【時代】 安土桃山時代 – 江戸時代初期
【生誕】 永禄7年12月29日(1565年1月31日)
【死没】 慶長18年1月25日(1613年3月16日)
【改名】 古新(幼名)、荒尾古新丸、照政(初名)、輝政
【別名】 三左衛門、岐阜侍従、吉田侍従、播磨宰相、姫路宰相(通称)、西国将軍(渾名)
【官位】 武蔵守、従五位下、従四位下、侍従、右近衛少将、正四位下、参議、正三位、贈従二位
【主君】 織田信長→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠
【氏族】 池田氏

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概要 (説明はWikipediaより)

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。

美濃池尻城主、同大垣城主、同岐阜城主、三河吉田城主を経て、播磨姫路藩初代藩主となる。

姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。

永禄7年(1564年)、織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲で生まれ、幼名を古新といった。

元服してからは実名「照政」を称した。

実名「照政」は慶長12年閏4月9日まで確認され、7月3日からは実名「輝政」に改名していることが確認される。

父や兄・元助と共に信長に仕え、輝政は信長の近習となる。

天正元年(1573年)、母方の伯父・荒尾善久の養子となり木田城主となる。

荒木村重が謀反を起こした有岡城の戦いでは天正7年(1579年)11月に父と共に摂津倉橋に在陣した。

天正8年(1580年)の花隈城(花熊城)攻略の際(花熊城の戦い)には北諏訪ヶ峰に布陣し、閏3月2日に荒木軍の武士5、6名を自ら討ち取る高名を立てた。

その軍功により信長から感状を授けられた。

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天正10年(1582年)2月、兄と共に甲州征伐に出陣する。

同年6月、本能寺の変で信長が明智光秀に弑されると父兄と共に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕え、同年10月15日、秀吉が京都大徳寺で信長の葬儀を催すと、輝政は羽柴秀勝と共に棺を担いだ。

天正11年(1583年)、父が美濃大垣城主となると、自らは池尻城主となった。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助が討死したため家督を相続し、美濃大垣城主13万石を領した。

天正13年(1585年)には同じ13万石で岐阜城主となった。

その後も紀州征伐や富山の役(佐々成政征伐)、九州平定など秀吉の主要な合戦の大半に従軍した。

天正15年(1587年)6月21日から、羽柴岐阜侍従として所見される。

天正16年(1588年)、従四位下侍従に叙任、豊臣姓を下賜された。

天正18年(1590年)の小田原征伐・奥州仕置には2,800の兵を率いて参加した。

そのため戦後の同年9月、三河国の内、渥美・宝飯・八名・設楽4郡(東三河)において15万2,000石に加増され、吉田城主となった。

また、在京の粮米として伊勢国小栗栖庄を与えられた。

吉田城主時代は同時期に尾張に入部した豊臣秀次に付属させられたと見られており、そのため文禄の役に際しては国内守備の任務にあった秀次に近侍して吉田城に留まり東国警衛の任にあたっている。

朝鮮出兵に関する任務としては、大船建造や兵糧米の名護屋城回送を命じられている。

また、伏見城普請や豊臣秀保の大和多内城普請を務めた。

豊臣時代、輝政は豊臣一族に準じて遇された。

文禄3年(1594年)、秀吉の仲介によって、徳川家康の娘・督姫を娶る。

輝政の正室・糸姫は利隆を出産した際、出血が止まらずそれがもとで病気になり実家に帰ったとされる(『池田家履歴略記』)。

中川家とはその後も関係が良好で、関ヶ原の戦いの前に糸姫の弟の中川秀成は輝政の仲介で家康に忠誠を誓った。

文禄4年(1595年)、関白・豊臣秀次の失脚時、秀次の妻妾の多くが殺害されたものの、輝政の妹・若政所(秀次の正室)は例外的に助命されており、特別丁重に扱われている(秀次事件)。

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慶長3年(1598年)8月、秀吉が没すると家康に接近した。

また、福島正則や加藤清正ら武断派の諸将らと共に行動し、文治派の石田三成らと対立し、慶長4年(1599年)閏3月3日、武断派と文治派の仲裁をしていた前田利家が死去すると、七将の一人として福島正則・加藤清正・加藤嘉明・浅野幸長・黒田長政らと共に石田三成襲撃事件を起こした。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、前哨戦となった織田秀信の守る岐阜城攻略に参加し、福島正則と共に功を挙げた(岐阜城の戦い)が、本戦では毛利秀元や吉川広家ら南宮山の西軍の抑えを務めており、直接の戦闘はなかった。

慶長6年(1601年)2月8日、徳川秀忠が輝政邸を訪れたが、これは関ヶ原以後初めての外様大名の屋敷への御成であったとされる(『落穂集』)。

戦後、岐阜城攻略の功績から播磨姫路52万石に加増移封され、初代姫路藩主となった。

ここに輝政は国持大名としての政治的地位を獲得したのであり、その知行方は当時でも八番目に高いものであった。

12月には従四位下・右近衛権少将に叙任された。

関ヶ原合戦以後における徳川氏一門以外の大名における少将以上の任官は、前年3月における福島正則に次いでのものであり、初期徳川政権における両者の政治的役割の高さを示すものである。

慶長6年(1601年)から慶長14年(1609年)にかけて姫路城を大規模に改修する。

慶長11年(1606年)からは姫路城と同時進行で加古川流域の改修も始め、加古川の上流の田高川の河川開発事業や下流域の高砂の都市開発事業を行った。

また、諸大名らと共に、慶長11年(1606年)の江戸城普請、同14年(1609年)の篠山城普請、翌15年(1610年)の名古屋城普請など、天下普請にも従事し、篠山城普請では総普請奉行を務めた。

また慶長14年(1609年)には火災で焼失した伊勢神宮の摩尼殿を再建している。

慶長16年(1611年)3月には、二条城における家康と豊臣秀頼との会見に同席した。

慶長17年(1612年)、正三位参議、および松平姓を許され「松平播磨宰相」と称された。

徳川政権下において、徳川一門以外の大名で参議に任官されたのは輝政が最初である。

また、五男・忠継の備前岡山藩28万石、六男・忠雄の淡路洲本藩6万石、弟・長吉の因幡鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)もの大領を有した。

徳川家との縁組は家格を大いに引き上げ、明治維新に至るまで池田家が繁栄する基盤となった。

慶長17年(1612年)1月に輝政は中風にかかり、3月には徳川秀忠から息子の利隆に4通もの書状が送られている。

8月には回復し駿府、江戸を訪れた。

23日に秀忠に拝謁した際松平氏を賜り参議に奏請された。

参議に任じられたことを謝するため、10月17日に参内し、その後播磨へと帰国した。

慶長18年(1613年)1月25日に姫路にて亡くなる。

死因は中風(『駿府記』)。

享年50。

なお輝政が中風を患ったと本多正純から事情を聴いた家康は、中風の薬として烏犀円を遣わしている。

豊臣秀頼の重臣らが輝政の死を聞いて愕然として「輝政は大坂の押へなり。輝政世にあらん限りは、関東より気遣ひなく、秀頼公の御身の上無事成るべし。輝政卒去の上は大坂は急に亡さるべし」(『埋礼水』)と語ったという逸話がある。

家督は長男(嫡男)の利隆が継いだ。

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