『平岩親吉』(戦国時代)を振り返りましょう

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【時代(推定)】:戦国時代~江戸時代

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■ 概要・詳しい説明

徳川家康と同じ時代を生きた最古参の側近

平岩親吉は、戦国時代のただなかに生まれ、徳川家康が三河の一領主から天下人へと成長していく過程を、幼少期から晩年まで支え続けた武将である。生年は天文11年(1542年)とされ、三河国額田郡坂崎村、現在の愛知県額田郡幸田町周辺で誕生した。幼名は七之助と伝わり、父は松平氏に仕えた平岩親重とされている。家康も同じ天文11年生まれであったため、親吉は単なる家臣というより、主君とほぼ同じ時間を歩んだ幼なじみに近い立場でもあった。家康がまだ竹千代と呼ばれ、織田氏や今川氏の影響下で不安定な少年時代を送っていた頃から付き従ったとされ、松平家が最も弱く苦しい時期を知る数少ない側近の一人となった。

戦国大名の家臣には、合戦で首級を挙げる猛将、領国経営を担う行政官、外交交渉を行う使者など、さまざまな役割が求められた。親吉は、それらのうち一つだけに秀でた人物ではない。戦場では武将として働き、平時には領地を治め、さらに家康の子どもたちを教育し補佐する役目まで任された。目立つ勝利や華やかな逸話によって名を残したというよりも、重要な任務を安心して預けられる人物として評価されたのである。徳川家臣団のなかでも、とりわけ誠実さ、慎重さ、責任感を重んじられた存在だったと考えられる。

人質時代から築かれた徳川家康との深い信頼

親吉が家康から強い信頼を受けた背景には、二人が少年時代の困難を共有したことがある。家康は松平家の後継者でありながら、周囲の強大な勢力に翻弄され、幼くして人質として故郷を離れなければならなかった。親吉は小姓として家康に仕え、その身辺を支えたと伝えられている。後年の家康は、臣下の能力だけでなく、苦難の時期にも離れなかった忠誠心を重く見る傾向があった。親吉が生涯にわたって重用されたのも、少年時代から積み重ねられた信頼が大きかったのであろう。

永禄元年(1558年)頃には、家康の初陣として知られる寺部城攻めに従ったとされる。当時の家康はまだ今川義元の支配下にあり、独立した大名ではなかった。親吉にとっても、この戦いは武将としての出発点になったと考えられる。その後、桶狭間の戦いによって今川義元が討たれ、家康が三河で自立すると、親吉も松平・徳川勢力の拡大に従って活動の範囲を広げていった。家康と同年代でありながら、親吉は主君に対抗するような野心を示さず、常に補佐役として振る舞った。この姿勢こそが、家康から家族同然の信頼を寄せられる理由となった。

後世には親吉を「徳川十六神将」の一人に数える見方もある。十六神将の顔ぶれは史料や伝承によって異なり、厳密に固定された集団ではないが、親吉が徳川家の創業を支えた代表的家臣として認識されてきたことを示している。武勇だけで名を挙げたのではなく、家康の人生そのものに長く寄り添った功臣として記憶されたのである。

徳川信康の傅役として背負った重い責任

親吉の生涯を語るうえで欠かせないのが、家康の長男・松平信康の傅役を務めたことである。傅役とは、主君の子を身近で補佐し、教育や生活指導、家臣団との調整まで担う重要な役職であった。単なる世話係ではなく、将来の当主を育てる責任者に近い。家康が親吉に信康を任せたことは、その人柄と判断力を高く評価していた証拠である。

しかし天正7年(1579年)、信康は母の築山殿とともに武田氏への内通を疑われ、最終的に切腹を命じられた。事件の詳しい経緯には不明な点が多く、織田信長の命令がどこまで直接的なものであったかについても、現在まで議論が続いている。いずれにしても、信康の補佐を任されていた親吉にとって、主君の嫡男を守れなかったことは大きな痛恨であった。

伝承では、親吉は信康を助けるため、自分の首を差し出すことまで申し出たとされる。史料に記された言葉をそのまま事実と断定することは慎重であるべきだが、後世の人々が親吉を、責任を他者へ転嫁せず、自ら引き受けようとする家臣として理解していたことは確かである。信康の死後、親吉は責任を感じて一時的に表舞台から退いたともいわれる。しかし家康は親吉を見捨てず、再び重要な任務へ呼び戻した。信康事件によって両者の関係が完全に断絶しなかったことからも、家康が親吉の忠誠を疑っていなかったことが分かる。

甲斐国の統治を任された行政官としての力量

天正10年(1582年)、武田氏が滅亡し、その直後に本能寺の変が起こると、甲斐・信濃・上野をめぐって徳川氏、北条氏、上杉氏が争うことになった。徳川家康が甲斐国を勢力下に置くと、親吉は甲斐の統治を担う立場に任じられた。武田氏の旧領には、長年武田家に仕えてきた武士や土豪が数多く存在しており、新たな支配者が力だけで押さえ込めば、大規模な反発を招く危険があった。

親吉に求められたのは、旧武田家臣を徳川家の秩序へ組み込み、年貢の徴収、治安の維持、道路や城郭の管理などを進めることであった。こうした任務は、合戦で一時的に勝つことよりも難しい面がある。住民や旧臣の事情を理解しながら、新たな支配体制を受け入れさせなければならないからである。親吉が甲斐郡代や甲府城代として用いられたことは、家康が彼を武勇一辺倒の人物ではなく、領国経営のできる実務家として見ていたことを示している。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の後、家康が関東へ移されると、親吉も上野国厩橋、現在の群馬県前橋市周辺に所領を与えられた。厩橋は関東北部を押さえる軍事・交通上の要地であり、家康の関東支配を安定させるために重要な場所だった。親吉は城と領地を預かり、徳川政権の東国経営を支える役割を果たした。

関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)には、再び甲府城代に任じられ、六万三千石を領したとされる。甲府は江戸の西方を守る要地であり、旧武田領を監視するとともに、東海道や中山道方面から江戸へ向かう勢力への備えにも関係していた。家康が重要地域の統治を繰り返し親吉に託したことから、その行政能力と安定感が高く評価されていたことがうかがえる。

家康の息子たちを支えた「もう一人の父」

親吉は信康の傅役を務めただけでなく、家康の八男・仙千代を養子として迎えたことでも知られる。仙千代は幼くして亡くなったため、平岩家の正式な後継者として成長することはなかったが、家康が実子を家臣の養子に与えた事実は、親吉への信頼の深さを物語る。大名の子を養子として託すことは、政治的な意味を持つと同時に、相手の家柄と人格を認める行為でもあった。

さらに親吉は、家康の九男・徳川義直の補佐役を任された。義直は後に御三家の一つである尾張徳川家の祖となる人物だが、幼少時には自ら政治を執ることができなかった。そのため親吉は、義直を実質的に養育しながら、領国の政務を代行する立場となった。義直にとって親吉は、家臣であると同時に父親に近い存在だったことから、「准父」と表現される場合もある。

慶長12年(1607年)、義直が甲斐から尾張へ移ると、親吉も尾張国犬山へ移され、犬山城と大きな所領を与えられた。犬山は木曽川沿いの交通と軍事の要地であり、美濃方面を監視する役割を持っていた。親吉は犬山城主として地域を守る一方、清洲や名古屋を中心とする尾張藩政にも深く関与した。名古屋城の築城が進められると、幼い義直を支える重臣として、藩の基盤づくりに力を注いだのである。

親吉の立場は、後世の制度でいう付家老に近いものとして説明されることがある。ただし、江戸時代を通じて整備された付家老制度を、そのまま親吉の時代に当てはめることには注意が必要である。それでも、幕府の意向を受けながら幼い藩主を補佐し、尾張藩を安定させる役目を担っていた点では、後の付家老に通じる存在だった。

名古屋で迎えた最期と平岩家の行方

平岩親吉は慶長16年12月30日に没した。旧暦では慶長16年に当たるが、西暦へ換算すると1612年2月1日となるため、資料によって没年が1611年または1612年と表記されることがある。享年は70とされる。死亡原因について明確な記録は乏しいものの、晩年には病を得ていたと伝えられており、名古屋城の二の丸付近で政務に携わっていた時期に容体が悪化したという。

伝承によれば、親吉は義直の城内で息を引き取ることを遠慮し、病身を押して家臣の屋敷へ移ったのちに亡くなったとされる。この逸話がどこまで史実を正確に伝えているかは慎重に見る必要があるが、自分の都合よりも主君への配慮を優先する人物として語り継がれてきたことは注目に値する。最期の場面にまで忠義を示したという物語は、親吉の生涯に対する後世の評価を象徴している。

親吉には家を確実に継承する実子がいなかったとされ、家康の男子である仙千代も早世していた。そのため、親吉の死後、その大名領は独立した平岩家の所領として存続せず、尾張徳川家の領国へ組み込まれていった。一方で、親吉の一族や旧臣の多くは尾張藩士として召し抱えられ、尾張徳川家に仕え続けた。親吉個人の大名家は途絶えても、彼が築いた人脈と家臣団の一部は尾張藩の内部に受け継がれたのである。

また、親吉は『三河後風土記』と呼ばれる軍記・地誌的作品の著者とされることがある。ただし、現在では成立年代や記述内容を含めて疑問も提示されており、親吉本人が全編を書いたと断定することは難しい。親吉の名が著者として結び付けられた背景には、家康の幼少期から徳川家の歩みを知る古参家臣であり、三河武士の記憶を伝えるのにふさわしい人物と考えられた事情があったのだろう。

派手さよりも信頼によって歴史に名を残した武将

平岩親吉の人生を特徴づけるものは、華々しい領土拡張や敵将を討ち取った記録ではなく、家康から繰り返し重要人物と重要地域を預けられた事実である。長男信康の教育、仙千代の養育、義直の後見、甲斐国の統治、厩橋の経営、甲府城代、犬山城主、尾張藩政の補佐など、その役目はいずれも失敗すれば徳川家の将来を左右しかねないものだった。

戦国時代の忠臣というと、主君のために戦場で命を投げ出す姿が想像されやすい。しかし親吉が示した忠義は、それだけではない。幼い主君の子を育て、複雑な土地を治め、異なる立場の家臣をまとめ、政権の土台を静かに整えることもまた、徳川家を支える重要な奉公だった。親吉は、自らが天下の中心に立とうとはせず、家康とその子どもたちが安定して歩めるように足元を固め続けた。

徳川家康の天下統一は、本多忠勝や井伊直政のような勇将だけで成し遂げられたものではない。親吉のように、主君が安心して家族や領国を任せられる家臣がいたからこそ、徳川氏は戦国大名から全国政権へと発展できたのである。平岩親吉は、目立たなくとも欠かすことのできない重臣として、徳川家の創業期と尾張徳川家の成立をつないだ人物だったと評価できる。

■ 活躍・実績・合戦・戦い

寺部城攻めから始まった武将としての歩み

平岩親吉が武将として歩み始めた時期は、松平元康、のちの徳川家康が今川義元の配下で活動していた頃までさかのぼる。永禄元年(1558年)に行われた寺部城攻めは、家康の初陣として知られる戦いであり、親吉も近習の一人として従軍したと伝えられている。寺部城は三河国加茂郡にあった城で、城主の鈴木重辰が今川氏から離反したため、家康が討伐を命じられた。まだ十代だった家康にとっては、武将としての力量を今川氏に示す重要な戦いであり、同年代の親吉にとっても初期の実戦経験となった。

家康軍は寺部城周辺へ火を放ち、敵方を牽制しながら攻撃を進めたとされる。この戦いでは、単純に城を力攻めするのではなく、周囲の拠点や兵站を脅かし、敵の行動を制限する戦術が用いられた。親吉は家康の近くで軍勢の動きや命令伝達を学び、戦国武将として必要な判断力を身につけていったと考えられる。のちに大きな領国を統治する親吉にとって、若い頃に主君のそばで軍事行動の進め方を学んだ経験は大きな財産となった。華々しく敵将を討ち取ったという逸話こそ少ないものの、家康の初陣から付き従ったこと自体が、親吉の家臣団内における古参としての立場を象徴している。

桶狭間の戦い後に始まった三河統一への奉公

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、三河国を取り巻く政治状況は大きく変化した。家康は大高城から岡崎城へ戻り、今川氏から事実上の自立を果たしていく。親吉も家康に従い、松平氏が独立勢力として再出発する過程を支えた。家康が三河国内の諸城や国衆を味方へ引き入れていくなかでは、戦闘だけでなく、旧来の家臣との関係修復、離反勢力への対応、寺社勢力との調整など、多方面にわたる働きが必要だった。親吉は家康の近習として、軍事行動に随行する一方、主君の意向を家臣へ伝える役目も担ったとみられる。

三河統一は、一度の決戦で達成されたものではない。今川方の勢力を排除しながら、各地の豪族を徳川方へ組み込み、地域ごとに異なる利害を調整する長期的な過程であった。親吉のように家康が信頼できる側近は、命令の伝達や人員配置、戦後の秩序回復に欠かせない存在だった。永禄6年(1563年)頃から激化した三河一向一揆では、徳川家臣のなかにも一揆方へ加わる者が現れ、家臣団が二つに分かれるほどの危機となった。親吉がこの争いでどのような個別の軍功を挙げたかは明確ではないが、家康のもとを離れず、徳川方として行動した古参家臣の一人と考えられている。この危機を乗り越えたことで、家康は三河国の支配を固め、親吉も徳川家臣団の中核として信頼を深めていった。

遠江進出と武田氏との激しい攻防

三河国をほぼ統一した家康は、今川氏が衰退した遠江国へ進出した。ところが遠江をめぐっては、甲斐国の武田信玄も南下を進めており、徳川氏と武田氏は次第に対立を深めていった。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、家康軍が武田信玄の大軍に大敗し、徳川氏は存亡の危機に追い込まれた。親吉についても、この時期の徳川軍の一員として軍事行動に従事したと考えられるが、三方ヶ原における具体的な戦闘位置や軍功については、確実な記録が乏しい。

しかし、敗戦後も徳川家を離れず、家康の立て直しを支えたことは重要である。戦国時代の家臣にとって、勝利の際に功績を示すだけでなく、主家が敗北した際に動揺を抑え、組織を維持することも大きな働きだった。武田信玄の死後も、武田勝頼は遠江や三河への攻勢を続けた。天正3年(1575年)の長篠・設楽原の戦いでは、織田・徳川連合軍が武田軍に大打撃を与え、徳川氏はようやく反攻の機会をつかんだ。

親吉は家康の重臣として、この長期的な対武田戦に関わった。親吉の役割は、先陣を切って突撃する猛将型の働きよりも、主君の側近として軍勢を統率し、戦後の地域支配を安定させることにあったとみられる。武田氏との戦いを通じ、親吉は甲斐や遠江の地理、旧武田家臣の気質、城郭の配置などに関する知識を蓄積したと考えられ、それが後年の甲斐統治に生かされることになった。

信康事件で示した責任感と主家への忠節

親吉の経歴において、戦場での敗北以上に深刻な出来事となったのが、天正7年(1579年)に発生した松平信康事件である。親吉は家康の嫡男・信康の傅役を務めており、岡崎城を中心とする信康の家臣団や政務を支える立場にあった。信康が武田氏への内通などを疑われ、最終的に切腹を命じられると、親吉は自分の監督責任を強く感じたと伝えられる。

親吉が自らの首を差し出して信康を助けようとしたという逸話も残されており、後世には忠義と責任感を象徴する話として語られた。信康を救うことはできなかったものの、この出来事における親吉の態度は、主君の命令に従うだけの受動的な家臣ではなく、預けられた人物の運命に最後まで責任を負おうとする性格を示している。事件後、親吉は一時的に蟄居した、あるいは立場を退いたともいわれるが、家康はやがて親吉を再び起用した。これは家康が、信康の死を親吉個人の失敗として断罪せず、その忠誠心と能力を認め続けていたためであろう。親吉にとって信康事件は、生涯消えることのない痛恨だったと考えられる一方、その後も徳川家の子どもたちを支える役目を引き受けたことは、責任から逃げず、再び主家のために働く道を選んだことを意味している。

天正壬午の乱後に任された甲斐国の安定化

天正10年(1582年)、織田信長の軍勢によって武田氏が滅亡すると、甲斐国は織田氏の支配下へ入った。しかし同年6月に本能寺の変が起こり、信長が倒れると、旧武田領では支配者不在の混乱が発生した。徳川家康、北条氏直、上杉景勝らが甲斐・信濃・上野の領有を争った一連の戦いは、天正壬午の乱と呼ばれる。家康は武田旧臣を積極的に受け入れ、甲斐国の支配権を確立していった。

親吉はこの時期、甲斐国の郡代として統治を任された。これは親吉の生涯における最大級の実績である。甲斐には武田氏への忠誠心を持つ旧臣や土豪が多く、強引な支配を行えば反乱が起こる危険があった。親吉は武田氏時代の制度や地域秩序を全面的に破壊するのではなく、利用できる仕組みを残しながら徳川氏の支配へ移行させる必要があった。

年貢の徴収、土地の把握、寺社や村落との交渉、旧武田家臣の知行確認、城や街道の管理など、その仕事は多岐にわたった。軍事的に占領した土地を長期的な領国へ変えるには、住民が新たな支配者の命令に従える環境を整えなければならない。親吉は武将であると同時に行政官として働き、甲斐を徳川氏の重要な領国へと再編した。家康がのちに武田流の軍制や人材を取り入れることができた背景には、親吉ら現地担当者が旧臣との関係を安定させたことも大きく影響している。

豊臣政権下での関東移封と厩橋城主としての働き

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐によって後北条氏が滅亡すると、家康は長年支配してきた三河・遠江・駿河・甲斐・信濃を離れ、関東へ国替えとなった。これは広大な領地を得る一方、旧北条領の統治を一から築かなければならない大事業だった。家康は信頼する家臣を関東各地の要所へ配置し、江戸を中心とする新たな領国経営を開始した。

親吉は上野国厩橋城を与えられ、城主として関東北部の守りを担った。厩橋は利根川水系に近く、上野国の交通や軍事を押さえる重要な場所であった。北方には上杉氏の勢力圏があり、周辺には旧北条方の武士や在地勢力も残っていたため、単なる領地経営だけではなく、軍事的な警戒も必要だった。親吉は城下や農村の秩序を整え、徳川氏の関東支配を安定させる役割を果たした。

関東移封によって徳川家臣団は、それまで縁の薄かった土地を治めることになった。親吉が厩橋を任されたのは、甲斐統治で示した実務能力が評価されたためと考えられる。敵地を奪う武功よりも、獲得した土地を反乱なく治める能力が重視されたのである。

関ヶ原前後に果たした甲府城代としての役割

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、徳川家康と石田三成を中心とする勢力が天下の主導権を争った大決戦である。親吉が関ヶ原本戦でどの部隊を率いて戦ったかについては、著名な武将たちほど明確な記録が残っていない。すでに親吉は家康と同年代の五十代後半であり、前線で敵陣へ突入するより、領地や重要拠点の守備、後方の安定を担う立場にあったと考えられる。

大規模な戦争では、すべての重臣が決戦場に集まるわけではない。敵方の侵入を防ぐ城代、兵糧や伝令を管理する担当者、領内の反乱を警戒する武将がいてこそ、主力軍は安心して遠征できる。親吉の働きは、このような政権全体を支える役割に重点が置かれていた。関ヶ原の戦い後、親吉は甲府城代として甲斐国へ戻り、六万三千石を与えられたとされる。甲府は江戸の西方を守る拠点であるとともに、東海道と中山道の中間地域を監視できる戦略的な場所だった。豊臣方の勢力が完全には消えていない時期に、甲府を任せられたことは、家康が親吉の忠誠と統治能力を極めて高く評価していた証拠である。

犬山城主として支えた尾張徳川家の成立

慶長12年(1607年)、家康の九男・徳川義直が尾張国へ移されると、親吉も甲斐から尾張へ移り、犬山城を預けられた。義直はまだ幼く、大大名として領国を自ら統治できる年齢ではなかったため、親吉は実質的な後見人として尾張藩政を支えた。犬山城は尾張国北端に位置し、木曽川を隔てて美濃国と向き合う軍事上の要地だった。尾張藩の本拠となる名古屋城だけでなく、領国の北方を守る犬山を信頼できる重臣が押さえることで、徳川氏は尾張全体の防衛体制を整えようとしたのである。

親吉は犬山城の守備に加え、義直の家臣団をまとめ、尾張藩の政治組織を整備する役割を担った。当時の尾張には、家康から直接派遣された家臣、義直付きの若い家臣、旧来の在地武士など、異なる背景を持つ人々が集められていた。親吉は家康の意向を理解する最古参家臣として、それらを調整する立場にあった。名古屋城の築城や城下町の整備が進められるなかでも、義直の政権が混乱しないよう監督したと考えられる。親吉が尾張で果たした役割は、一城の守将にとどまらず、御三家筆頭となる尾張徳川家の創業を支える執政に近いものだった。

戦場の武功以上に高く評価された「任せられる力」

平岩親吉の合戦歴を見ると、本多忠勝のような一騎当千の武勇や、井伊直政のような鮮烈な突撃、榊原康政のような敵を圧倒する軍功は目立たない。しかし親吉の価値は、まさに別の場所にあった。家康は親吉に、嫡男信康の教育、甲斐国の統治、厩橋の防衛、甲府城の管理、幼い義直の後見、犬山城の守備といった、長期間にわたり責任を負わなければならない任務を次々と託した。

これらは一度の合戦で首級を挙げれば終わる仕事ではなく、日々の判断を積み重ね、問題が起きる前に対処し続けなければならない役目である。家康にとって親吉は、戦場で敵を倒すための刀というより、政権の重要部分を安心して預けられる柱だった。親吉の実績は、徳川家が弱小勢力だった時代から天下を治める政権へ成長するまで、組織の安定を保ち続けたことにある。戦国時代には、領土を奪う武将だけでなく、奪った土地を治め、次の世代へ引き渡す武将も必要だった。親吉は後者を代表する人物であり、その堅実な働きによって徳川家の長期的な発展を支えたのである。

■ 人間関係・交友関係

徳川家康との関係――幼少期から晩年まで続いた特別な主従

平岩親吉の人間関係を考えるうえで、最も重要なのは徳川家康との結び付きである。親吉と家康はともに天文11年(1542年)の生まれとされ、年齢が同じだった。とはいえ、二人の立場は対等な友人ではなく、あくまでも主君と家臣である。しかし家康がまだ竹千代と呼ばれていた少年期から親吉が側近として仕えたため、その関係には一般的な大名と家臣だけでは説明し切れない親密さがあった。家康は幼少期に織田氏や今川氏のもとで人質生活を経験し、松平家の将来も見通せない不安定な環境に置かれていた。親吉は、その苦難の時代から主君のそばを離れず、家康が三河の独立を成し遂げ、やがて天下人となるまで付き従った。

家康にとって親吉は、能力の高い部下である以上に、自分の弱かった時代を知る古参の家臣だった。勢力が拡大してから仕えた武将とは異なり、松平家が滅亡しても不思議ではなかった頃をともに生き延びている。この共有された記憶が、二人の信頼関係を強固なものにしたと考えられる。家康は人材を使い分けることに優れた武将だったが、誰にでも家族や重要な領国を預けたわけではない。親吉には長男・信康の教育、八男・仙千代の養育、九男・義直の補佐を任せ、さらに甲斐や尾張といった重要地域の統治にも関わらせた。これは、親吉であれば私欲によって徳川家の秩序を乱さず、自分の意向を理解して行動すると確信していたからであろう。

一方の親吉も、家康に対して単に命令へ従うだけではなく、徳川家そのものを守る姿勢を貫いた。主君への忠義とは、戦場で盾になることだけではない。家康の子どもを育て、領国を安定させ、後継者の政権を整えることも、親吉にとっては重要な奉公だった。家康が親吉を繰り返し登用した事実は、二人の関係が一時的な功績ではなく、生涯を通した信用によって成立していたことを示している。

松平信康との関係――傅役として注いだ忠誠と消えない悔恨

家康の長男・松平信康は、親吉の人生に最も大きな影響を与えた人物の一人である。親吉は信康の傅役として、その成長を身近で支えた。傅役は幼い当主候補に学問や礼法、武芸を教えるだけでなく、家臣団の編成や政治判断を補佐し、時には主君と若君の間を取り持つ重責を担った。家康が嫡男の教育を親吉に任せたことからも、親吉の誠実さと慎重な性格が高く評価されていたことが分かる。

信康は勇猛で武将としての力量を期待された一方、気性の激しい人物として描かれる場合もある。ただし、その人物像は後世の軍記や伝承によって形成された部分が大きく、実像を断定することは難しい。親吉は、若い信康が岡崎城を中心に家臣団を率いていくなかで、その行動を支え、家康の後継者として成長させる役目を負っていた。二人の関係は、形式上は傅役と若君だったが、日常的には父子に近い情愛を伴っていた可能性が高い。

天正7年(1579年)に信康が切腹へ追い込まれると、親吉は深い責任を感じたと伝えられる。自分の命と引き換えに信康を救おうとしたという逸話は、親吉の忠義を示す象徴的な物語として残された。親吉が実際にどのような交渉を行ったかは明確ではないものの、傅役として守るべき若君を失った衝撃は計り知れない。親吉にとって信康事件は、政治的な失敗ではなく、長年育ててきた人物を守れなかった個人的な悲劇でもあった。

それでも親吉は徳川家を離れなかった。家康に対して恨みを抱いて反抗した形跡もなく、後年には再び家康の子どもたちを支える立場となっている。信康の死を経験しながら、仙千代や義直の養育を引き受けたことは、親吉が過去の苦痛から逃げず、最後まで徳川家の次世代を守ろうとしたことを意味する。信康との関係は、親吉の忠誠心だけでなく、その内面にある責任感と情の深さを伝えている。

徳川義直との関係――家臣を超えた「准父」としての結び付き

家康の九男・徳川義直と親吉の関係は、平岩親吉の晩年を象徴するものである。義直は尾張徳川家の初代当主となる人物だが、幼少期には独力で領国を治められなかった。そのため家康は、親吉を義直の後見役として配置した。親吉は義直の政務を補佐するだけでなく、日常生活や教育にも深く関わり、実の父に近い存在として接したと考えられている。この立場から、親吉は義直の「准父」と表現されることがある。

家康は晩年、多くの子どもを各地の大名家へ配置し、徳川一門による支配体制を築こうとしていた。なかでも尾張は東海道と中山道を押さえ、江戸と西国の中間に位置する重要な地域だった。そこを任される義直を支える人物には、政治能力だけでなく、家康の考えを正確に理解し、若い藩主を私的に利用しない人格が必要だった。親吉が選ばれたのは、長年の忠節に加え、信康の傅役や甲斐統治で示した経験が評価されたためである。

親吉は甲斐から尾張へ移ると、犬山城を拠点にしながら義直の家臣団をまとめた。尾張藩には家康から付けられた古参家臣、義直直属の若い家臣、地域に根を張る武士などが集められており、利害や経歴は一様ではなかった。親吉はそれらの間に立ち、家康の方針と義直の将来を両立させる役割を果たした。義直から見れば、親吉は厳格な監督者であると同時に、政治の手本を示す保護者でもあった。

親吉が亡くなった際、義直は大きな悲しみを示したと伝えられる。親吉に実子の後継者がいなかったため、その所領は尾張徳川家へ戻されたが、旧臣の多くは引き続き尾張藩へ召し抱えられた。これは親吉の奉公が義直や尾張藩から高く評価されていたことを示す。親吉と義直の関係は、戦国時代の主従関係が血縁に近い情愛へ発展した代表的な例といえる。

仙千代との養父子関係――家康が実子を託した意味

親吉は家康の八男・仙千代を養子として迎えている。仙千代は幼くして亡くなったため、武将として活動した記録や、平岩家の当主として家を継いだ実績は残っていない。それでも、家康が自分の男子を親吉の養子にしたことには大きな意味がある。当時の養子縁組は、家名の存続だけでなく、主君と家臣の結び付きを強める政治的な手段でもあった。

親吉には大名家を継承できる実子がいなかったとされる。家康は長年仕えてきた親吉の家を存続させるため、自分の子を後継者として与えようとしたのであろう。これは親吉を単なる譜代家臣ではなく、徳川一門に近い存在として遇する行為でもあった。家康の息子が平岩家を継げば、親吉の領地と家臣団は将来的にも徳川家と強固に結び付くことになる。

仙千代の早世によって、この構想は実現しなかった。親吉にとっては、信康に続いて家康から託された子を若くして失うことになり、精神的な打撃は大きかったと考えられる。それでも家康との信頼関係が失われることはなく、その後には義直の後見を任されている。仙千代との養父子関係は短期間に終わったものの、家康が親吉を家族に近い存在として認めていたことを示す重要な出来事である。

築山殿との関係――信康事件をめぐる複雑な立場

家康の正室で信康の母である築山殿は、親吉にとって仕える家の奥方であり、同時に傅役として支える若君の実母だった。親吉と築山殿が日常的にどの程度交流していたかを示す確実な記録は多くない。しかし信康を中心に考えれば、両者は無関係ではいられない立場にあった。岡崎城で生活する信康を補佐する親吉は、その母である築山殿の意向や周辺の人間関係にも注意を払う必要があったはずである。

信康事件では、築山殿と信康が武田氏へ通じたという疑いが語られてきた。しかし事件の原因には、織田家との関係、徳川家内部の対立、信康夫妻の不和、家康の後継者政策など複数の要因が考えられ、単純な内通事件として説明することは難しい。親吉は傅役として信康を守る立場にありながら、家康の命令にも従わなければならず、極めて苦しい位置に置かれた。

築山殿が殺害され、信康も切腹したことで、岡崎を中心とする人間関係は大きく崩れた。親吉は事件後に責任を感じて身を退いたとされるが、築山殿や信康を積極的に陥れた人物として語られることはない。むしろ後世には、若君を救えなかったことを悔やんだ忠臣として描かれている。親吉と築山殿の関係を詳しく再現することはできないが、信康事件において親吉が徳川家内部の複雑な対立に巻き込まれたことは間違いない。

本多忠勝・榊原康政・井伊直政ら徳川重臣との関係

平岩親吉は、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、本多正信、大久保忠世らと同じく、徳川家康の天下取りを支えた重臣の一人である。ただし、その役割は彼らとは異なっていた。本多忠勝や榊原康政、井伊直政は戦場での武功によって知られ、軍勢を率いて敵軍を破る働きが目立つ。それに対して親吉は、家康の側近、傅役、城代、領国行政の責任者として力を発揮した。

徳川家臣団は一枚岩ではなく、家柄、出身地、政治姿勢、得意分野によって複数の集団に分かれていた。武断派と行政派、古参家臣と新参家臣、三河以来の譜代と武田氏から加わった旧臣など、内部にはさまざまな違いが存在した。親吉は家康と同年齢の最古参でありながら、他の重臣と激しく権力を争った記録が目立たない。自らの派閥を拡大するよりも、家康から与えられた任務を確実に果たすことを優先したためと考えられる。

本多正信のように政策立案を担う人物とも、親吉は異なる性格を持っていた。正信が家康の参謀として幕府全体の制度や外交に関わったのに対し、親吉は特定の地域や人物を任され、その現場を安定させる実務家だった。両者は方法こそ違うが、家康の政権を武力以外の面から支えた点で共通している。親吉は他の重臣に比べて政治的な自己主張が少なく、調整役として信頼されやすい立場にあったとみられる。

武田旧臣との関係――敵だった人々を徳川家へ組み込む役割

甲斐国を治めた親吉にとって、武田氏の旧臣たちは重要な関係者だった。徳川氏と武田氏は長年にわたり三河・遠江・駿河をめぐって争い、親吉もかつては武田勢を敵として見ていた。しかし武田氏が滅亡すると、家康は旧臣を排除するのではなく、積極的に召し抱える方針を採った。親吉は甲斐郡代や甲府城代として、その受け入れと統制を現場で進める立場にあった。

武田旧臣のなかには、高い軍事能力を持つ一方、新たな主君への服従に不安を抱く者もいた。親吉は彼らの知行や身分を確認し、徳川家臣団へ編入しながら、反乱を防ぐ必要があった。敵対していた者をただ力で抑えるのではなく、能力を評価し、役割を与えることで味方へ変えていく。こうした調整は、相手の名誉や事情を理解しなければ成功しない。

親吉が旧武田領の統治に長く関わったことから、武田家臣の間でも一定の信用を得たと考えられる。家康が武田流の軍制や法制度を取り入れられた背景には、現地の人々と徳川政権を結び付ける親吉らの働きがあった。親吉と武田旧臣の関係は、かつての敵を新たな政権の担い手へ変える戦後処理の一例である。

北条氏・上杉氏など周辺勢力との緊張関係

天正壬午の乱や関東移封の時期、親吉は北条氏や上杉氏など徳川家周辺の有力勢力と間接的に向き合う立場にあった。甲斐国をめぐって徳川家康と北条氏直が争った際、親吉は家康方の支配を現地で確立する役割を担った。親吉自身が北条氏との外交交渉を主導したという記録は乏しいが、甲斐の治安を保ち、旧臣を味方につけることは、北条方の進出を防ぐ軍事行動と同じ意味を持っていた。

その後、親吉が上野国厩橋へ移された時期には、北方の上杉勢力への警戒が必要だった。厩橋は関東北部の要地であり、敵対勢力が関東へ南下する場合の防衛拠点となる。親吉は城主として直接的な戦争だけでなく、周辺の国衆や村落を掌握し、情報を集め、侵攻に備える責任を負った。敵対勢力との関係においても、親吉の役割は派手な決戦より、相手に付け入る隙を与えない安定した領国経営にあった。

家臣・領民との関係――強圧よりも安定を重んじた統治者

親吉が甲斐、厩橋、犬山など異なる土地を任されたことから、家臣や領民との関係を築く能力にも優れていたと考えられる。戦国時代の国替えでは、領主が交代すると年貢制度や土地の権利が変更され、住民の不安が高まりやすかった。新しい領主が旧来の習慣を無視すれば、一揆や逃散を招く危険もあった。親吉は各地で大規模な反乱を起こすことなく統治を続けており、現地の事情を尊重しながら徳川式の秩序を導入したとみられる。

親吉のもとには、三河以来の家臣だけでなく、旧武田系の武士や現地採用の人材も加わっていた可能性がある。異なる背景を持つ者をまとめるには、個人的な好みではなく、公平な基準によって役割を与える必要があった。親吉は私欲の少ない人物として伝えられており、家臣団の利益を自分の権勢拡大に利用しなかったことが、周囲からの信頼につながったのであろう。

親吉の死後、平岩家は大名家として存続しなかったが、多くの家臣が尾張藩に召し抱えられた。これは親吉の家臣団が一定の秩序と能力を備えており、尾張徳川家にとって引き継ぐ価値があると判断されたためである。親吉個人が築いた主従関係は、その死によって完全に失われず、尾張藩の組織へ受け継がれていった。

人間関係から見える平岩親吉の人物像

平岩親吉の人間関係には、権力を求めて他者を押しのける姿勢よりも、預けられた人物や土地を守ろうとする責任感が表れている。家康には幼少期から忠実に仕え、信康には傅役として深い情を注ぎ、仙千代を養子として迎え、義直には父親に近い立場で接した。さらに武田旧臣や尾張の家臣団に対しては、異なる背景を持つ人々を徳川政権の秩序へ組み込む調整役を務めた。

親吉は、誰かとの華やかな友情や激しい対立によって名を残した人物ではない。その代わり、家康が最も大切にする子どもや領国を安心して任せられる関係を築いた。戦国時代において、主君から信頼されることは、単に忠誠を誓うだけでは達成できない。長い年月をかけて誠実な行動を重ね、失敗や悲劇に直面しても責任から逃げない姿勢が必要だった。平岩親吉は、その積み重ねによって徳川家の内部に揺るぎない地位を築いた武将であり、人間関係そのものが最大の功績だったともいえる。

■ 後世の歴史家の評価

華やかな武功よりも「信頼され続けた事実」が評価される武将

平岩親吉に対する後世の評価は、本多忠勝や井伊直政のような勇将に向けられるものとは大きく異なっている。親吉には、一度の合戦で敵軍を壊滅させた、名高い武将を討ち取った、奇策によって大勝利を収めたといった派手な逸話が多く残されているわけではない。そのため、戦国武将を合戦での強さだけから見る場合、親吉は目立ちにくい存在となる。

しかし、徳川家康が長い生涯のなかで親吉に任せた役目を一つずつ確認すると、その評価は大きく変わる。家康の長男・松平信康の傅役、八男・仙千代の養父、九男・徳川義直の後見役、甲斐郡代、甲府城代、厩橋城主、犬山城主、尾張藩政の補佐など、いずれも徳川家の将来に直結する任務ばかりである。戦場で一度功績を挙げた武将であっても、主君の子どもや重要な領国を預けられるとは限らない。

家康が親吉を繰り返し起用した事実は、親吉が能力と忠誠の両面で極めて高い信用を得ていたことを示している。後世の歴史家は、親吉の価値を単純な武功の数ではなく、長期間にわたって重要な任務を失敗なく遂行した安定性のなかに見いだしている。すなわち親吉は、政権を奪い取る場面で輝く武将というより、獲得した領国と次世代の徳川家を確実に守ることのできる武将として評価されているのである。

徳川家康の人物眼を証明する最古参家臣の一人

平岩親吉への評価は、徳川家康の人材登用を考えるうえでも重要である。家康は、勇猛な武将、外交や謀略を得意とする参謀、財政や行政に通じた実務家など、性格も能力も異なる家臣を役割に応じて使い分けた。そのなかで親吉は、特定の一分野において突出した専門家というより、任務全体を安定して運営できる総合型の家臣だったと考えられている。

家康と同年齢であり、幼少期から仕えたという経歴だけを見れば、古参ゆえの情によって重用されたようにも見える。しかし、親吉に与えられた役目の重さを考えれば、単なる昔なじみという理由だけでは説明できない。家康は領国経営や後継者育成に失敗すれば、徳川家の基盤そのものが揺らぐことを理解していた。そのため、親吉の誠実さだけでなく、現実的な判断力、忍耐力、部下をまとめる能力、私欲を抑える姿勢まで総合的に評価していたとみられる。

後世の研究では、親吉の存在を通して、家康が目立つ武将だけでなく、長期的な組織運営に向く人物を見抜いていたことが確認できるとされる。親吉が天下人の側近として最後まで生き残り、家康の子どもたちを託され続けた事実は、家康の人物眼の確かさを示す例でもある。

松平信康事件をめぐる「忠臣像」と史実上の慎重な見方

親吉の人物評価に強い影響を与えているのが、松平信康事件に関する逸話である。親吉は信康の傅役であり、信康が切腹を命じられた際、自らの命と引き換えに若君を救おうとしたと伝えられてきた。この話によって親吉は、主君の子を守れなかった責任を自ら背負おうとした忠臣として描かれている。江戸時代以降の軍記や人物伝では、こうした自己犠牲の姿勢が高く評価され、親吉の誠実さを象徴する場面として広まった。

一方、現代の歴史研究では、信康事件の経緯そのものに不明点が多く、親吉の行動についても伝承をそのまま事実とみなすことには慎重である。信康の処分が織田信長の一方的な命令によるものだったのか、徳川家内部の事情が強く影響したのかについても見解が分かれている。そのため、親吉がどの段階で何を知り、どのような働きかけをしたのかを詳細に再現することは難しい。

それでも、親吉が信康事件の後に家康から完全に排除されず、むしろ後年に再び家康の子どもたちを任された点は重要である。家康が親吉の忠誠や能力に疑念を持っていたなら、仙千代の養父や義直の後見役に選ぶことは考えにくい。後世の歴史家は、伝承の細部を慎重に扱いながらも、親吉が信康事件によって深い責任を感じ、それでも徳川家に仕え続けた人物であった可能性を高く評価している。

武将であると同時に行政官だった点への再評価

従来の戦国史では、合戦の勝敗や武将の勇猛さが注目されやすく、戦後の支配や地域行政は脇役として扱われることが少なくなかった。しかし近年では、戦国大名が領国を維持できた理由を考えるうえで、行政官や城代、郡代の役割が重視されるようになっている。その視点から見ると、甲斐国の統治を任された親吉の実績は非常に大きい。

武田氏の滅亡後、甲斐には旧武田家臣、寺社、土豪、農村共同体など、長年にわたって形成された独自の秩序が残っていた。新たに入った徳川氏がそれを一方的に破壊すれば、反乱や領民の逃亡を招く危険があった。親吉には、旧来の制度を利用しながら徳川支配へ移行させる柔軟さが求められた。

後世の歴史家は、親吉が甲斐郡代や甲府城代に任じられたことを、単なる恩賞ではなく、家康がその行政能力を認めていた証拠とみている。さらに関東移封後の厩橋、尾張移封後の犬山でも要地を任されたことから、親吉は新領国の秩序を整える経験豊富な実務家だったと評価される。親吉の功績は、城を攻め落とすことよりも、城と領地を安定して維持することにあった。戦国から江戸へ移る時代に必要とされた武将像を体現した人物として、その評価は次第に高まっている。

尾張徳川家の成立を支えた功臣としての位置付け

平岩親吉は徳川宗家の創業を支えただけでなく、尾張徳川家の成立にも大きく関わった人物である。徳川義直は家康の九男として尾張国を与えられたが、当時はまだ幼少であり、独力で家臣団や領国を統率できる状況ではなかった。そこで家康は、長年信頼してきた親吉を義直の後見役として配置した。

後世の尾張藩史では、親吉は義直の「准父」とも呼ばれ、家臣の枠を超えた保護者として記憶されている。尾張藩は、のちに御三家筆頭として幕府政治にも大きな影響を与える大藩となった。その初期に家臣団をまとめ、幼い藩主を支え、領国経営の基礎を整えた親吉の役割は、尾張徳川家の歴史を考えるうえで欠かせない。

特に犬山は、美濃との境を押さえる軍事上の重要地域であり、その城を任されたことからも、親吉への信頼の厚さが分かる。親吉の死後、平岩家が独立した大名家として存続しなかったため、尾張藩史のなかでは成瀬氏など後世まで犬山城主を務めた家に比べて目立ちにくい。しかし、尾張藩の創設段階における親吉の働きは、制度が完成する以前の混乱を抑えたという点で高く評価されている。完成した仕組みを受け継いだ人物ではなく、仕組みそのものを整える時期に活動した功臣なのである。

徳川十六神将に数えられることの意味

親吉は、徳川家康の天下取りを支えた代表的家臣として、徳川十六神将の一人に数えられることがある。ただし、徳川十六神将という呼称は家康の存命中に正式な組織として定められたものではなく、後世に徳川家の功臣を顕彰する過程で形成された枠組みである。そのため、誰を十六人に含めるかは資料や時代によって違いがある。

親吉の名が含まれない組み合わせも存在するが、逆に親吉を神将の一人に挙げる伝承が残ったことは、彼が徳川創業期を代表する忠臣と認識されていた証拠といえる。十六神将の多くは戦場での武勇によって知られるが、親吉は忠誠、養育、領国統治、後見といった異なる働きによってその列に加えられている。これは後世の人々が、徳川政権の成立を合戦の勝利だけで説明していなかったことを示している。

家康の子どもと重要地域を守り、政権の継続性を支えた親吉の功績もまた、神将と呼ぶにふさわしい奉公とみなされたのである。親吉を十六神将に含めるかどうかという問題よりも、その候補として長く語られてきたこと自体が、後世における高い評価を表している。

『三河後風土記』の著者説に対する評価

平岩親吉は、徳川家康の事績や三河武士の活動を記したとされる『三河後風土記』の著者として名前を挙げられることがある。この著者説は、親吉が家康と同年齢で、幼少期から徳川家の歩みを見てきた古参家臣であることから、非常にもっともらしく受け取られてきた。親吉ほど徳川家の内情を長期間知る人物であれば、家康の成長や家臣団の出来事を記録できたはずだと考えられたのである。

しかし、作品の成立過程や内容を検討すると、親吉本人が現在伝わる形の全編を執筆したと断定することは難しいとされる。後世の加筆や編集が行われた可能性があり、記述のなかには親吉の死後に形成されたと思われる内容も含まれていると考えられている。そのため現代の研究では、「親吉の著作」と無条件に扱うより、親吉の名を権威として用いて成立した可能性を含め、慎重に検討されている。

ただし、著者説の真偽とは別に、親吉が徳川家の歴史を語るにふさわしい古老と認識されていた点は重要である。後世の人々にとって親吉は、単なる一武将ではなく、家康の苦難と成功を最初から知る生き証人のような存在だったのである。

大名家を残さなかったことが知名度に与えた影響

親吉が本多忠勝や井伊直政ほど広く知られていない理由の一つとして、子孫が大名家として存続しなかったことが挙げられる。戦国武将の記憶は、本人の功績だけでなく、後継者や領地、菩提寺、家に伝わる文書によって長く保存される。井伊家や本多家のように江戸時代を通じて大名として続いた家では、祖先の武功を顕彰する記録や伝承が体系的に残されやすかった。

これに対して親吉は、家康の子である仙千代を養子に迎えたものの早世され、自身の死後に大名としての平岩家は存続しなかった。所領は尾張徳川家へ組み込まれ、家臣たちも尾張藩内へ吸収されたため、独立した家の歴史として親吉の功績を宣伝し続ける主体が弱くなったのである。

この事情から、実際には家康から極めて重い役割を与えられていたにもかかわらず、一般的な知名度では他の徳川重臣に遅れを取ったと考えられる。後世の歴史家は、知名度の低さを功績の小ささと結び付けるべきではないと指摘する。むしろ、大名家を残さなかったために目立ちにくくなった人物として、その働きを改めて掘り起こす必要があると評価されている。

忠義一辺倒では捉えきれない実務家としての実像

江戸時代の人物伝では、親吉は家康への忠義を貫いた模範的な三河武士として描かれることが多かった。主君と同年齢で幼少期から仕え、信康のために命を差し出そうとし、晩年には義直を父親のように支えたという生涯は、忠臣の物語としてまとめやすい。

しかし現代の歴史研究では、親吉を精神的な忠義だけで説明するのではなく、具体的な行政能力を持つ政治家として捉える見方が重視されている。家康が感情だけで重要領国を任せるとは考えにくく、親吉には土地制度、家臣統制、軍事配置、年貢徴収、治安維持などを処理する現実的な能力があったはずである。

また、旧武田領や関東、尾張という環境の異なる地域を任されたことは、特定の土地に依存せず、新たな状況へ適応できる柔軟性を備えていたことを示している。親吉の忠義は、ただ主君を崇拝する感情ではなく、命令を現実の政治へ落とし込み、結果を出す実務によって証明されたものだった。この点から、親吉は古い忠臣像と近世的な官僚像の両方を備えた人物と評価できる。

歴史家から見た最大の功績は「徳川家の継続」を支えたこと

平岩親吉の最大の功績は、特定の一戦に勝利したことではなく、徳川家が世代を超えて存続するための土台を支えたことにある。家康の天下取りだけを考えれば、合戦で敵を破った武将の功績が大きく見える。しかし徳川政権が長期間続くためには、家康の子どもたちが成長し、それぞれの領国で安定した政治を行えるようにしなければならなかった。

親吉は信康、仙千代、義直という家康の息子たちと深く関わり、特に義直を支えることで尾張徳川家の成立に貢献した。また甲斐や厩橋、犬山の統治を通じて、徳川氏が新たに得た領地を確実に政権の一部へ組み込んだ。これらの働きは、天下を取る瞬間よりも、その後の秩序を維持する場面で大きな意味を持つ。

後世の歴史家が親吉を評価する際には、武勇、忠義、行政能力、教育者としての役割を別々に見るのではなく、それらを結び付けて考える必要がある。親吉は剣や槍だけで徳川家を支えたのではなく、人を育て、土地を治め、主君の意志を次の世代へ伝えることで徳川政権の継続を助けた。派手な伝説が少ないからこそ、実際に任された役職と主君からの信頼を丁寧に読み解くことで、その重要性が見えてくる武将なのである。

■ 登場する作品(書籍・テレビ・ゲームなど)

徳川家康を扱う作品で欠かせない古参家臣

平岩親吉は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のように単独で数多くの物語の主人公となってきた人物ではない。しかし、徳川家康の生涯や三河武士団の歩みを描く作品では、家康の幼少期から仕えた古参家臣として登場する機会がある。とりわけ家康の人質時代、松平信康の事件、武田氏滅亡後の甲斐支配、徳川義直の養育、尾張徳川家の成立を扱う物語では、親吉の存在を無視しにくい。

親吉は天下分け目の合戦で華々しく先陣を切る人物というより、家康のそばで命令を受け、誰もが引き受けたがらない役目を黙って遂行する人物として描かれやすい。そのため、作品の中心人物ではなくても、徳川家臣団の信頼関係や家康の人物像を伝えるうえで重要な脇役となる。

創作作品における親吉の描かれ方には、大きく分けて三つの方向性がある。第一は、幼少期から家康と苦楽をともにする親しみやすい幼なじみとしての姿である。第二は、松平信康を守れなかったことに深い責任を感じる忠臣としての姿である。第三は、甲斐や尾張の統治を任される堅実な行政官としての姿である。どの部分を重視するかによって、親吉は陽気で温かな人物にも、苦悩を抱えた悲劇的な人物にも、冷静な実務家にも変化する。目立つ伝説が少ないことは、創作者にとって不利である一方、物語に合わせて人物像を構築できる余地が大きいという特徴にもなっている。

NHK大河ドラマ『どうする家康』での平岩親吉

平岩親吉が現代の視聴者に広く知られるきっかけとなった代表的な作品が、2023年に放送されたNHK大河ドラマ『どうする家康』である。この作品では、徳川家康を松本潤、平岩親吉をお笑いトリオ・ハナコの岡部大が演じた。劇中の親吉は通称の七之助で呼ばれることが多く、家康がまだ弱く未熟だった頃から付き従う三河家臣団の一員として登場する。

『どうする家康』における親吉は、勇猛さや威圧感を前面に出した武将ではなく、温厚で人当たりがよく、家臣団の空気を和らげる人物として表現された。酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、石川数正、本多正信ら個性の強い家臣が並ぶなかで、親吉は家康に寄り添い、苦しい状況でも支え続ける存在となっている。岡部大の柔らかな表情や親しみやすい演技によって、史書のなかでは見えにくい親吉の日常的な人柄が想像しやすくなった。

同作で重要なのは、親吉が単なるにぎやかしの家臣として終わらない点である。松平信康に関わる場面では、傅役として若君を守る責任と、家康の家臣として命令に従わなければならない苦悩が描かれる。普段は場を和ませる人物だからこそ、信康の運命を前にした親吉の悲しみが強く印象に残る構成となっていた。また物語の後半まで家康を支えることで、親吉が一時的な家臣ではなく、長い年月をともに歩んだ古参であることも示されている。

この作品によって、平岩親吉は「徳川十六神将の一人」という知識上の存在から、家康の身近にいた感情豊かな人物として再認識された。武功だけで武将を評価するのではなく、長年にわたって主君の精神を支えた家臣にも焦点を当てた点で、『どうする家康』の親吉像には大きな意義がある。

1983年の大河ドラマ『徳川家康』における登場

平岩親吉は、1983年に放送されたNHK大河ドラマ『徳川家康』にも登場しており、俳優の宗近晴見が演じた。同作は山岡荘八の長編小説を原作とし、滝田栄が演じる徳川家康の生涯を、幼少期から天下人となるまで長い時間をかけて描いた作品である。家康を中心に据えた大河ドラマであるため、三河以来の家臣たちも数多く登場し、親吉も徳川家を支える古参の一人として物語に組み込まれている。

1983年版は、家康を忍耐と熟慮を重ねる人物として描く傾向が強く、家臣たちも主君の天下取りを支える重厚な武士として表現されている。そのなかで親吉は、現代的な親しみやすさを強調した『どうする家康』とは異なり、徳川家の秩序を守る実直な家臣として受け止められる。映像作品は制作された時代によって理想とされる武将像が異なるため、同じ平岩親吉でも印象は大きく変化する。

『徳川家康』と『どうする家康』を見比べると、平岩親吉の映像表現がどのように変わったかを理解できる。前者では重厚な歴史劇を構成する忠臣、後者では家康と感情を共有する幼なじみという側面が強い。どちらも史実上の親吉が持つ忠誠心を基礎としているが、表現方法には約四十年間の時代感覚の違いが現れている。

歴史小説における平岩親吉の役割

歴史小説では、平岩親吉を単独の主人公とした作品は多くないものの、徳川家康や松平信康を扱う物語のなかで重要な脇役となる。とりわけ家康の幼少期から三河統一までを描く作品では、親吉は人質時代から付き従う若い小姓として登場させやすい。読者に家康の孤独や不安を伝えるためには、家康と同じ年頃でありながら家臣として接する親吉の存在が効果的だからである。

信康事件を扱う小説では、親吉はさらに重い役割を与えられる。傅役である親吉の視点を通せば、信康の成長、家康との対立、徳川家内部の緊張を身近な位置から描くことができる。親吉は信康を守りたいと願いながら、家康の決定に背くこともできない。この板挟みは歴史小説に適した葛藤であり、忠義とは何か、主君に仕えるとは何かという主題へつなげられる。

山岡荘八の長編小説『徳川家康』に代表される家康文学では、天下人の決断だけでなく、その決断を支える家臣団の姿も物語の重要な要素となる。親吉のような古参家臣は、家康が苦難を耐え抜く過程を証言する人物であり、若い頃の家康と晩年の家康をつなぐ存在になる。主役ではないからこそ、主人公の変化を最も近くで見続ける観察者として力を発揮するのである。

架空戦記『織田武神伝』に描かれる異なる運命

平岩親吉は、史実とは異なる歴史展開を描く架空戦記にも登場する。桐野作人による『織田武神伝』シリーズでは、織田政権が史実とは異なる形で存続する世界が描かれ、平岩親吉も徳川方の武将として物語に組み込まれている。作中では岡崎城を守って織田軍に抵抗する城将として扱われ、史実とは異なる運命を迎える。

架空戦記における親吉は、史実上の領国行政官という面よりも、徳川家への忠義を貫く城将として描きやすい。史実では家康とともに生き残り、甲斐や尾張の政治を支えた親吉が、別の歴史では徳川家を守るために戦場で命を落とす。このような改変によって、親吉の忠臣としての性格がより劇的に強調される。

架空戦記の魅力は、史実を自由に変更するだけではなく、実在人物が別の状況へ置かれた場合にどのような選択をするかを想像できる点にある。親吉の場合、どのような世界であっても家康を裏切らず、徳川家のために責任を引き受ける人物として描かれやすい。これは後世に定着した親吉の人物像が、それだけ強固であることを意味している。

人物評伝・家臣団研究で紹介される平岩親吉

一般向けの歴史書や人物評伝では、平岩親吉は徳川家康の家臣団を構成する重要人物として紹介される。酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政といった著名な重臣だけでなく、親吉も東海三国時代の家臣団を代表する一人として取り上げられる。この種の書籍では、一人の英雄だけでなく、役割の異なる多数の家臣によって徳川家が支えられていたことが分かる。

親吉を合戦の軍功だけでなく、家康との長年の友情や信頼という角度から見ることで、戦国大名の家臣団が制度だけでは成立しなかったことを理解できる。家康が親吉へ子どもと重要領国を預けた背景を考えると、二人の関係は単なる主従関係以上のものとして解釈できる。

自治体史や地域史でも、親吉は重要な人物である。前橋市の歴史を扱う資料では厩橋への入封、甲府の歴史では甲斐支配、犬山や名古屋の歴史では義直の補佐や犬山城主としての活動が取り上げられる。同じ人物でも地域によって注目される時代が異なり、三河では家康の幼なじみ、甲斐では城代と統治者、前橋では初期の領主、尾張では藩政の基礎を整えた重臣として紹介される。

『三河後風土記』と平岩親吉の名

平岩親吉に関連する書籍として特別な位置を占めるのが、『三河後風土記』または『旧本三河後風土記』と呼ばれる史書・軍記である。この作品は親吉の編著として伝えられる場合があり、徳川家康や三河武士の歴史を知る資料として長く利用されてきた。ただし、現在伝わる内容のすべてを親吉本人が執筆したと断定することは難しく、後世の編集や加筆を含む可能性が指摘されている。

それでも親吉の名が著者や編者として結び付けられたことには意味がある。親吉は家康と同年に生まれ、幼少期から徳川家の出来事を知る人物だった。そのため後世の人々は、三河武士の歴史を語る資格を持つ古参家臣として親吉を見ていたのである。作品の成立事情に疑問が残るとしても、親吉が徳川家の記憶を受け継ぐ象徴となった事実は変わらない。

創作作品に登場する人物としてだけでなく、歴史を記録したとされる側の人物でもある点は、親吉の大きな特徴である。戦いを経験し、領国を治め、若君を養育した人物が、自らの時代をどのように理解していたのかという関心が、『三河後風土記』の著者説を長く存続させたのであろう。

『信長の野望』シリーズにおける能力評価

歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』シリーズにも、平岩親吉は徳川家所属の武将として登場する。作品によって能力値や特性には違いがあるが、多くの場合、武勇を最大の長所とする前線型武将ではなく、政治や政務に適性を持つ実務型武将として設計されている。これは、親吉が甲斐郡代、甲府城代、厩橋城主、犬山城主、尾張藩執政を務めた史実を反映した評価である。

ゲーム内での親吉は、統率や武勇より政務面が高く評価され、領地開発や街道整備に関係する実務的な役割を担える武将として表現されることが多い。猛将が敵部隊を打ち破る一方、親吉は城や郡を整備し、勢力全体を安定させる役に向いている。

位置情報を利用する関連作品でも、親吉は東海地方に関係する徳川方武将として扱われる。戦国武将を実際の地域と結び付けて収集する仕組みでは、三河出身で徳川家康に仕えた親吉の経歴が地域設定へ反映されやすい。

ゲーム内での親吉は、単独で戦局を一変させる最高位の武将として設定されることは少ない。しかし政治能力や忠誠の高さを生かし、徳川勢力を内側から支える役として価値を持つ。この評価は、史実上の親吉が派手な合戦よりも、重要地域の統治と後継者の補佐によって功績を残したことに通じている。

『太閤立志伝V』で体験できる一人の戦国武将としての人生

『太閤立志伝V』および『太閤立志伝V DX』にも、平岩親吉は登場人物の一人として収録されている。このシリーズは大名となって天下統一を目指すだけでなく、武士、商人、忍者、海賊、剣豪など、さまざまな立場から戦国時代を生きられることを特徴としている。親吉も徳川家に仕える武将として登場し、交流や登用の対象となるほか、主人公として異なる人生を歩ませることもできる。

ゲーム内の人物設定では、温厚、義理堅い、無欲といった性格が与えられる傾向があり、史実や後世の伝承における忠臣像が反映されている。権力欲の強い武将ではなく、主君への忠誠を重視し、書物や政務を好む人物として設計されている点も興味深い。これは戦場の豪傑というより、教育や行政を任された親吉の人物像に近い。

親吉を中心に遊ぶ場合、史実どおり徳川家康を支える道だけでなく、プレイヤーの判断によって異なる人生を歩ませることもできる。松平信康をめぐる悲劇を避ける、徳川家から独立する、自ら大名となるなど、史実では実現しなかった展開を作ることが可能である。親吉のように史実では自己主張を抑えた人物ほど、自由度の高いゲームでは大胆な歴史改変を楽しめる。

漫画や学習作品での扱われ方

徳川家康の生涯を描いた歴史漫画や学習漫画でも、親吉が登場する場合がある。ただし、限られたページ数で家康の一生を説明する作品では、酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、本多正信など知名度の高い家臣が優先され、親吉の役割が省略されることも少なくない。親吉が登場するかどうかは、その作品がどの時期を詳しく扱うかによって決まる。

家康の幼少期を丁寧に描く作品であれば、人質生活を支える少年時代の側近として親吉を登場させやすい。信康事件を重視する作品では傅役として、尾張徳川家の成立まで描く作品では義直の後見人として必要になる。一方、関ヶ原の戦いや大坂の陣を中心にした作品では、前線での著名な軍功が少ない親吉は登場機会を失いやすい。

漫画では登場人物の性格を短時間で伝える必要があるため、親吉は実直で穏やかな忠臣、家康の古い友人、信康を思う心優しい傅役といった分かりやすい人物像にまとめられる傾向がある。このような表現は史実を単純化する面もあるが、親吉の名前や役割を幅広い世代へ伝える入り口となっている。

展示・地域資料で出会う実在の平岩親吉

平岩親吉について知る方法は、映像や小説、ゲームだけではない。愛知県、山梨県、群馬県などの博物館、資料館、城郭関連施設では、親吉と関係する古文書や地域史が紹介されることがある。徳川家康から親吉や鳥居元忠へ送られた書状、親吉が他の武将へ送った書状、尾張藩の成立期に関する文書などは、創作作品ではない実在の親吉を伝える貴重な材料である。

映像作品では親吉の感情や会話が創作されるが、古文書からは実際にどのような政治関係のなかで活動していたかを読み取れる。書状の宛先や内容を調べることで、親吉が家康の家族を世話するだけでなく、有力大名や政権中枢と関係する実務を担っていたことが分かる。

甲府城、前橋城、犬山城、名古屋城など、親吉が統治や築城、政務に関わった地域を訪ねることも、一種の歴史作品を体験する方法といえる。親吉を主人公にした大規模な物語が少ないからこそ、複数の土地に残る資料をつなぎ合わせることで、その生涯を立体的に理解できる。

作品によって変化する平岩親吉の人物像

平岩親吉が登場する作品を比較すると、同じ史実から異なる人物像が作られていることが分かる。大河ドラマ『どうする家康』では、家臣団を和ませながら家康を支える親しみやすい七之助として描かれた。1983年の『徳川家康』では、重厚な歴史劇のなかで主君に忠実な三河武士として位置付けられる。歴史シミュレーションゲームでは政治や政務に優れた行政官、武将個人の人生を体験する作品では温厚で義理堅く無欲な人物として数値や性格設定に置き換えられている。架空戦記では、徳川家を守るために戦い抜く忠烈な城将となる。

これらの表現には違いがあるものの、共通しているのは、親吉が家康を裏切らず、与えられた役目へ誠実に向き合う人物として描かれている点である。史実上の親吉に関する個人的な発言や感情を伝える一次史料は限られているため、作品では忠義、温厚、責任感、無欲といった要素を組み合わせて人物像が作られる。

平岩親吉は、強烈な個性によって物語を支配する人物ではない。その代わり、主人公である家康の過去と現在をつなぎ、徳川家の結束や信頼を象徴する役割を果たす。家康が弱かった時代から天下を取った後まで変わらず仕えた親吉がいることで、作品のなかの徳川家康は、孤独な英雄ではなく、多くの家臣との長い関係によって成長した人物として描かれるのである。

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■ IFストーリー(もしもの物語)

もし平岩親吉が松平信康の命を救っていたなら

これは史実ではなく、実在した人物や出来事をもとに組み立てた「あり得たかもしれない物語」である。天正7年(1579年)、徳川家康の長男・松平信康は、武田氏との内通を疑われ、遠江国の二俣城で切腹することになった。信康の傅役を務めていた平岩親吉は、若君を守れなかった責任を痛感し、自らの首と引き換えに助命を願ったと伝えられている。

史実では信康の処分を覆すことはできなかったが、もし親吉が最後の瞬間に別の道を選び、家康を説得して信康の命を救っていたなら、徳川家の歴史はどのように変わっていただろうか。親吉が考えた方法は、信康の無罪を正面から主張することではなかった。織田信長と徳川家康の同盟関係が大きな力を持つ当時、信長の疑念を公然と否定すれば、徳川家そのものが織田家から敵視される危険があったからである。

そこで親吉は、信康を政治の表舞台から完全に消し、世間には切腹したと発表しながら、密かに生かすという危険な策を家康へ進言した。「若殿の命を残す代わりに、松平信康という名は今日限りで死んだことにいたします。二度と岡崎へ戻らず、殿の許しがあるまで刀も家名も捨てていただきます」。親吉の提案を聞いた家康は、長い沈黙の末に条件を受け入れた。信康を助けたいという父親としての情と、織田家との同盟を維持しなければならない大名としての立場。その両方を守れる可能性が、わずかながら残されていたからである。

二俣城から消えた若武者

表向きには、信康は家康の命令に従って二俣城で切腹したことになった。しかし実際には、親吉が信頼する少数の家臣だけを使い、夜のうちに城外へ脱出させていた。信康の代わりに用意された遺体は顔を確認できないよう処置され、葬儀も厳重な監視のもとで行われた。真相を知る者は家康、親吉、二俣城を守る一部の家臣に限られた。

信康は髪を落とし、名を「清岳」と改め、甲斐国に近い山間の寺へ送られた。武将として生きてきた信康にとって、刀を置き、身分を隠して暮らす生活は死に等しい苦痛だった。自分を助けた親吉に対してさえ、「なぜ武士として死なせてくれなかった」と怒りをぶつけた。親吉はその言葉を黙って受け止めたうえで、「生きているかぎり、いつか御父君を助ける道がございます。死ねば忠義を示すことはできても、徳川家を守ることはできませぬ」と答えた。

親吉は信康を甘やかさなかった。武芸を禁じることはなかったが、毎日農民と同じように働かせ、土地を耕し、年貢に苦しむ村人の話を聞かせた。岡崎城で家臣に囲まれて育った信康は、初めて領民がどのような思いで武将を見ているのかを知った。自分の短気な命令によって傷ついた家臣がいたこと、後継者としての誇りが周囲への配慮を失わせていたことにも気付き始める。親吉は傅役として信康を育ててきたが、若君を一度「死んだ者」にすることで、初めて一人の人間として向き合わせることになったのである。

本能寺の変によって開かれた帰還への道

天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、信康を生かしていた最大の障害が失われた。しかし家康は、ただちに信康を復帰させようとはしなかった。世間では信康はすでに死んだ人物であり、突然生還させれば、家康が長年にわたって織田家を欺いていたことが明らかになる。また徳川家の内部では、すでに次男の結城秀康や三男の長丸、後の徳川秀忠を中心とする新たな後継者の秩序が生まれ始めていた。信康の帰還は、家臣団を二つに割る危険を持っていた。

親吉は家康に対し、信康を嫡男として直ちに復帰させるのではなく、正体を伏せたまま甲斐国の平定へ参加させることを提案した。武田氏滅亡後の甲斐では、織田家の支配が崩れ、北条氏、上杉氏、徳川氏が旧領を争っていた。旧武田家臣のなかには、新しい主君に従うべきか迷う者も多かった。

信康は「松平清岳」と名乗り、親吉の配下として甲斐へ入った。寺での生活を通じて民政の重要性を学んだ信康は、以前のように力だけで旧臣を従わせようとはしなかった。武田家の制度をすべて否定せず、土地の事情を知る者を残し、降伏した武士の家族を保護した。その姿勢は旧武田家臣の間で評判となり、正体不明の若武者ながら「徳川方には話の分かる大将がいる」と知られるようになった。親吉は信康の成長を見ながら、かつて岡崎城で果たせなかった教育が、名も身分も失った生活によって完成しつつあることを感じていた。

家康と信康の再会

甲斐の支配が安定した後、親吉は家康へ信康との再会を求めた。夜の甲府で、人払いされた小さな部屋に父と子は向き合った。家康が最後に見た信康は、怒りを抑えられず、自分の正しさを疑わない若者だった。しかし目の前に現れた信康は、日に焼けた顔に深い落ち着きを備え、父へ恨みをぶつけることもなかった。

「父上の御命令によって、私は一度死にました。されど、その死によって初めて、徳川家の外から徳川家を見ることができました」。信康はそう語り、後継者の座を返すよう求めなかった。家康もまた、父として信康に謝罪するのではなく、大名として問いかけた。「それでも、わしに仕えられるか」。信康は答えた。「松平信康としてではなく、一人の家臣としてならば」。

この再会によって、二人の関係は父と嫡男から、主君と一人の武将へ変わった。家康は信康の生存を公表せず、「松平清岳」という名のまま甲斐の一部を任せることにした。親吉は甲斐郡代として信康を監督しながら、旧武田家臣を徳川軍へ組み込んだ。信康の存在を知る者は依然として少数だったが、徳川家のなかに、表向きの後継者とは別の強力な支柱が生まれたのである。

小牧・長久手で見せた親吉と信康の連携

天正12年(1584年)、徳川家康は羽柴秀吉と小牧・長久手で対峙した。徳川軍は兵力で劣りながらも、地形と情報を利用し、秀吉方の別働隊へ大きな打撃を与えた。この戦いで信康は、親吉の配下にいる無名の将として参加した。

かつての信康であれば、自ら先陣を切って敵へ突撃しただろう。しかしこの時の信康は、軍功を独占しようとせず、部隊同士の連絡と退路の確保を優先した。敵を深追いしようとする若い武将を止め、「一度の勝利で戦は終わらぬ。兵を生きて帰す者が、次の勝利を得る」と諭した。その言葉は、親吉が長年にわたって信康へ教え続けた考えでもあった。

長久手で徳川方が勝利すると、家康は信康の働きを認めたが、功績を公にすることはできなかった。親吉は不満を口にする信康へ、「名を残すことが奉公ではございませぬ。徳川家が残れば、それが殿の御功績となります」と語った。信康はその言葉を受け入れ、表舞台に出ない武将として家康を支える道を選んだ。親吉自身が歩んできた、華やかな名声より信頼を重んじる生き方を、信康も受け継いだのである。

秀忠との対立を防いだ親吉の決断

豊臣秀吉が天下を統一し、家康が関東へ移される頃になると、徳川家の正式な後継者は徳川秀忠に定まりつつあった。信康が生きていることを知れば、秀忠の立場は大きく揺らぐ。年長で武将としての経験も豊富な信康を支持する家臣が現れれば、徳川家が兄弟の争いによって分裂する可能性があった。信康自身は後継者の座を求めなかったが、本人の意思だけで争いを止められるとは限らない。

親吉は家康へ、信康の存在を秀忠にだけ明かすよう進言した。秘密を抱えたまま家康が亡くなれば、後になって真相が発覚した際、秀忠が信康を反逆者として処分する恐れがあったからである。家康、秀忠、信康、親吉の四人は江戸城で密かに会談した。秀忠は、生きていた兄を前にして大きく動揺した。自分が後継者に選ばれたのは兄が死んだからにすぎず、本来の当主は信康ではないかと考えたのである。

しかし信康は秀忠の前で刀を置き、「私は松平信康として死んだ。徳川家の次の当主は、そなたである」と告げた。そのうえで、自分は甲斐と関東西部の守りを担い、秀忠の政権を支えると誓った。親吉は二人の間に血判状を作らせるのではなく、互いに直接言葉を交わさせた。形式的な誓約より、兄弟が相手の本心を知ることが重要だと考えたからである。この会談によって徳川家の内部分裂は避けられ、信康は表に出ない後見者、秀忠は正式な後継者という役割が定まった。

関ヶ原の戦いで変わった徳川秀忠の運命

慶長5年(1600年)、石田三成らが挙兵すると、家康は東軍を率いて西へ向かった。史実では秀忠の軍勢は中山道を進み、上田城で真田昌幸・信繁親子の抵抗を受けたことで関ヶ原本戦に遅参している。しかしこの物語では、家康は秀忠軍に信康と親吉を加えていた。

信康は上田城を力攻めしようとする若い将を制止し、城攻めに時間を使うことの危険を指摘した。親吉もまた、真田方の目的は勝利ではなく秀忠軍を足止めすることだと見抜き、上田城に監視部隊だけを残して主力を前進させるよう進言した。秀忠は二人の意見を受け入れ、中山道を急いだ。

その結果、秀忠軍は関ヶ原の戦いが始まる前に美濃へ到着した。三万を超える徳川主力が予定どおり布陣したことで、東軍の優勢は早い段階から明確となり、西軍諸将の動揺も史実以上に大きくなった。戦いは短時間で決着し、東軍の損害も少なく抑えられた。

家康は戦後、秀忠の判断を高く評価したが、秀忠は「兄上と親吉がいなければ、私は上田で時を失っておりました」と正直に告げた。この経験によって秀忠は、信康を後継者の座を脅かす兄ではなく、自分の未熟さを補ってくれる存在として信頼するようになった。親吉もまた、二人の兄弟が協力する姿を見て、信康を救った自分の判断がようやく徳川家の未来へ結び付いたことを実感した。

江戸幕府に生まれた「表の将軍」と「影の守護者」

関ヶ原の戦い後、家康が征夷大将軍となって江戸幕府を開くと、信康の扱いが再び問題となった。長年隠されてきたその存在を公表すれば、徳川家が織田家を欺いていた過去まで明らかになる。しかし織田信長も豊臣秀吉もすでに亡く、徳川家に正面から異議を唱えられる勢力は少なくなっていた。

家康はついに、信康が生きていたことを徳川家の主要な大名へ明らかにした。ただし、信康を将軍後継者には戻さず、「岡崎大納言」という新たな立場を与え、甲斐と信濃の一部を守る徳川一門の大名とした。秀忠が江戸で政務を行い、信康が西方から江戸を守る。二人が互いを補う体制を作ることで、家康は幕府の安定を図ったのである。

親吉は信康の家臣として移ることを望んだが、家康はそれを認めなかった。親吉には、幼い徳川義直を支え、尾張徳川家を整えるという新たな任務があったからである。信康は親吉との別れに際し、「私は二度、そなたに命を与えられた。一度は二俣で、もう一度は人として生きる道を教えられた時だ」と語った。親吉は頭を下げ、「殿が生き方を変えられたのは、殿御自身の力にございます」と答えた。二人の傅役と若君としての関係はここで終わり、互いに徳川家の一翼を担う武将として別々の道を歩むことになった。

尾張で育てた新たな徳川家

親吉は尾張国へ移り、犬山城を預かりながら徳川義直の後見役となった。この世界では信康が生存しているため、義直は幼い頃から、自分には二人の大きな兄がいることを知っていた。一人は将軍となる秀忠、もう一人は一度死者となりながら徳川家を支え続けた信康である。親吉は義直に、兄たちのどちらか一方を手本とするのではなく、秀忠の秩序を守る力と、信康の失敗から学ぶ強さの双方を身につけるよう教えた。

義直が自分の血筋を誇り、家臣へ厳しく当たった時には、親吉はかつての信康の姿を重ねた。「御身が偉いのではございませぬ。御身に領地と家臣を託した大御所様の御判断が重いのでございます」。親吉の厳しい言葉に、義直は反発することもあった。しかし親吉は、若君に嫌われることを恐れなかった。信康を育てた際には、主君の嫡男という立場へ遠慮し、厳しく諫める機会を逃したという後悔があったからである。

義直は成長するにつれ、親吉が自分を抑え付けようとしているのではなく、領民と家臣を守れる大名へ育てようとしていることを理解した。尾張藩は、家康の命令を受けるだけの支藩ではなく、幕府を支えながら独自の学問と政治を重んじる国へ発展していった。

親吉の最期に集まった家康の息子たち

慶長16年(1611年)の末、親吉は名古屋で病に倒れた。すでに高齢であり、自分の死期が近いことを悟っていた。知らせを受けた義直はもちろん、江戸から秀忠、甲斐から信康も使者を送り、家康自身も駿府から親吉の容体を尋ねた。信康は密かに名古屋を訪れ、病床の親吉と再会した。若き日に怒りと誇りに満ちていた信康は、今では白髪を交えた老将となっていた。

「七之助、そなたがいなければ、私は二俣で終わっていた。秀忠とも争い、徳川家を割っていたかもしれぬ」。信康の言葉に、親吉は静かに首を振った。「私は殿を逃がしただけにございます。生き残った後、何を選ばれたかは殿御自身の御働きでございました」。

義直は二人の会話を聞き、自分の准父が背負ってきた秘密と苦悩の重さを初めて知った。親吉は最期に、信康と義直へ同じ言葉を残した。「徳川という名を守るのではなく、徳川の世で生きる人々を守られませ。家は、人を守るためにあるものにございます」。

親吉はその夜、静かに息を引き取った。家康はその死を聞き、「わしの幼き日を知る者が、また一人去った」と深く嘆いた。信康は親吉の菩提を弔う寺を甲斐に建て、義直は尾張に残った平岩家の家臣を召し抱えた。大名としての平岩家は残らなかったが、その教えは徳川一門のなかに受け継がれていった。

信康が生きた世界で変わる大坂の陣

親吉の死から数年後、徳川家と豊臣家の緊張は頂点に達した。慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が始まると、信康は甲斐・信濃の軍勢を率いて徳川方へ加わった。信康は豊臣秀頼を討ち取ることだけが解決ではないと考え、秀忠へ和睦を進言した。自分自身が父の政治判断によって死者にされた経験を持つ信康は、若い当主を排除することが、後世に大きな恨みを残す危険を理解していたのである。

信康は豊臣家を一大名として西国へ移し、秀頼の命を残す案を示した。秀忠は強硬派の反対を受けながらも、兄の提案を採用した。豊臣家は大坂城を退去し、幕府の監視下に置かれながら存続した。これにより大坂夏の陣は起こらず、多くの武将と町人の命が失われずに済んだ。

徳川幕府は豊臣家を滅ぼした政権ではなく、武力を持ちながら最後には共存を選んだ政権として出発することになる。信康が助けられた経験が、さらに秀頼の命を救う決断へつながったのである。親吉が二俣城で選んだ小さな偽装は、三十年以上の時を経て、天下の戦乱を一つ減らす結果を生み出した。

平岩親吉が歴史に残したもう一つの功績

この世界の平岩親吉は、史実以上に有名な武将となったわけではない。信康を救った真相は長く幕府の秘密とされ、公に語られることもなかった。表向きの親吉は、史実と同じように甲斐郡代、厩橋城主、甲府城代、犬山城主、義直の後見役を務めた忠実な家臣として記録された。しかし徳川家の内部では、親吉こそが家康の子どもたちを結び付け、兄弟の争いを防いだ人物として尊敬された。

もし親吉が信康を見捨てていれば、信康は二俣城で命を失い、秀忠は関ヶ原に遅れ、義直は親吉から過去の失敗を学ぶこともなかった。もし親吉が信康を利用して家中で権力を握ろうとしていれば、徳川家は後継者争いによって分裂した可能性もある。親吉が選んだのは、自分が表舞台に立つ道ではなく、救った者を正しい方向へ導き、必要な時に身を引く道だった。

戦国時代の英雄は、敵を討ち、大軍を率いた者だけではない。死ぬはずだった一人を生かし、その人物が別の誰かを救う未来を作った者もまた、歴史を動かす英雄になり得る。このIFストーリーにおける平岩親吉は、刀によって天下を変えたのではなく、一つの命を諦めなかったことで、徳川家と日本の未来を静かに変えた武将なのである。

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