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合戦名 安祥合戦
合戦の年月日 天文9年(1540年)~天文18年(1549年)
合戦の場所 三河国安祥城およびその周辺地区
合戦の結果 今川・松平連合軍の勝利
交戦勢力 織田氏 松平氏、今川氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代に三河国の安城城付近(現在の愛知県安城市東部)で織田氏と松平氏・今川氏が西三河南部の領有を巡って、天文9年(1540年)から天文18年(1549年)までの約10年間に数次にわたって行われた合戦である。

最初の合戦は、織田氏が三河進出を企図したことから発生したものであり、最後の合戦は、今川氏が西三河より織田氏の勢力を駆逐して、代わりに自らの勢力を扶植するため行われた。

結果、織田氏は敗北して、三河における織田氏の勢力は著しく減退、尾張と三河の国境付近にある刈谷周辺の一角を保持するのみとなり、織田氏の三河進出は挫折した。

一方、今川氏は松平宗家領押領によって勢力基盤確立に成功、一部地区を除く西三河南部地域のほぼすべてが今川領となった。

安城合戦の古戦場周辺には、討死にした者たちを弔った塚が数多くあり、それらの塚は十三塚と総称され、具体的には東条塚・千人塚・堀平十郎塚・大道塚・鏡塚・玄塚・古見塚・姫塚・恋塚・貴人塚・金蔵塚・富士塚・大胴塚の計13の塚である。

三河を統一し、その名を近隣諸国に轟かせた松平氏7代当主松平清康は、天文4年(1535年)にその勢いに乗って尾張に侵攻して守山城を攻めるも、攻撃の最中に陣中にて家臣に討たれて死去する(森山崩れ)。

あまりに突然の死であったために家中は動揺し、三河の国衆は相次いで松平氏から離反した。

また一門衆の松平信定(桜井松平家氏当主、広忠の大叔父)が清康の嫡子松平広忠を本城である岡崎城から追放して実権を握り、広忠は吉良持広を頼った。

持広は今川義元と広忠の仲をとりなし、義元の圧力を受けた信定が岡崎城を退去したことで、広忠は再入城を果たす(なお、信定はその後許される)。

このとき械(合歓木)松平家の松平信孝(叔父)は広忠の岡崎帰還を支援したとされ、信孝は広忠の後見役となった(信孝と弟の康孝は、織田勢が森山崩れの混乱に乗じ岡崎を攻めたことで発生した、井田野の戦いにて活躍するなど、岡崎城防衛にも功があった)。

しかし、清康の死と一門衆の分裂で松平氏は急速に弱体化した。

これによって東三河の国衆は次々に今川氏への恭順を示し、三河への今川氏の影響力拡大をうけた織田氏も西から圧迫を開始した。

こうして松平氏は全三河の大名から西三河の小大名に転落したのだった。

安城城は、西三河を流れる矢作川西岸の碧海台地東部にある舌状台地の先端に位置する平山城である。

碧海台地周辺(特に南部)は安城ヶ原と言われ、明治時代以前は雑木林が生い茂り、湿地や沼などが点在する荒地だった。

安城城の付近も例に漏れず、城は周囲を雑木林と湿地に囲まれていたため森城(もりじょう)とも呼ばれた。

その地勢により、安城城は小城といえど守りやすく攻め難い城であり、三河国岩津城(岡崎市岩津町)主松平信光が文明3年(1471年)に計略をもってこの城を落とすと、大永4年(1524年)に清康が本拠を岡崎城に移すまでの4代50余年に渡り、その拠点となっていた。

このため碧海郡(水野氏の勢力下にあった刈谷周辺や江戸時代以前は幡豆郡であった大浜を除く)に点在する松平氏の諸城を統率する機能を持つと共に、本城となった岡崎城防衛の前進基地にもなっており、松平氏にとって失ってはならない城だった(事実、安城城の失陥後に小豆坂の戦いが発生している)。

また織田氏にとっては尾張国に今川の力が及ばぬよう今川氏の三河領有を阻止する足がかりとなり、そして今川氏にとっては、三河を我が物とするため、織田氏に保持され続けることは容認できなかった。そのため、広忠の死後この戦いに本格介入することになる。

天文9年(1540年)2月、松平広忠は先手を打って尾張国鳴海城攻めるが敗北し、以後広忠は安城城の守りを固めるため城代として松平長家(清康の大叔父)を置き、その他一門衆5名と1000弱の兵を配備する。

同年6月尾張古渡城主織田信秀が刈谷城の水野忠政を伴って3000の兵(内容は織田氏の騎馬隊2000に水野氏の歩兵1000)を率いて安城城を攻撃する。

織田勢は主力の騎馬隊2000を城の北方(現在の安城市上条町西部)の高台の林に置き、南方(同市の古井町西部)に水野氏の別働隊を置いた。

松平勢は歩兵主体であったうえ自軍の三倍もの兵力を相手にせねばならず、劣勢は免れなかった。

6月6日、松平勢は北と南に軍勢を分け織田・水野勢に斬り込みを掛けた。

松平勢は善戦し、一度は織田・水野勢を後退させるも劣勢を挽回するまでには至らず、長家など松平勢の主だった武士50余人が討死し、両軍合わせて1000以上の死者が出た。

いかに激戦だったかを物語っている。

現在もその時に築かれた塚(東条塚、千人塚)が残っている。

天文12年(1543年)正月、広忠の後見を務めていた松平信孝は弟の松平康孝と岩津松平家の松平親長の遺領を押領するなど、権勢を増しており宗家を凌ぐ程になっていた。

譜代家臣の阿部氏や本多氏は、信孝を快く思わず、広忠に信孝の排除を進言する。

広忠自身は岡崎帰還の支援者である信孝の排除に積極的ではなかったが、重臣の進言には抗することができず、信孝を年賀の使いとして駿府に送ると、そのまま追放して信孝の領地を押収した。

信孝は叛心のないことを広忠に訴えて許しを請い、今川義元に仲裁を依頼するが、反信孝派の家臣は和解を拒絶し、これをみた義元も仲裁を放棄した。

これらの仕打ちに激怒した信孝は松平忠倫、酒井忠尚らとともに織田氏に与し、山崎城を築く(現在の安城市山崎町神明社、なお当時の呼称は大岡城だった)。

山崎城は安城城西北方向の碧海台地の端の小高い丘に位置し、岡崎城までは見渡す限り低地が続いていた。

そのため見通しが利き、敵の侵入路や兵力が把握できるので、安城城の出城として重要な役割を果たしていた。

また安城城は湿地ではない西北側が弱点であり、山崎城にはこれを補完する意味もあった。

天文14年(1545年)9月、広忠は美濃に侵攻した織田勢の敗報を聞くと、安城城奪還のため出陣する(兵数不明)。

松平勢は安城城に信秀が到着していないと思い込んだ上に、敗戦の後で敵の士気は低く、それに加えて地理の理解では自分達に分があるとして完全に油断していた。

対する織田勢(城兵600余人、援軍兵数不明)は、当時最新兵器であった火縄銃を投入し、信秀の指揮する援軍も城に入れずに城外に巧妙に配置するなど万全の態勢で臨んだ(投入された火縄銃が少数だった事と松平勢の大多数が火縄銃そのものを知らなかったため、撹乱は成功しなかった)。

両軍は安城城近辺の清(勢井)縄手で激突した。 松平勢は織田勢に背後から攻撃されて初めて援軍の到着を知り、これを叩こうとするが、この隙を突いて城兵が打って出たために挟撃を受ける。

退路を断たれることを恐れた家臣たちは、致命的打撃を受ける前に退却する様に進言するが、広忠は聞き入れず突撃を敢行する。

しかし、信秀が在陣している事が松平勢中に知れ渡ったために兵は動揺し、軍勢は二つに分断され、退路を完全に断たれた。

広忠は自己の安全も絶望視されるなか討死を決意するが、重臣の本多忠豊(本多忠勝の祖父)がそれを諌め、広忠の身代わりとなって敵本陣深く突撃した事で織田勢の注意を引く事に成功し、広忠や生き残った松平勢は岡崎城へと退却することができた。

しかし、身代わりとなった本多忠豊はこの地で討死する。

この敗戦の後、広忠は松平家次(松平清定の子)や酒井忠尚の籠る上野城を攻撃するが敗北した。

上野城は岡崎城を北西方面から望む要地であった。

このころ松平宗家の地位は完全に凋落し、今川氏への依存はますます強くなることになる。

天文15年(1546年)9月、広忠は再び上野城を攻め、ようやくこれを落とした。

その後、義元の仲裁で酒井忠尚との和解に成功し、松平清定も桜井にて蟄居となったが、依然、松平宗家は弱体であった。

翌天文16年(1547年)、広忠は岡崎城を守り織田氏の勢力を西へ押し戻すため今川氏に援助を求めた。

当時、松平信孝が、乙川の南岸の額田郡岡ならびに北岸の同郡大平に砦を築いたことで、岡崎城は東方を扼されて、今川領である宝飯郡方面との連絡が困難な状況にあり、更に佐々木城主の松平忠倫が上和田(碧海郡矢作川東岸の村)と矢作川西岸の同郡筒張に砦を築いて、岡崎城を南と西からおびやかすなど、松平宗家の窮状は極まっていたのだった。

独力では西三河の小大名であり続けることも困難な情勢に直面して、助けを乞う広忠に対し、今川義元は、その見返りに広忠の嫡男竹千代(後の徳川家康)を人質として差し出すことを要求した。

広忠にとって義元は、岡崎城復帰の際など、たびたびの後ろ盾となってくれた恩人であったうえ、今川の助力なくして松平宗家の劣勢は覆うべくもなく、広忠は義元の要求を承諾し竹千代を駿府に送った。

しかし、竹千代は途中で田原城主戸田康光に拉致されて織田氏に売られ、反対に織田氏の人質となってしまう(これに激怒した義元は、吉田城番の天野景貫らに命じて田原城を攻め、康光ら戸田氏宗家は滅ぼされた)、信秀は竹千代を利用して広忠に今川から離反して織田の傘下に入ることを要求したが、かえって広忠は今川氏に対する恭順の姿勢を明確に表し、松平氏は完全に今川氏の傘下に組み込まれることとなった。

これをうけて今川方は、西三河攻略の拠点として利用するため山中城を取り立て、同年7月までに普請を開始した。

一方、広忠は同年9月に松平信孝・松平忠倫らと矢作川の河原で戦うも敗北(渡河原の戦い、渡河原は鎌倉街道における矢作川の渡渉地点だった)、この際、殿となった五井松平家の松平忠次と鳥居忠宗(鳥居元忠の兄)が討死した(尚、忠宗については居館の渡城が信孝勢の襲撃を受け、これ迎え撃とうとした際に真っ向を鉄砲で撃たれて討死したともされる)。

また同時期に織田氏が加茂郡西部の梅坪城を攻め、城主の三宅氏を恭順させた。

弱体化した松平宗家は、上和田砦に拠る忠倫と武力で渡り合うことが難しく、翌10月、広忠は家臣に命じてこれを謀殺した。

更に広忠は翌11月に、織田氏と通じていた松平重弘が拠る本宿城の攻略に成功した。

広忠の敵対的態度に業を煮やした信秀は、翌天文17年(1548年)3月、岡崎城攻略へ向けて出陣する。

竹千代の拉致以降もあくまで今川氏への恭順を示し、頑なに織田氏を拒む広忠の態度を見た義元は、松平宗家を救援するため軍を送り、6日までに額田郡藤川に進出して本陣を構えた。

この動きを察知した織田勢は9日に矢作川を渡り上和田砦に入って本陣とした。

両軍は19日に激突したが(第二次小豆坂の戦い)、この戦闘で織田氏は大敗、信秀は弟の織田信光を殿として上和田に残し、安城城まで敗走すると、ここを子の織田信広に任せて古渡に帰った。

これをうけて今川勢も本陣のある藤川に戻った。

信広が捕縛されて今川氏の人質となったため、織田氏の人質となっていた竹千代と信広とが交換された。

竹千代が生きて三河に戻ったことにより松平宗家は断絶を免れ、広忠の今川氏に対する忠義は報いられた。

しかし、義元は竹千代を岡崎城に置くことを良しとせず、すぐに駿府へ人質として送らせた。

これより義元は三河切り取りの仕上げに取り掛かり、西三河を自己の勢力圏に取り込んでいく。

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