【時代】 戦国時代 – 安土桃山時代
【生誕】 天文3年(1534年)
【死没】 文禄2年(1593年)
【別名】 織田信重、織田信勝、左馬允(通称)、外峯四郎左衛門、津田四郎左衛門尉
【官位】 従五位下・隼人正
【主君】 織田信長→豊臣秀吉
【氏族】 津田氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名・茶人。

織田氏の一族である。

名は信勝または信重と伝わる。

通称は左馬允、後には隼人正。

『織田系図』では、父は織田刑部大輔で中川重政の弟、織田信長の叔父・織田信次の孫とされるが、年代的に疑問という見解もある。

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早くから信長に仕え、信長の尾張国統一に協力した。

天文21年(1552年)、信長と織田信友が争った萱津の戦いでは、坂井五郎を討ったという。

弘治2年(1556年)の信長と織田信行(信勝)の争った稲生の戦いでは、柴田勝家配下の鎌田勘之丞を討ったという。

それらの功績により黒母衣衆の一員となった。

永禄12年(1569年)からは信長の命令で足利義昭の守備を任されている。

ところが、兄・重政と長光寺城主・柴田勝家との領地が入り組んでいたために抗争が起き、盛月は勝家の代官を斬り、兄と共に改易となった上で追放された。

後に羽柴秀吉に召されて姫路に至り、「外峯四郎左衛門」と名を改めてこれに仕えた。

以後、秀吉の下で備中攻めなどで戦功を挙げた。

秀吉の許にいるのが信長に露見し、切腹させられるところであったが、本能寺の変によって命拾いしたという。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参加し、その功績により従五位下、隼人正に叙任され、津田姓に改める。

この戦いで弟・木下雅楽助が討ち死にしている。

戦後、家康と秀吉妹・朝日姫との縁談をまとめたのは、蜂須賀正勝と盛月の功績によるという。

[sengoku-3]

天正15年(1587年)の九州平定にも参加し、秀吉から所領を与えられて3万5千石の大名となった。

天正18年(1590年)7月に真田氏の領土だった沼田城を小田原北条氏に引き渡す際、富田一白、榊原康政と共に立ち合いを行った。

10月、後北条氏の北条氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が起きた際、富田一白と共に関係者の引き渡し・処罰を求める上使として北条氏に派遣された。

この件を北条氏が拒否し、一旦は融和しつつあった秀吉と北条氏の関係が完全に決裂し、北条氏追討(小田原攻め)へと繋がった。

文禄2年(1593年)に伏見にて死去した。

享年58。

跡を長男の信任が継いだ。

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