【時代】 戦国時代 – 江戸時代前期
【生誕】 天文23年(1554年)
【死没】 寛永4年10月1日(1627年11月8日)
【改名】 又鶴丸(幼名)→景広
【別名】 少輔次郎、弾正、八郎左衛門尉(通称)、元平(別名)
【主君】 毛利氏、小早川隆景→細川忠興
【氏族】 村上氏
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[sengoku-1]概要 (説明はWikipediaより)
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。
能島村上氏一族。
村上隆重の嫡男。
武吉の従兄弟。
備中笠岡城主。
村上水軍の能島村上氏の一族である村上隆重の子として誕生。
[sengoku-2]主君・小早川隆景より偏諱を賜い景広と名乗る(隆景の生家である毛利氏にも従い、その通字を受けたとみられる元平(もとひら)の別名も伝わる)。
毛利氏に従い、父と共に瀬戸内の要衝笠岡城の城主として活動した。
当時の注進状によえれば、織田氏との第一次木津川口の戦いにも参戦している。
文禄の役では、海上戦に不慣れな藤堂高虎隊に属して、これを補佐している。
[sengoku-3]関ヶ原の戦いでは、西軍に属した毛利氏の下、乃美景継(乃美宗勝の子)、九鬼嘉隆らと共に尾張国海上を封鎖し、東軍に属した水軍を散々に打ち破って首級107を挙げた。
しかし、西軍が敗れたために毛利氏が減封となると、豊前国中津藩の藩主となった細川忠興に招かれて毛利氏を離れ、1万石を賜った。
以後、細川氏の家臣として、300余人を率いて大坂の陣にも参加している。
寛永4年(1627年)死去。
跡を嫡子・景則(長岡河内介)が継いだ。
[sengoku-4]村上景広(最新無料動画を楽しみましょう♪)
[sengoku-sita]