抗に遭い敗北した。
さらに政宗への反感を強めていた伯父・最上義光が義光の義兄・大崎側に立って参戦し、伊達領各地を最上勢に攻め落とされた(大崎合戦)。
時を同じくして、大崎合戦に乗じて伊達領南部に蘆名氏・相馬氏が侵攻して苗代田城を落とされてしまう(郡山合戦)。
しかし、南方戦線において伊達成実による大内定綱の調略が成功、北方戦線では5月に最上氏との間に割って入った母・義姫の懇願により停戦し、体勢の立て直しが行われた。
7月、最上氏および蘆名氏と和議が成立して窮地を脱し、愛姫の実家・田村氏領の確保に成功した(田村仕置)。
9月、金山宗洗を通じて豊臣秀吉へ恭順を示し、秀吉は天正17年前半の上洛を求めた。
天正17年(1589年)2月26日、政宗は落馬で左足を骨折して療養に入る。
その隙をついて4月になると岩城常隆が田村領に侵攻を開始し、相馬義胤も呼応した。
怪我を治した政宗は5月になってようやく出陣するが、蘆名方の片平親綱(大内定綱の弟)が政宗に帰順したと知ると、方向を一転して会津方向に向かうことになる。
5月から6月にかけて会津の蘆名義広と争い、磐梯山麓の摺上原で破った(摺上原の戦い)。
敗れた義広は黒川城を放棄して実家の佐竹家に逃れ、ここに戦国大名としての蘆名氏は滅亡した。
このころになると惣無事令を遵守して奥州への介入に及び腰になっていた佐竹氏側から結城義親・石川昭光・岩城常隆らが次々と伊達方に転じて政宗に服属し、なおも抵抗を続けていた二階堂氏などは政宗により滅ぼされた。
秀吉は恭順と惣無事を反故にされた形となり、会津から撤退しない場合は奥羽へ出兵することを明らかにした。
このとき政宗は現在の福島県の中通り地方と会津地方、および山形県の置賜地方、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築いた。
これに加え上述の白河結城氏ら南陸奥の諸豪族や、また現在の宮城県北部や岩手県の一部を支配していた大崎氏・葛西氏も政宗の勢力下にあった。
[sengoku-2]天正17年11月、後北条氏が真田領へ侵攻したことにより、豊臣氏により征伐が行われることになった。
政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたという。
秀吉の小田原攻囲(小田原征伐)中である天正18年(1590年)5月に、豊臣配下浅野長政から小田原参陣を催促され、政宗は5月9日に会津を出立すると米沢・小国を経て同盟国上杉景勝の所領である越後国・信濃国、甲斐国を経由して小田原に至った。
秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属し、秀吉は会津領を没収したものの、伊達家の本領72万石(おおむね家督相続時の所領)を安堵した。
このとき遅参の詰問に来た前田利家らに千利休の茶の指導を受けたいと申し出、秀吉らを感嘆させたという。
この行為は秀吉の派手好みの性格を知っての行いと伝えられている。
政宗が秀吉に服属してほどなく、北条氏政・北条氏直親子は秀吉に降伏し、秀吉は宇都宮城で奥州仕置(宇都宮仕置)を行った。
ここに秀吉の日本統一が達成されたが、政宗は会津領などを失い陸奥出羽のうち13郡、およそ72万石に減封されている。
この宇都宮の地において宗家筋にあたる中村時長に接見したとされている。
翌天正19年(1591年)には蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定するが、政宗自身が一揆を煽動していたことが露見する。
これは氏郷が「政宗が書いた」とされる一揆勢宛の書状を入手したことに端を発する。
また、京都では政宗から京都に人質として差出した夫人は偽者である、一揆勢が立て篭もる城には政宗の幟や旗が立てられているなどの噂が立ち、秀吉の耳にも届いていた。
喚問された政宗は上洛し、一揆扇動の書状は偽物である旨を秀吉に弁明し許されるが、本拠地であった長井・信夫・伊達を含む6郡の代わりに一揆で荒廃した葛西・大崎13郡を与えられ、米沢城72万石から玉造郡岩手沢城(城名を岩出山城に変えた)へ58万石に減転封された。
このころ、秀吉から羽柴の名字を与えられ、本拠の岩出山城が大崎氏旧領であったことから、政宗は「羽柴大崎侍従」と称した。
文禄2年(1593年)、秀吉の文禄の役に従軍。従軍時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において巷間の噂となった。
3,000人もしくは1,500人の軍勢であったとの記録がある。
ほかの軍勢が通過する際、静かに見守っていた京都の住民も伊達勢の軍装の見事さに歓声を上げたという。
これ以来、派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになったと伝えられる。
朝鮮半島では明との和平交渉中の日本軍による朝鮮南部沿岸の築城に際して、普請を免除されていたにもかかわらず秀吉からの兵糧の支給を断って積極的に参加するなどして活躍した。
ちなみに政宗は、慶長の役には参加していない。
文禄2年以降、浅野長政が取次として伊達政宗と豊臣政権の取次ぎとなっていたが、文禄5年8月14日付の書状で政宗は長政の態度に我慢がならずに絶縁状を送りつけて絶交を宣言した。
秀吉に早くから服属して五大老に選ばれたような大名たちとは異なり、政宗は北条氏と同盟して秀吉と対立するなどし、ほぼ最後に服属した大名だったことから、豊臣政権で重く用いられることはなかった。
文禄4年(1595年)、秀吉から謀反の疑いをかけられた関白・豊臣秀次が切腹した。
秀次と親しかった政宗の周辺は緊迫した状況となり、このとき母方の従姉妹にあたる最上義光の娘・駒姫は、秀次の側室になるために上京したばかりであったが、秀次の妻子らとともに処刑されてしまう。
政宗も秀吉から謀反への関与を疑われ、伊予国への減転封を命じられそうになったが、湯目景康・中島宗求の直訴の甲斐もあって最終的には赦免された。
ただし、在京の重臣19名の連署で、政宗が叛意を疑われた場合にはただちに隠居させ、家督を兵五郎(秀宗)に継がせる旨の誓約をさせられている。
秀吉の死後、政宗と五大老・徳川家康は天下人であった秀吉の遺言を破り、慶長4年(1599年)、政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させた。
伝存の基本史料を典拠とする限り、家康と政宗をはじめとする諸大名の縁辺は、法度違反の私婚として、その是非を論ずることはできないとする説もある。
この問題の決着が罰則なしの和解になったことも、亡き秀吉に代わる御意の存在を明らかにできないなど法の整備がされておらず、厳密に運用できなかったためである。
家康の縁辺問題を違法な私婚とみなす通説は、一方的で客観性に欠ける。
豊臣秀吉死後の慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐の軍を発するとこれに従い、7月25日には登坂勝乃が守る白石城を奪還した。
家康が畿内を離れた隙をついて五奉行の石田三成らが毛利輝元を総大将として家康に対して挙兵したため、下野国小山(現・栃木県)まで北上していた家康は西へ引き返す。
翌月、家康は政宗に対して、岩出山転封時に没収され、この時点では上杉領となっていた旧領6郡49万石の領土の自力回復を許す旨の書状(「百万石のお墨付き」仙台市博物館・蔵)を送っている。
これは政宗が南部利直領の和賀・稗貫・閉伊への侵攻許可を得るため、南部氏が西軍に通じているとしきりに家康に訴えていたことから、お墨付きを与えることで政宗が対上杉戦に集中するよう仕向けたものであった。
同年9月、関ヶ原の戦いが勃発。西軍の上杉家重臣直江兼続が指揮を執る軍が東軍の最上氏の領内に侵入すると(慶長出羽合戦)、東軍に属した政宗は、最上氏からの救援要請を受けて叔父・伊達政景が指揮する3,000の兵を派遣し、9月25日には茂庭綱元が上杉領の刈田郡湯原城を攻略した。
関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わり、直江兼続もまた最上義光に敗れて米沢に逃げ帰ると、政宗は自ら兵を率いて伊達・信夫郡奪還のため国見峠を越えて南進し、10月6日に福島城主本庄繁長の軍勢と衝突する。
宮代表の野戦では威力偵察に出た大宝寺義勝(繁長の子)が指揮を執る上杉軍を破ったものの、続く福島城包囲戦では繁長の堅い守りに阻まれて攻城に失敗、さらに上杉軍の別働隊に補給線を断たれたため、翌日には北目城へと撤退した(後世の軍記物に見えるいわゆる松川の戦いのモデル)。
この後、翌年春ごろまで幾度か福島城攻略のために出兵したが、結局は緒戦の失敗を取り戻せず、旧領6郡のうち奪還できたのは陸奥国刈田郡2万石のみであった。
加えて、政宗が南部領内で発生した和賀忠親による一揆を煽動し、白石宗直らに命じて忠親を支援するため南部領に4,000の兵を侵攻させていたことが発覚した(岩崎一揆)。
この一件は最終的には不問に付されたものの、政宗が希望した恩賞の追加はことごとく却下され、領地は60万石となった(のちに近江国と常陸国に小領土の飛び地2万石の加増で62万石となる)。
関ケ原の戦いのあと、徳川家康の許可を得た政宗は慶長6年(1601年)、居城を仙台に移し、城と城下町の建設を始めた。
ここに伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。
石高62万石は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ全国第3位である。
徳川幕府からは松平の名字を与えられ「松平陸奥守」を称した。
仙台城は山城で天然の地形を利用した防御であるものの、仙台の城下町は全面的な開発であるため、のべ100万人を動員した大工事となった。藩内の統治には48か所の館を置き家臣を配置した。
政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図し、慶長18年(1613年)、仙台領内において、エスパーニャ国王・フェリペ3世の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船・サン・ファン・バウティスタ号を建造した。
政宗は家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを外交使節に任命し、家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。
慶長8年(1603年)以降は幕臣との交際が多くなる。幕臣への接近は情報収集の一端であり、さまざまな贈答品に心を砕いたり、酒宴・歌会・茶会・能見物等に懸命であったりした。
慶長18年(1613年)に高田城の普請のために越後国にいた政宗から愛姫に送った書状には、春秋の季節感や天然自然の草木、花鳥風月について、仏教の無常感を土台に語りかけている。
『枕草子』や『徒然草』が引用され、『源氏物語』の「花宴」の一句で締めくくるなど、その文言は高尚である。
夫婦仲が疎遠どころか、複雑な心象を伝える間柄であったことが分かる。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(大坂の役)では大和口方面軍として布陣した。
和議成立後、伊達軍は外堀埋め立て工事の任にあたる。
その年の12月、将軍秀忠より伊予国宇和郡に領地を賜る。
翌年、慶長20年の大坂夏の陣では、道明寺の戦いで後藤基次らと戦った。
基次は伊達家家中・片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃したといわれる。
道明寺口の要衝小松山に布陣をする後藤隊を壊滅させた大和方面軍は誉田村に兵を進めるが、ここで伊達隊は真田信繁(幸村)の反撃を受けて後退を余儀なくされた。
これに対し先鋒大将の水野勝成は、政宗に真田隊への再攻撃を再三に渡り要請するが、政宗は弾薬の不足や兵の負傷などを理由にこれをことごとく拒否し、最後は政宗自ら勝成の陣に赴き要請を断った。
このため信繁は悠々と大坂城に引き返し「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」(「関東武者は100万あっても、男と呼べる者は誰一人としていない」)と嘲笑したという。
なお、誉田村での戦闘中に政宗勢は水野家家中3人を味方討ちにし、水野家の馬を奪っているが、勝成は政宗の軍勢を待ち伏せにし兵を斬り殺して馬を奪い返した。
しかし、これに政宗が異議を唱えることはなかった。
一説によれば、翌5月7日の天王寺の戦いで政宗は船場口に進軍し、明石全登隊と交戦していた水野勝成勢の神保相茂隊約300人を味方討ちにしたという(6日の道明寺の戦いで発生したとする説もある)。
神保隊は全滅し、相茂自身も討ち死にして遺臣が水野勝成らを通じて政宗に抗議するが、政宗は開き直り「神保隊が明石隊によって総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分した。
伊達の軍法には敵味方の区別はない」と主張したとある(『薩藩旧記』巻六)。
この風聞は直後からさまざまな興味と憶測を生み、講談本(『難波戦記』)では後藤隊休息中の神保隊に有無を言わさずに銃撃を加えたとする説や、手柄を妬んでの味方討ちとする説も書かれている。
ただし、政宗がこの事件について咎めを受けた記録はなく、幕府の記録(『寛政重修諸家譜』)にも「(神保相茂は)奮戦して死す」とのみ記述されており、幕府が政宗に配慮し抗議を黙殺した、あるいは水野家家中への味方討ちに尾ひれがついた伝聞が広まった可能性などが考えられる。
戦後の論功行賞で伊予国の内で10万石が政宗の庶長子である伊達秀宗に与えられた(宇和島藩)。
なおこの戦で、敵となった真田信繁の次男である真田守信、長宗我部盛親の姉妹である阿古姫とその息子・柴田朝意が伊達家に仕えている。
[sengoku-3]世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、のちに貞山堀と呼ばれる運河を整備した。
北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とした。
この結果、仙台藩は表高62万石に対し、内高74万5,000石相当(寛永惣検地)の農業生産高を確保した。
文化的には上方の文化を積極的に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、国宝の大崎八幡宮、瑞巌寺、また鹽竈神社、陸奥国分寺薬師堂などの建造物を残した。
さらに近江在住の技師・川村孫兵衛を招き、北上川の河口に石巻港を設けた。
これにより北上川流域水運を通じ石巻から海路江戸へ米を移出する体制が整う。
寛永9年(1632年)より仙台米が江戸に輸出され、最盛期には「今江戸三分一は奥州米なり」と『煙霞綺談』に記述されるほどになる。
2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光のころまで仕えた。
寛永12年に家光が参勤交代制を発布し、「今後は諸大名を家臣として遇す」と述べると、政宗はいち早く進み出て「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と申し出たため、誰も反対できなくなった。
家光は下城する政宗に護身用に10挺の火縄銃を与えた。
家光の治世になると、実際に戦場を駆け巡っていた武将大名はほとんどが死去していた中、政宗は高齢になっても江戸参府を欠かさず忠勤に励んだことから、家光は政宗を「伊達の親父殿」と呼んで慕っていた。
時に家光に乞われて秀吉や家康との思い出や合戦のことなど、戦国時代の昔話をしたという。
健康に気を使う政宗だったが、寛永11年(1634年)ごろから食欲不振や嚥下に難を抱えるといった体調不良を訴え始めていた。
寛永13年(1636年)4月18日、母義姫を弔う保春院の落慶式を終えたあと、城下を散策した政宗は経ヶ峰に杖を立て、「死後はここに埋葬せよ」と言った。
そこがのちの瑞鳳殿である。
2日後の20日に参勤交代に出発した政宗は急に病状を悪化させ、宿泊した郡山では嚥下困難に嘔吐が伴い何も食べられなくなっていた。
28日に江戸に入ったころには絶食状態が続いたうえ、腹に腫れが生じていた。
病を押して参府した政宗に家光は、5月21日に伊達家上屋敷に赴き政宗を見舞った。
政宗は行水して身を整え、家光を迎えた。
しかしお目見え後に奥へ戻るときには杖を頼りに何度も休みながら進まざるをえなかった。
5月24日卯の刻(午前6時)死去。
享年70(満68歳没)。
死因は食道癌(食道噴門癌)と癌性腹膜炎の合併症と断定されている。
「伊達男」の名にふさわしく、臨終の際、妻子にも死に顔を見せない心意気であったという。
5月26日には嫡男・伊達忠宗への遺領相続が許された。
遺体は束帯姿で木棺に納められ、防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めたうえで駕籠に載せられ、生前そのままの大名行列により6月3日に仙台へ戻った。
殉死者は家臣15名、陪臣5名。
「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている。
将軍家は、江戸で7日、京都で3日人々に服喪するよう命令を発した。
これは御三家以外で異例のことであった。
辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」。
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