【生誕地】 雍州扶風郡
【生誕】 不明
【死没】 242年
【主君】 曹操→曹丕→曹叡→曹芳
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[sangokushi-1]概要 (説明はWikipediaより)
中国後漢末期から三国時代の武将。
司隷扶風郡の人。
若い頃は亭長をつとめていた。
三輔が混乱すると、王忠は飢え苦しんで人肉を食した。
その後、衆を率いて武関に向かったが、当時荊州に割拠していた婁圭に帰属することを望まず、これを攻撃し撃ち破った。
そして千人余りの軍を率いて、曹操に帰属した。
王忠は曹操の征討に付き従い、中郎将・揚武将軍・軽車将軍を歴任し、都亭侯に封じられている。
[sangokushi-2]建安4年(199年)、徐州で車冑を殺害し叛逆した劉備を、曹操の命により劉岱と共に討伐した。
しかし劉備を降すことはできなかった。
建安18年(213年)、魏公への任命を受諾するよう曹操に促す文書に、王忠も名を連ねている。
五官中郎将だった曹丕は、曹操・王忠らと共に外出したことがあった。
このとき曹丕は、芸人に命じて墓場から髑髏を取って来させ、これを王忠の鞍に括り付けさせた。
かつて人肉を食った王忠を、笑い者にしたのである。
黄初5年(224年)、魏の皇帝となっていた曹丕(文帝)は友人の呉質のために、上将軍と特進以下の官吏をすべて呉質の宿舎に集め、酒宴を催した。
曹丕の寵を鼻にかけた呉質は曹真が太っているのをからかい、酒の肴にしようとした。
このとき曹真が激怒したにも関わらず、さらに王忠は曹洪と共に呉質の悪乗りに便乗して曹真をからかい、曹真の怒りに油を注いだという(呉質伝が引く『呉質別伝』)。
[sangokushi-3]小説『三国志演義』でも史実と同様に、劉岱とともに劉備討伐に向かう。
この時の曹操の意図は、袁紹を相手にしている間の時間稼ぎ程度であったとなっている。
王忠は、関羽との戦いに敗れ捕えられてしまう。
しかし劉備からは礼遇され、同じく捕えられた劉岱と共に、曹操への斡旋を依頼されている。
帰還後、王忠と劉岱は曹操に敗戦の咎を問われ処刑されそうになる。
しかし、孔融の取り成しで助命されている。
なお史実では、王忠らはあくまで勝利を得られなかった(原文「不克」)とあるのみで、劉備に捕虜とされたわけではない。
[sangokushi-4]王忠(最新無料動画を楽しみましょう♪)
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