【時代】 戦国時代 – 江戸時代初期
【生誕】 不明
【死没】 慶長9年6月26日(1604年7月22日)
【改名】 長重→景持
【官位】 近江守(受領名)
【主君】 上杉謙信→景勝
【氏族】 甘粕氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。

上杉氏の家臣で上杉四天王、越後十七将の一人。

越後国飯塚桝形城主、越後三条城主。

生年については、現存する家系図の中に記述がなく不明(『甘粕近江守家系図』『清和源氏甘粕家家譜』『源姓天河瀬氏系譜』)。越後上杉氏に仕え、桝形城や三条城の城主であったといわれるが、領有の経緯や真偽については不明な点が多く、『温故の栞』『越後古城記』『飯塚村誌』『上杉謙信伝(布施秀治著)』に景持の居城であったと記されるなど古くからの伝承がある一方、『甘粕近江守家系図』『清和源氏甘粕家家譜』『源姓天河瀬氏系譜』では、三条城将であったとしか記されていない。

江戸時代の書物「信濃のさざれ石」には、天文16年(1547年)10月、主君である長尾景虎が髻山に城を築く際に、完成するまでの仮の砦として、長野県長野市豊野近辺に景持が三日城を築城したと言われている。

初名は長重であったが、景虎から偏諱を受け景持と改名した。

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永禄2年(1559年)、上洛していた景虎が帰国した際に、越後の諸将は景虎の壮挙を祝して太刀を贈ったが、景持も「披露太刀之衆」の一人として金覆輪の太刀を進呈している。

永禄3年(1560年)、景虎による関東管領・上杉憲政を奉じた関東出陣に従い、北条氏康の籠る小田原城攻撃にも従軍した。

また、景虎が関東管領職と上杉の名跡を継承した際には、宇佐美定満・柿崎景家・河田長親と共に鎌倉鶴岡八幡宮で御先士大将を務めている。

長尾景虎改め上杉政虎(謙信)は、永禄4年(1561年)8月、川中島に出陣して甲斐国の武田信玄と対峙した(第四次川中島の戦い)。

この戦いで景持は殿軍を承り、千曲川に布陣して妻女山から下ってくる武田軍の別働隊と激戦を繰り広げた。

そのため武田軍では、謙信自ら殿軍となったと勘違いした者が多かったという。

また景持について、『甲陽軍鑑』では「謙信秘蔵の侍大将のうち、甘粕近江守はかしら也」、『松隣夜話』では「勇気知謀兼備せる侍大将」と激賛している。

なお、この戦いの帰途の際に、上杉本陣に祀り、謙信自ら戦勝祈願の護摩を厳修したと伝えられる不動明王立像を柿崎景家・直江景綱と共に現在の長野県須坂市にある米子不動尊の本尊として安置したという。

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謙信没後は上杉景勝に仕えた。

天正10年(1582年)、新発田重家の乱に際して、景勝から三条城将(6千石、含む同心分)に命じられ、木場城の補佐や新潟城・沼垂城攻略にあたり、城攻撃の兵站基地を守備する重責を担った。

天正14年(1586年)8月18日、新発田征伐に際して第二陣に加わり、鉄砲大将として笠堀に布陣、河田憲親・高梨薩摩守・千坂対馬守・竹俣房綱らと共に敵将を討ち取る戦功をあげる。

のちに景勝から戦功を賞賛され感状を受ける。

文禄4年(1595年)、家老・直江兼続の命により、上松弥兵衛と共に蒲生郡出雲田庄、大槻庄、保内の検地奉行となる。

上杉氏が慶長3年(1598年)の会津若松、慶長6年(1601年)の米沢の2度の移封に従い、1千1百石を領した。

また、慶長7年(1602年)には米沢に天正寺を開基した。

慶長9年6月26日(1604年7月22日)、米沢にて死去。

曹洞宗竜言寺に葬られた。

現在は、甘粕氏の歴代の墓は、栄松寺(廃寺)にある。

なお、子孫は代々米沢藩士として仕えた。

主に山形県・東京都・愛知県に現存している。

甘粕事件で知られる甘粕正彦も子孫である。

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