【時代】 戦国時代 – 江戸時代前期
【生誕】 永禄12年(1569年)
【死没】 慶長15年8月8日(1610年9月24日)
【改名】 石井太郎五郎、家俊
【別名】 通称:四郎兵衛、太郎五郎、左衛門太夫、平五郎、主水
【官位】 主水佑(受領名)
【主君】 龍造寺隆信、政家、鍋島直茂、勝茂
【氏族】 名字:肥前石井氏、横岳鍋島家

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。

肥前国の戦国大名龍造寺家の家臣、佐賀藩主鍋島家の家老。

横岳鍋島家(鍋島主水家)の初代当主。

永禄12年(1569年)、龍造寺隆信の重臣石井信忠の嫡男として生まれる。

母は大宝院(石井忠俊の娘)。

実弟に鍋島茂賢(石井孫六)がいる。

母の大宝院は鍋島直茂の正室陽泰院の姪、鍋島勝茂(佐賀藩初代藩主)の従姉であり、茂里は石井兵部少輔常延の曾孫にあたる。

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天正7年(1579年)、利発な少年であった茂里は、その器量を見込まれて、男子に恵まれなかった鍋島直茂・陽泰院夫妻の養子となった。

『葉隠』によれば、茂里が幼少の頃、直茂とともに、筑後舞『羅生門』を観賞したが、その感想を直茂に尋ねられた。

そのとき、茂里の答えが非常に生意気であった。

直茂は、「子どもの分際で、こしゃくなことを申すな」と叱責する一方で、茂里の利発さを認め、養子にすることを決めたという。

龍造寺政家の側衆として仕え、当初は、政家から偏諱を授けられ、「家俊」と名乗った。

正室には、直茂が前室との間に儲けた長女伊勢龍姫(月窓院)を迎え、直茂の嫡男勝茂が生まれるまで、茂里が鍋島氏の継嗣と定められていた。

しかし、茂里が鍋島氏の養子となった翌年、直茂夫妻に待望の嫡男勝茂が誕生すると、継嗣を辞して、肥前国神埼郡西郷村に物成3千石を与えられ、別家を立てた。このとき、父信忠は茂里の実家への復籍を直茂に申し入れるが、直茂には「勝茂の後見役として鍋島の家に留まってほしい」との強い希望があり、信忠の申し入れに首肯しなかった。

天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで、養父直茂に従って初陣を飾るも、敗戦し、直茂とともに退却。

混乱の中、冷静にふるまい、勇ましい戦いぶりであったので、直茂はとても感心し、以来、鍋島隊の先鋒は、茂里につとめさせることを決めたという。

龍造寺政家・鍋島直茂が、豊臣秀吉に通じてその傘下に入ると、龍造寺家の人質として、実弟石井孫六(後の鍋島茂賢)や親族の石井三右衛門尉とともに小早川隆景のもとに預けられ、大坂城に登った。

人質時代、秀吉がみずから剥いた瓜を馳走になり、そのときから、家紋に五つ木瓜紋を用いたという。

秀吉の九州征伐に際して、肥前国に帰還した。

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文禄・慶長の役では、一軍を率いて朝鮮半島へ渡海。

直茂・勝茂父子を輔弼し、大いに功績があった。

朝鮮では、日本から遠征した各大名が、朝鮮側の軍船の拿捕を競い合ったが、鍋島隊は遅れをとってしまった。

すると、茂里は「太閤殿下に報告の際、我が軍が遅れをとったようにみられては、父直茂・弟勝茂の面目が立たぬ」と言って奔走し、どこからか多数の軍船をかき集めてきたという逸話が残っている。

関ヶ原の戦いの後、柳川の戦いでも、茂里が軍略の立案から先鋒までを担当し、直茂・勝茂父子を助けた。

その後、佐賀城の築城や、名古屋城などの普請でも活躍した他、内政や外交でも敏腕を振るって、鍋島生三と共に、佐賀藩の基礎を築いた。

子女は、嫡男鍋島淡路守茂宗、次男三四郎茂尚(犬塚茂続養子)、長女瑞祥院(龍造寺高房正室)、次女於仁王(小城藩主鍋島元茂正室)がいた。

子孫は、代々佐賀藩家老を世襲し、7千5百石を領した。

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