【生誕地】 荊州江夏郡竟陵県
【生誕】 不明
【死没】 興平元年(194年)
【字】 君郎
【主君】 霊帝→少帝弁→献帝

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概要 (説明はWikipediaより)

中国後漢末期の政治家。

字は君郎。

荊州江夏郡竟陵県の人。

子に劉範・劉誕・劉瑁・劉璋。

『後漢書』と『三国志』蜀志に伝がある。

後漢末の動乱期において、各地に割拠した群雄の1人。

益州の地方官として赴任しそのまま独立勢力を築き、三国時代の蜀の先駆けとなる。

前漢の魯恭王であった劉余(景帝の第4子)の末裔に当たる。

劉焉の先祖は、後漢の章帝時代の元和年間に中原から江夏郡に国替された一族のうち、江夏郡にそのまま移住した分家筋の家だという。

若くして州や郡の役所に出仕し、漢の宗室だという理由で中郎になる。

しかし、学問の師であった祝公の喪に服するため官職を辞した。

陽城山に居住し学問に励み、人々に学問を教えて名声を博し、賢良方正に推挙されて司徒府に招かれた。

やがて洛陽の県令を経て、冀州刺史・南陽郡太守・宗正・太常(皇帝の祭祀を司る九卿の筆頭に当たる役職)を歴任した。

霊帝の時代、政治の腐敗や黄巾の乱の影響により、刺史や太守の支配力が弱体化しているという理由で州牧を設置し、清廉な人物を地方に派遣することを提案した。

劉焉は内心では中央の混乱を避けたいと考え、交州の牧に任命される事を期待していた。

しかし、侍中の董扶が益州に天子の気があると密かに告げたため、益州への派遣を望むようになった。

やがて、当時の益州刺史の郤倹(郤正の祖父)の失政が評判となり、并州や涼州でも刺史が殺害される事態となったため、劉焉の提案は実現を見る事になった。

劉焉は自らの希望通りに監軍使者・益州牧を兼務し、陽城侯に封ぜられ、郤倹を取り調べるという名目で益州に赴任することになった。

董扶は蜀郡の属国都尉として劉焉に随行することになり、太倉令で巴西の趙韙も官職を辞して劉焉に随行した。

この頃、後漢の衰退に乗じて馬相・趙祗ら黄巾を号する賊徒が益州で反乱を起こしていた。

馬相らは綿竹県令の李升を殺害し、さらに雒県を陥落させ郤倹を殺害した。

さらに蜀郡・犍為・広漢の三郡を蹂躙した。

馬相は天子を自称し、その軍勢は五桁に上っていたが、益州従事の賈龍は千余人の兵を率いて、官民を糾合して馬相らを攻撃して敗走させ、この反乱を鎮圧していた(馬相の乱)。

劉焉は、賈龍らに迎えられて益州に州牧として赴任し、綿竹県を拠点とした。

劉焉は離反した者達を手懐け迎え入れ、寛容と恩恵で住民を懐柔しながら、秘かに独立する構想を持ったという。

南陽・三輔の民数万戸が益州に流入してくると、これらを兵士として編成し、東州兵という軍団に作り上げたという(『三国志』蜀志「劉二牧伝」が引く『英雄記』)。

張魯という宗教指導者に目をつけ、その母を自分の家に行き来させる程の親密な関係を築いた。

さらに張魯を督義司馬に任命し、漢中に派遣して橋を切って道を遮断し、官吏を殺して中央と分断させた。

中央には張魯のせいで連絡が取れなくなったと報告をした。

その一方で、劉焉に反発した益州豪族らを弾圧し、王咸・李権(李福の父)ら十余人を殺害した。

この振る舞いに、かつて劉焉を迎えた賈龍と犍為太守の任岐ら現地の豪族は憤激して反乱を起こしたため、劉焉はこれを鎮圧し、賈龍と任岐を殺害した。

以降、劉焉は驕り高ぶり、千乗余りの豪華な馬車を作りその勢威を示した。

荊州刺史の劉表は、劉焉に野心がある事を朝廷に報告したという。

劉焉は羌族に恩賞を与えなかったので、それが原因で激怒した羌族が綿竹付近に侵攻する事となった。

劉焉の子の内、三男の劉瑁だけが劉焉の手元におり、長男・次男・四男は長安におり、献帝に仕えていた。

後に献帝は劉焉を宥めるために、劉璋を益州に派遣したが、劉焉はこれを聞き入れずに劉璋を二度と都に戻さなかった。

征西将軍の馬騰は郿に駐屯していたが、劉焉・劉範父子と手を組び、董卓没後に実力者となっていた李傕がいる長安を襲撃する計画を立てていた。

しかし、計画が洩れたため、劉範は槐里に逃亡した。

長安を攻撃した馬騰の軍も敗北し、涼州に撤退した。

李傕は逃亡中の劉範を追撃し槐里でこれを討ち取り、弟の劉誕も捕虜にされて処刑された。

議郎の龐羲は、先祖代々劉焉の家と交際があったため、劉焉の孫を伴って入蜀し、そのまま劉焉に仕える事になった。

この時、落雷によって居城としていた綿竹が焼失してしまったために、劉焉はさらに奥地の成都に遷らざるを得なくなった。

興平元年(194年)、劉焉は、子らの非業の死の悲しみや災害など、相次ぐ不幸が重なったため、その心痛から背中に悪性腫瘍を患い同年に死去してしまった。

実力者であった趙韙の思惑で、温仁(温厚かつ仁徳の有る人)との評判であった劉璋が後を継ぐ事になった。(恐らくは、強気な人間でなく傀儡にし易いということであろう。加えて、長子継承の通念から、長子以外の子が教育を疎かにされるケースが日本でもあったように、もともと末子であった彼が、事業継承を期待されていたかどうかも疑問であり、政治経済の切り回し等がそもそも不得手だった可能性があるかもしれない)

趙韙は朝廷に劉璋を益州刺史に推挙し、朝廷からは監軍使者・益州牧を兼務することを許された。

趙韙も征東中郎将に任命され、荊州の劉表への攻撃を命じられた。

張魯の漢中での独立と、東州兵と益州豪族との摩擦などによって、益州は混乱することになる。

小説『三国志演義』では、黄巾の乱の時に幽州太守を務め、その時に劉備らと出会った事にされているが、正史では劉焉が幽州太守(刺史・州牧)に任命された事実は無い。

しかし、これが後に息子の劉璋が劉備を益州に迎え入れて、劉備を遠縁の親族として兄事する伏線となっている。

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