【時代】 戦国時代(室町時代後期) – 安土桃山時代
【生誕】 天文3年5月12日(1534年6月23日)あるいは天文3年5月28日
【死没】 天正10年6月2日(1582年6月21日)
【改名】 吉法師(幼名)、信長
【別名】 通称:三郎、上総守、上総介、右大将、右府
【官位】 従三位・権大納言、右近衛大将、正三位、内大臣、従二位、右大臣、正二位、贈従一位・太政大臣、贈正一位
【主君】 斯波義銀→足利義昭
【氏族】 織田氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名、天下人。

織田信長は、織田弾正忠家の当主・織田信秀の子に生まれ、尾張(愛知県西部)の一地方領主としてその生涯を歩み始めた。

信長は織田弾正忠家の家督を継いだ後、尾張守護代の織田大和守家、織田伊勢守家を滅ぼすとともに、弟の織田信行を排除して、尾張一国の支配を徐々に固めていった。

永禄3年(1560年)、信長は桶狭間の戦いにおいて駿河の戦国大名・今川義元を撃破した。

そして、三河の領主・徳川家康(松平元康)と同盟を結ぶ。

永禄8年(1565年)、犬山城の織田信清を破ることで尾張の統一を達成した。

一方で、室町幕府将軍足利義輝が殺害された(永禄の政変)後に、足利将軍家の足利義昭から室町幕府再興の呼びかけを受けており、信長も永禄9年(1566年)には上洛を図ろうとした。

美濃の戦国大名・斉藤氏(一色氏)との対立のためこれは実現しなかったが、永禄10年(1567年)には斎藤氏の駆逐に成功し(稲葉山城の戦い)、尾張・美濃の二カ国を領する戦国大名となった。

そして、改めて幕府再興を志す意を込めて、「天下布武」の印を使用した。

翌年10月、足利義昭とともに信長は上洛し、三好三人衆などを撃破して、室町幕府の再興を果たす。

信長は、室町幕府との二重政権(連合政権)を築いて、「天下」(五畿内)の静謐を実現することを目指した。

しかし、敵対勢力も多く、元亀元年(1570年)6月、越前の朝倉義景・北近江の浅井長政を姉川の戦いで破ることには成功したものの、三好三人衆や比叡山延暦寺、石山本願寺などに追い詰められる。

同年末に、信長と義昭は一部の敵対勢力と講和を結び、ようやく窮地を脱した。

元亀2年(1571年)9月、比叡山を焼き討ちする。

しかし、その後も苦しい情勢は続き、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が武田信玄に敗れた後、元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭は信長を見限る。

信長は義昭と敵対することとなり、同年中には義昭を京都から追放した(槇島城の戦い)。

将軍不在のまま中央政権を維持しなければならなくなった信長は、天下人への道を進み始める。

元亀から天正への改元を実現すると、天正元年(1573年)中には浅井長政・朝倉義景・三好義継を攻め、これらの諸勢力を滅ぼすことに成功した。

天正3年(1575年)には、長篠の戦いでの武田氏に対して勝利するとともに、右近衛大将に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出した。

翌年には安土城の築城も開始している。

しかし、天正5年(1577年)以降、松永久秀、別所長治、荒木村重らが次々と信長に叛いた。

天正8年(1580年)、長きにわたった石山合戦(大坂本願寺戦争)に決着をつけ、翌年には京都で大規模な馬揃え(京都御馬揃え)を行い、その勢威を誇示している。

天正10年(1582年)、甲州征伐を行い、武田勝頼を自害に追いやって武田氏を滅亡させ、東国の大名の多くを自身に従属させた。

同年には信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が持ち上がっている(三職推任)。

その後、信長は長宗我部元親討伐のために四国攻めを決定し、三男・信孝に出兵の準備をさせている。

そして、信長自身も毛利輝元ら毛利氏討伐のため、中国地方攻略に赴く準備を進めていた。

しかし、6月2日、重臣の明智光秀の謀反によって、京の本能寺で自害に追い込まれた(本能寺の変)。

一般に、信長の性格は、極めて残虐で、また、常人とは異なる感性を持ち、家臣に対して酷薄であったと言われている。

一方、信長は世間の評判を非常に重視し、家臣たちの意見にも耳を傾けていたという異論も存在する。

なお、信長は武芸の鍛錬に励み、趣味として鷹狩り・茶の湯・相撲などを愛好した。

南蛮などの異国に興味を持っていたとも言われる。

政策面では、信長は室町幕府将軍から「天下」を委任されるという形で自らの政権を築いた。

天皇や朝廷に対しては協調的な姿勢を取っていたという見方が有力となっている。

江戸時代には、新井白石らが信長の残虐性を強く非難したように、信長の評価は低かった。

とはいえ、やがて信長は勤王家として称賛されるようになり、明治時代には神として祀られている。

第二次世界大戦後には、信長はその政策の新しさから、革新者として評価されるようになった。

しかし、このような革新者としての信長像には疑義が呈されつつあり、2010年代の歴史学界では、信長の評価の見直しが進んでいる。

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天文3年(1534年)5月、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として誕生。

生まれた場所については勝幡城、那古野城、および古渡城の3説に分かれるが、勝幡城であるとする見解が有力である。

幼名は吉法師(きっぽうし)。

信長の生まれた「弾正忠家」は、尾張国の下四郡の守護代であった織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行という家柄であった。

当時、尾張国では、守護である斯波氏の力はすでに衰えており、守護代の織田氏も分裂していたのである。

こうした状況下で、信長の父である信秀は、守護代・織田達勝らの支援を得て、今川氏豊から那古野城を奪う。

そして、信秀は尾張国内において勢力を急拡大させていた。

信長は、早くに信秀から那古野城を譲られ、城主となっている。

『信長公記』によれば、信長には奇天烈な行動が多く、周囲から大うつけと呼ばれたという。

なお、人質となっていた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期の頃に知り合っていたとも言われるが、可能性としては否定できないものの、そのことを裏付ける史料はない。

天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、三郎信長と称する。

天文16年(1547年)には今川方との小競り合いにおいて初陣を果たし、天文18年には尾張国支配の政務にも関わるようになった。

天文17年(1548年)あるいは天文18年(1549年)頃、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘・濃姫と信長の間で政略結婚が交わされた。

斎藤道三の娘と結婚したことで、信長は織田弾正忠家の継承者となる可能性が高くなった。

そして、おそらく天文21年(1552年)3月に父・信秀が死去したため、家督を継ぐこととなる。

信長は、家督継承を機に「上総守信長」を称するようになる(のち「上総介信長」に変更)。

家督継承後の信長は、すぐに困難に直面する。

信秀は尾張国内に大きな勢力を有していたが、まだ若い信長にその勢力を維持する力が十分にあるとは言えなかった。

そして、弾正忠家の外部には清須城の尾張守護代・織田大和守家という対立者を抱え、弾正忠家の内部には弟・信勝(信行)などの競争者がいたのである。

一説には信秀の最晩年に行おうとした今川義元との和睦に信長が反対したことなどから信長の後継者としての立場に疑問符が持たれ、信秀も信長と信勝の間で家督の分割する考えに転じたのではないか、という説がある(実際に信秀の死の直後に信長は直ちに和議を破棄している)。

ただし、この和平の仲介には信長の舅である斎藤道三を敵視する六角定頼が関与しており、信長の立場からすれば道三に不利となる条件との抱き合わせになる可能性のあるこの和議に賛同できなかったとする見方もある。

天文21年8月、清須の織田大和守家は、弾正忠家との敵対姿勢を鮮明とした。

信長は萱津の戦いで勝利し、これ以後、清須方との戦いが続くこととなる。

ところが、天文22年(1553年)、信長の宿老である平手政秀が自害している。

信長は嘆き悲しみ、沢彦を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。

一方、おそらく同年4月に、信長は正徳寺で道三と会見した。

その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。

天文23年(1554年)には、村木城の戦いで今川勢を破った。

この年も、清須方との戦いは、信長に有利に展開していた。

同年7月12日、尾張守護の斯波義統が、清須方の武将・坂井大膳らに殺害される事件が起きる。

これは、斯波義統が信長方についたと思われたためであり、義統の息子の斯波義銀は信長を頼りに落ち延びた。

こうして、信長は、清須の守護代家を謀反人として糾弾する大義名分を手に入れた。

そして、数日後には、長槍を用いる信長方の軍勢が、清須方に圧勝した。

天文23年、衰弱した清須の守護代家は、信長とその叔父・織田信光の策略によって清須城を奪われ、守護代・織田彦五郎も自害を余儀なくされた。

ここに尾張守護代織田大和家は滅亡することとなる。

他方、守護代家打倒に力を貸した信長の叔父・信光も11月26日に死亡している。

この死は暗殺によるものであったと考えられる。

そして、信長が信光暗殺に関与していたという説もあるという。

しかし、弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いで敗死(長良川の戦い)。

信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り、勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより信長自らが殿をしつつ退却した。

最も有力な味方である道三を失った信長に対し、林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは弟・信勝を擁立すべく挙兵する。

信勝は、父・信秀から末盛城や柴田勝家ら有力家臣を与えられるとともに、愛知郡内に一定の支配権を有するなど、弾正忠家において以前から強い力を有していた。

弘治元年には「弾正忠」を名乗るようにもなっており、弾正忠家の継承者候補として信長と争う立場にあった。

同年8月に両者は稲生で激突するが、結果は信長の勝利に終わった(稲生の戦い)。

信長は、末盛城などに籠もった信勝派を包囲したが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。

しかし、永禄元年(1558年)に信勝は再び謀反を企てる。

この時、柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は病と称して信勝を清洲城に誘い出し殺害した。

さらに同年7月、信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代・織田伊勢守家(岩倉織田家)の当主・織田信賢を浮野の戦いにおいて撃破した。

そして、翌年には、信賢の本拠地・岩倉城を陥落させた。

永禄2年(1559年)2月2日、信長は約500名の軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見した。

村岡幹生によれば、この上洛の目的は、新たな尾張の統治者として幕府に認めてもらうことにあったという。

しかし、この目的は達成されなかったと考えられる。

一方天野忠幸によれば、この上洛は尾張の問題だけによるものではなく、前年に足利義輝が正親町天皇を擁した三好長慶に対して不利な形で和睦をせざるを得なかったことによって諸大名が拠って立つ足利将軍家を頂点に立つ武家秩序が崩壊する危機感が高まり、その状況を信長自らが確認する意図もあったとされる。

翌・永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻する。

駿河・遠江に加えて三河国をも支配する今川氏の軍勢は、1万人とも4万5千人とも号する大軍であった。

織田軍はこれに対して防戦したがその兵力は数千人程度であった。

今川軍は、松平元康(後の徳川家康)が指揮を執る三河勢を先鋒として、織田軍の城砦に対する攻撃を行った。

信長は静寂を保っていたが、永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若舞『敦盛』を舞った後、出陣した。

信長は今川軍の陣中に強襲をかけ、義元を討ち取った(桶狭間の戦い)。

桶狭間の戦いの後、今川氏は三河国の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。

これを機に信長は今川氏の支配から独立した徳川家康(この頃、松平元康より改名)と手を結ぶことになる。

両者は同盟を結んで互いに背後を固めた(いわゆる清洲同盟)。

永禄6年(1563年)、美濃攻略のため本拠を小牧山城に移す。

永禄8年(1565年)、信長は、犬山城の織田信清を下し、ついに尾張統一を達成した。

さらに、甲斐国の戦国大名・武田信玄と領国の境界を接することになったため、同盟を結ぶこととし、同年11月に信玄の四男・勝頼に対して信長の養女(龍勝寺殿)を娶らせた。

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天正10年(1582年)の元旦、信長は出仕してきた者たちに安土城の「御幸の間」を見せたという記載が『信長公記』にはある。

そして、正月7日、勧修寺晴豊は、行幸のための鞍が完成したのでそれを正親町天皇に見せている(『晴豊公記』)。

このため、天正10年かそれ以降に、正親町天皇が安土に行幸する事が予定されていたと考えられる。

4月、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた(三職推任問題)。

このことは、晴豊が『天正十年夏記』に記載しているが、その中の「御すいにん候て然るべく候よし申され候」の文意が明確ではない。

そうした事情から、この推任が朝廷側の提案によるものなのか、あるいは村井貞勝の申し入れによるものなのか、研究者のあいだで解釈に争いがある。

いずれにせよ、5月になると朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた。

信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したが、返答の内容は不明である。

この頃、北陸方面では柴田勝家が一時奪われた富山城を奪還し、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。

上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。

こうしたなか、信長は四国の長宗我部元親攻略を決定し、三男の信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めた。

この際、信孝は名目上、阿波に勢力を有する三好康長の養子となる予定だったという。

そして、長宗我部元親討伐後に讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与えることを計画していた。

また、伊予国・土佐国に関しては、信長が淡路まで赴いて残り2カ国の仕置も決める予定であった。

そして、信孝の四国侵攻開始は6月2日に予定されていた。

しかし、従来、長宗我部元親との取次役は明智光秀が担当してきたため、この四国政策の変更は光秀の立場を危うくするものであった。

5月15日、駿河国加増の礼のため、徳川家康が安土城を訪れた。

そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。

光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。

信長の光秀に対する信頼は深かった。

一方で、この接待の際、事実かどうか定かではないものの、『フロイス日本史』は、信長が光秀に不満を持ち、彼を足蹴にしたと伝えている。

家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。

信長は光秀に秀吉への援軍に向かうよう命じた。

5月29日、信長は未だ抵抗を続ける毛利輝元ら毛利氏に対する中国遠征の出兵準備のため、供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて安土城から上洛し、本能寺に逗留していた。

ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日未明に本能寺を襲撃する。

この際に光秀は侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが、『本城惣右衛門覚書』からわかる。

わずかな手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら弓や槍を手に奮闘した。

しかし、圧倒的多数の明智軍には敵わず、信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てた。

享年49(満48歳没)。

信長の遺体は発見されなかったが、これは焼死体が多すぎて、どれが信長の遺体か把握できなかったためと考えられる。

本能寺の変から4ヶ月後、羽柴秀吉の手によって、大徳寺において信長の葬儀が盛大に行われた。

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