【時代】 戦国時代 – 江戸時代前期
【生誕】 天文10年(1541年)
【死没】 寛永3年2月6日(1626年3月4日)
【改名】 義親→不説斎(号)
【別名】 結城義親、白河義親、不悦斎、隆綱
【官位】 上野介、左衛門佐、従五位下
【主君】 結城晴綱→義顕→佐竹義重→伊達政宗
【氏族】 小峰氏→白河結城氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。

白河結城氏12代・仙台白河家初代当主。

天文10年(1541年)、誕生。

永正の変により断絶していた白河結城氏の庶流である小峰氏を継いでいた。

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主君である白河結城氏10代当主・結城晴綱が病により当主としての活動が困難になると、家中の実権を握るようになる。

天正元年(1573年)に晴綱が病死し、その子で幼少の義顕が家督を継ぐと後見人となるが、天正3年(1575年)に家老の和知美濃守と謀って義顕を追放し、結城(白河)姓を名乗って自らが白河結城氏の当主となった。

謀反の原因は、自身の野心によるものとも、岳父の蘆名盛氏に唆されたためともいわれるが、真意の程は不明。

ところが、後ろ盾としていた蘆名氏は二階堂氏、田村氏と争い混乱を極め、そのような中で白河結城氏は佐竹氏からの侵攻に遭ったため、その臣下として屈した。

しかし、天正5年(1577年)7月、蘆名氏・田村氏が佐竹氏が南方から北条氏政に攻められたのに乗じて白河城を攻め落とすと、義親が再び白河家の実権を掌握した。

その後の講和条件によって天正7年(1579年)に佐竹義重の次男・義広を養子に迎え、義親は入道して不説斎と号し、佐竹氏に恭順の意を示して義広の後見人となり、白川(白河)の名跡は義広が継いだ。

その義広が、天正15年(1587年)に蘆名氏を継いだため、再び義親が白河結城氏の当主となった。

なお、天正10年(1582年)には蘆名盛隆の斡旋で、追放した義顕が白河に帰参したが、あくまで義親の臣下という位置づけであった。

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その後は佐竹氏に従って人取橋の戦いや郡山合戦などに従軍したが、天正17年(1589年)に蘆名氏が伊達氏に滅ぼされると佐竹氏に見切りをつけ、伊達政宗に服属した。

天正18年(1590年)の豊臣氏による小田原征伐において、政宗から小田原への参陣を止められていたため、政宗に託して豊臣秀吉に貢物を贈ったが、秀吉からは参陣しなかったために許されず、所領を没収され改易となった(奥州仕置)。

以後、所領回復を願って会津の蒲生氏郷を頼るも、願いはかなわず諸国を放浪していたが、慶長6年(1601年)、伊達政宗に召し抱えられ、子孫はのち伊達一門に列せられ、仙台藩士となった。

義親は嫡子がいなかったため、弟・義名の子である白河義綱を養子にした。

晩年は政宗に厚遇されたという。

元和5年(1619年)、79歳で家督を義綱に譲り隠居した。

寛永3年(1626年)2月6日、死去。

享年86。

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