【時代】 戦国時代 – 江戸時代初期
【生誕】 天文3年4月22日(1534年6月3日)
【死没】 慶長15年8月20日(1610年10月6日)
【改名】 三淵万吉 → 細川万吉(幼名) → 藤孝 → 長岡藤孝 → 幽斎玄旨(号)
【別名】 与一郎(通称)
【官位】 従五位下兵部大輔、従四位下侍従、大蔵卿法印、贈正二位
【主君】 足利義輝 → 義昭 → 織田信長 → 豊臣秀吉 → 徳川家康
【氏族】 三淵氏 → 細川氏(細川刑部家) → 長岡氏 → 肥後細川氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、戦国大名、歌人。

幼名は万吉(まんきち)。

元服して藤孝を名乗る。

雅号は幽斎。

法名を玄旨という。

初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は織田信長の協力を得て15代将軍・足利義昭の擁立に尽力した。

後に義昭が信長に敵対して京都を追われると、信長に従って名字を長岡に改め、丹後国宮津11万石の大名となった。

本能寺の変の後、信長の死に殉じて剃髪して家督を忠興に譲ったが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。

また、二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。

剣術等の武芸百般、和歌・茶道・連歌・蹴鞠等の文芸を修め、さらには囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深く、当代随一の教養人でもあった。

剣術は塚原卜伝に学び、波々伯部貞弘、吉田雪荷から弓術の印可を、弓馬故実(武田流)を武田信豊から相伝されるなど武芸にも高い素質を示した。

膂力も強く、京都の路上で突進してきた牛の角をつかみ投げ倒したという逸話もある。

また、息子・忠興と共に遊泳術にも優れたという。

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天文3年(1534年)4月22日、三淵晴員の次男として京都東山にて誕生。

天文9年(1540年)、7歳で和泉半国守護細川元常(三淵晴員の兄とされる)の養子となったという。

しかし、晴員と共に12代将軍・足利義晴の近臣であった細川晴広を養父と見る説も近年有力視されている。

天文15年(1546年)、13代将軍・義藤(後の義輝)の偏諱を受け、藤孝を名乗る。

幕臣として義輝に仕え、天文21年(1552年)に従五位下兵部大輔に叙任される。

永禄8年(1565年)に義輝が三好三人衆に討たれ(永禄の変)、その弟の一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)が興福寺に幽閉されると、兄三淵藤英を始め一色藤長、和田惟政、仁木義政、米田求政らと協力してこれを救出し、近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って義昭の擁立に奔走した。

当時は貧窮して灯籠の油にさえ事欠くほどで、仕方なく社殿から油を頂戴することもあるほどだったという。

その後、明智光秀を通じて尾張国の織田信長に助力を求めることとなる。永禄11年(1568年)9月、信長が義昭を奉じて入京し、藤孝もこれに従った。

藤孝は山城国勝竜寺城(青竜寺城)を三好三人衆の岩成友通から奪還し、以後大和国や摂津国を転戦した。

義昭と信長の対立が表面化すると、元亀4年(1573年)3月、軍勢を率いて上洛した信長を出迎えて恭順の姿勢を示した。

義昭が信長に逆心を抱く節があることを密かに藤孝から信長に伝えられていたことが信長の手紙からわかっている。

義昭が追放された後の7月に桂川の西、山城国長岡(西岡)一帯(現長岡京市、向日市付近)の知行を許され、名字を改めて長岡 藤孝と名乗った。

8月には池田勝正、三淵藤英と共に岩成友通を山城淀城の戦い(第二次淀古城の戦い)で滅ぼす功を挙げ、以後は信長の武将として畿内各地を転戦。

高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐のほか、山陰方面軍総大将の明智光秀の与力としても活躍した(黒井城の戦い)。

天正5年(1577年)、信長に反旗を翻した松永久秀の籠る大和信貴山城を光秀と共に落とした(信貴山城の戦い)。

天正6年(1578年)、信長の薦めによって嫡男忠興と光秀の娘玉(ガラシャ)の婚儀がなる。

光秀の与力として天正8年(1580年)には長岡家単独で丹後国に進攻するが、同国守護一色氏に反撃され失敗。

後に光秀の加勢によってようやく丹後南部を平定し、信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められて宮津城を居城とした(北半国である中郡・竹野郡・熊野郡は旧丹後守護家である一色満信(義定)の領有が信長から認められた)。

甲州征伐には一色満信と共に出陣。

余談となるが、同年正月12日付の信長から藤孝宛ての黒印状にて、尾張国知多半島で取れた鯨肉を信長が朝廷に献上したうえで、家臣である藤孝にも裾分けする旨を述べている。

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天正10年(1582年)に本能寺の変が起こると、藤孝は上役であり、親戚でもあった光秀の再三の要請を断り、剃髪して雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)とし、田辺城に隠居、忠興に家督を譲った。

同じく光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断り、軍事力的劣勢に陥った光秀は山崎の戦いで敗死した。

『老人雑話』には「明智(光秀)、始め(は)細川幽斎の臣なり」とあり、両者の出自の上下関係は歴然としていることから、幽斎には光秀の支配下に入ることを潔しとしないところがあったとする説がある。

一方、丹波半国の一色氏は明智方に加担した。

秀吉の命を受けた細川氏は同年9月に一色義定を謀殺し、弓木城など一色氏の領土を併合した。

前出のように一色義定は藤孝の娘婿であった。

その後も羽柴秀吉(豊臣秀吉)に重用され、天正14年(1586年)に在京料として山城西ヶ岡に3000石を与えられた。

天正13年(1585年)の紀州征伐、天正15年(1587年)の九州平定にも武将として参加した。

また、梅北一揆の際には上使として薩摩国に赴き、島津家蔵入地の改革を行っている(薩摩御仕置)。

この功により、文禄4年(1595年)には大隅国に3000石を加増された(後に越前国府中に移封)。

幽斎は千利休や木食応其らと共に秀吉側近の文化人として寵遇された。

忠興(三斎)も茶道に造詣が深く、利休の高弟の一人となる。

一方で徳川家康とも親交があり、慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると家康に接近した。

慶長5年(1600年)6月、忠興が家康の会津征伐に丹後から細川家の軍勢を引きつれて参加したため、幽斎は三男の細川幸隆と共に500に満たない手勢で丹後田辺城を守る。

7月、石田三成らが家康討伐の兵を挙げ、大坂にあった忠興の夫人ガラシャは包囲された屋敷に火を放って自害した。

田辺城は小野木重勝、前田茂勝らが率いる1万5000人の大軍に包囲されたが、幽斎が指揮する籠城勢の抵抗は激しく、攻囲軍の中には幽斎の歌道の弟子も多く戦闘意欲に乏しかったこともあり、長期戦となった(田辺城の戦い)。

幽斎の弟子の一人だった八条宮智仁親王は7月と8月の2度にわたって講和を働きかけたが、幽斎はこれを謝絶して籠城戦を継続。

使者を通じて『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上した。

ついに八条宮が兄後陽成天皇に奏請したことにより三条西実条、中院通勝、烏丸光広が勅使として田辺城に下され、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日、勅命による講和が結ばれた。

幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて9月18日に城を明け渡し、敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入った。

忠興は関ヶ原の戦いにおいて前線で石田三成の軍と戦い、戦後豊前国小倉藩39万9000石の大封を得た。

この後、長岡氏は細川氏に復し、以後長岡姓は細川別姓として一門・重臣に授けられた。

その後の幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれている。

慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。

享年77。

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