【時代】 戦国時代
【生誕】 不明
【死没】 不明
【別名】 四郎左衛門尉
【官位】 豊前守
【主君】 尼子晴久→義久
【氏族】 本田氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代の武将。

尼子氏の家臣。

始めは尼子晴久に仕える。

主に内政にその手腕を見せ、尼子晴久が中国地方の大大名として地位を確立した際に出雲国奉行衆に任ぜられる。

この中で天文年間に発行された大半の奉行人連署書状に「本田豊前守家吉」の名が「佐世伊豆守清宗」、「立原備前守幸隆」等の尼子氏重臣と並んで多く見えることからも、尼子家臣としてはの地位は高い方に位置されていた。

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奉行衆自体は尼子宗家の専制を強化する為に晴久が作り出した機構であり、これは富田衆と呼ばれる尼子氏直臣が任ぜられていることが多いが、家吉自身は晴久に取り立てられた将である。

なお、「尼子分限帳」では、御手廻り衆として備中国内に14,453石を給していたと記されている。

また、家吉は晴久から信頼されていたようで、嫡男・義久の守役に任命されており、天文23年(1554年)11月の新宮党粛清や永禄9年(1565年)1月の宇山久兼誅殺の際には実行者として参加したと軍記物には記されている。

永禄8年(1565年)から始まる月山富田城の戦いでは月山富田城内に留まって戦い、永禄9年(1566年)11月21日に尼子義久が毛利元就に降伏し安芸国へ護送されることとなった際には嫡男の勝利や弟の太郎左衛門尉らと共に安芸国への同行が許され、後に護送先の安芸国長田において病死した。

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尼子義久は天正17年(1589年)に幽閉を解かれて安芸国長田を離れ、毛利輝元から570石の知行地を与えられて安芸国志道の根の谷に居館を設けているため、家吉の死去は永禄9年(1566年)から天正17年(1589年)までの間と考えられる。

なお、「尼子家旧記」によると嫡男の勝利は後に不義により因幡国において病死、弟の太郎左衛門尉は出雲国において死去、太郎左衛門尉の子である与一や一族の四郎兵衛は病死したと記されている。

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