【時代】 戦国時代
【生誕】 享禄3年(1530年)
【死没】 元亀2年8月28日(1571年9月17日)
【別名】 弾正忠、紀伊入道
【官位】 弾正忠、伊賀守、紀伊守
【主君】 六角氏、足利義輝、義昭、織田信長
【氏族】 近江和田氏
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[sengoku-1]概要 (説明はWikipediaより)
戦国時代の武将。
室町幕府末期の幕臣。
父は和田宗立(惟助)。
和田氏は近江国甲賀郡和田村(現在の滋賀県甲賀市甲賀町和田)の有力豪族で、甲賀五十三家のうち特に有力な甲賀二十一家に数えられ、特に山南七家とも称される家柄で、油日神社と深く関係していた。
初めは六角氏の被官であったが、惟政の父の代に室町幕府13代将軍・足利義輝の幕臣として仕える。
天文22年(1553年)、三好長慶に追われた足利義輝が六角氏を頼って近江に逃れており、その時期に和田氏と足利将軍家の関係が生じて幕府の奉公衆化したと推定されている。
[sengoku-2]永禄8年(1565年)、義輝が家臣の三好三人衆らによって殺害される(永禄の変)。
当時、和田家の家伝では、当時の惟政は義輝の不興を買って和田で謹慎を命じられていたため事件に巻き込まれずに済んだという。
事件を知った惟政は興福寺に軟禁されていた義輝の弟・覚慶(足利義昭)を細川藤孝、三淵藤英、一色藤長、仁木義政、米田求政らと共に一乗院より救い出して甲賀の自邸に匿った。
仁木義政は伊賀を、和田惟政は甲賀を拠点としていることから、義昭を奈良から伊賀を経由して甲賀に脱出させ、近江の六角氏を説得して上洛する計画であったとみられている。
実際、惟政は六角義賢を味方につけ、更に義賢と共に織田信長・浅井長政・斎藤龍興を自陣営に引き込もうとしており、実際に義昭が惟政に対して自分の使者として信長と会うように命じた永禄9年(推定)6月11日付の自筆書状が残されている。
ところが、六角氏・斎藤氏の離反が明らかになったことで近江にいられなくなった義昭は放浪することになり、惟政も義昭に付き従っている。
尾張国の織田信長の援助を得て義昭が15代将軍に就任すると、信長によって摂津国芥川山城、のちに高槻城を与えられ、足利義昭からは池田勝正、伊丹親興と共に摂津守護の1人として任命され「摂津三守護」と称された(『足利季世記』)。
以後、足利幕臣として京都周辺の外交・政治に大きく関与しながら、織田氏家臣としても信長の政治や合戦に関わるという義昭と信長の橋渡し的役割を務めている。
永禄12年(1569年)10月、信長に援軍を要請した播磨国の赤松氏の援軍として、備前国の浦上氏攻めに参加している。
その後、惟政は所用で美濃国にいる信長の許へ向かう途中、信長から蟄居を命じられた報を受け取る。
ルイス・フロイスによれば他に「引見の不許可」「惟政が近江に持っていた城の破壊」「収入のうち2万クルザードの没収」という厳しい処分だった。
フロイスはこれを朝山日乗が信長に讒言したためと記しているが、同時期に信長と足利義昭の関係が悪化している事が大きな原因と推測されている(惟政は幕臣)。
惟政はこれに剃髪して抗議した。
[sengoku-3]元亀元年(1570年)、惟政は京で越前攻めに向かおうとしている信長に謁見すると、信長はその地位を回復した。
フロイスによれば3万クルザードの俸禄を加増されるなど、非常に厚遇されたという。
6月28日の姉川の戦いには織田氏方として参加したようである。
11月、多方面に敵を抱える形となった信長は将軍・義昭の権威を利用して六角氏と和睦をしているが、この際に、三雲成持・三雲定持宛てに惟政が宛てた書状(福田寺文書)があり、かつて六角氏の影響下で同じ甲賀の土豪であった三雲氏との繋がりから、この六角氏との和睦にも関与していたらしい。
元亀2年(1571年)、三好長逸と手を結んだ池田知正を討つため伊丹氏や茨木氏と軍勢を共にするが、摂津国白井河原の戦い(茨木川畔)で池田氏家臣の荒木村重に敗れ、戦死した。
多くの貫通銃創・刀傷を受けた上、首を取ろうとした相手にも傷を負わせて死去したとされる。
惟政の没後まもなく、子・惟長は高山友照、右近父子により追放され、まもなく死亡し、和田氏は没落することになる。
[sengoku-4]和田惟政(最新無料動画を楽しみましょう♪)
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