【時代】 戦国時代
【生誕】 不明
【死没】 永禄11年(1568年)
【別名】 与次郎、弥三郎(仮名)、梅波斎(号)、弾正左衛門尉、越前守、越州
【主君】 上杉房定→房能→定実→上杉謙信
【氏族】 越後中条氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代の武将。

越後国の国人領主中条氏の第19代当主。

沼垂郡(北蒲原郡)奥山庄の鳥坂城主。

揚北衆三浦党で、七手組大将の一人。

上杉謙信の家臣筆頭として晩年まで第一線で活動を続けた。

中条定資の子として生まれる。

中条氏は相模国の名族・平姓三浦氏の支流で、鎌倉幕府の初代侍所別当で十三人の合議制に名を連ねた和田義盛の弟の流れである。

和田合戦を経てこの系統が三浦和田氏の嫡流となる。

明応3年(1494年)、戦死した父・定資に代わり家督を継ぎ鳥坂城城主となる。

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永正4年(1507年)8月、越後守護代長尾為景が守護上杉房能を急襲し、自刃に追い込んだ(永正の乱)。

為景は上杉定実を新守護に担ぎだした。

藤資は他の揚北衆の諸氏が反長尾陣営に与する中、為景を支持し、新守護の定実に仕えた。

同年9月、一族の築地忠基、揚北衆の大見安田実秀と共に反為景側の本庄時長の居城・本庄城を攻め、これを陥落させる。

時長は嫡子・弥次郎を討ち取られ、城を退去した。

この功により、定実より奥山庄荒川保のうち上条分を恩賞として与えられている。

永正5年(1508年)5月、同じく反為景側である色部昌長の居城・平林城を攻撃して陥落させる。

昌長は為景に誓書を出して降伏した。

永正10年(1513年)8月、藤資は為景と血判起請文を交わした。

同月、藤資を介して、為景は安田実秀とも血判起請文を交わしている。

一時上条定憲の反乱に与したこともあるが、結局は為景方に帰参している。

為景の没後、伊達稙宗の三男・実元を定実の養子に迎え伊達氏の援助の元で守護権力の復活を図ったが天文の乱で頓挫した。

天文17年(1548年)、藤資は長尾為景の跡を継いだ晴景に替えてその弟の長尾景虎(後の上杉謙信)を守護代に擁立しようと画策した。

まず北信濃国の中野城主で景虎の叔父である高梨政頼と結び、越後の国人たちの調略を裏で進めている。

景虎の補佐役である本庄実乃を始め、景虎の母方の家である栖吉城主長尾景信、箕冠城主大熊朝秀、与板城主直江実綱、三条城城主山吉行盛らが加わり景虎派を形成していった。

この動きが守護代・晴景の知るところとなり、親晴景派の坂戸城城主長尾政景や藤資と対立する同族の黒川城城主黒川清実らと武力抗争となった。

しかし同年12月30日、この事態を憂いた守護・定実の調停によって和議が結ばれ、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲り隠退した。

景虎は19歳で守護代長尾家の家督を相続した。

2年後の天文19年(1550年)2月26日、定実が後継者を遺さずに死去したため、同月、守護代・景虎は室町幕府から「白傘袋」と「毛氈の鞍覆」の使用を許され越後国主として認められることとなる。

この時期守護代の地位を得ていたことは、景虎改め上杉謙信が戦国大名として飛躍する上で必要不可欠な要素であり、景虎政権にとっては最重要ともいえる事件である。

以後藤資は景虎の重臣として一門に次ぐ待遇を受けた。

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永禄2年(1559年)4月、景虎は二度目の上洛を決行し、正親町天皇・将軍足利義輝に拝謁した。

この際、景虎は義輝から管領並の待遇を与えられ(上杉の七免許)、そして関東管領・上杉憲政への助力を正式に許可される御内書を得た。

この壮挙と帰国の無事を祝賀して配下の諸将が景虎に太刀を贈呈した。

この時、藤資は「披露太刀之衆」として太刀を献上していることがその目録「侍衆御太刀之次第」で確認できる。そしてその席次も一門に次ぐ位置にあり、重い待遇を得ていることがわかる。

その後も各地で戦功を挙げ、川中島の戦いでは景虎より血染めの感状を貰う。

享年は77とも80を超えていたともいわれる。

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