【生誕地】 揚州呉郡富春県
【生誕】 中平5年(188年)
【死没】 赤烏4年(241年)
【字】 公礼
【主君】 孫権

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概要 (説明はWikipediaより)

中国後漢末期から三国時代の武将。

呉の宗室の一人。

字は公礼。

叔父は孫河。

孫策・孫権の甥。

従弟は孫桓。

子は孫楷・孫越・孫異・孫奕・孫恢。

孫河は呉郡の兪氏の出身であった。

なお『呉書』では、元々孫姓だったが兪氏の養子となったとある。

孫韶が17歳のとき、丹陽で変事が勃発し孫河が殺害されたため、その後を継ぎ軍勢を率いた。

京城の補修をし、櫓を立て兵器や軍備を整えて敵の侵攻に備えた。

孫権は豫章の椒丘で変事を聞き、すぐに丹陽に戻り事態を収拾した。

帰還の途中で呉郡に立ち寄り、試しに城へ攻撃を仕掛けてみたところ、秩序だった迎撃を受けたため、孫権が正体を明かしたところ、攻撃はすぐに止んだ。

孫韶の見事な防御態勢を見て感心した孫権は次の日に孫韶と会い、任務をよく果たしたことを褒め、承烈校尉に任命し、孫河の部曲を継がせ、曲阿と丹徒の二県を奉邑として与えた。

孫河と同等の権限を与えたため、孫韶は自分の判断で県の幹部を任用することができた。のちに広陵太守・偏将軍となった。

孫権が呉王になると、揚威将軍に昇進し、建徳侯に封じられた。

222年に曹休が20余り方面軍を率いて洞口に攻めてきた時には、孫韶は呉の将たちと肩を並べて呂範の配下で戦い、一時は悪天候で呉軍に劣勢に立たされた。

後に呂範が残って指揮を続け、残った諸将達と共に魏軍を反撃して破り、勝利に乗じて曹休・張遼などを打ち破ると、魏軍を撃退した。

225年、魏の曹丕が224年に続いて10余万の軍勢を率いて再び広陵に侵攻してきたが、長江が凍りついたため船を入れられず撤退した。

それを機と読んだ孫韶は、敵の退路において伏兵として決死隊を5百用意したところ、敵が現れた際に夜襲をかけ、曹丕の度肝を抜き、孫韶に敗れると、寿春へ敗走した。

曹丕の乗馬車・羽蓋と魏軍の輜重を奪い、曹丕を討ち取る寸前まで追い詰めたという戦果を挙げた。

孫権が即位すると、鎮北将軍となった。

国境の守備を十数年務めた。

その間、兵卒を養い精鋭に育て上げ、さらに敵の情報収集に励んだため、滅多に敗れることはなくなり、青州・徐州・汝南郡・沛国などから多くの降伏者を受け入れることができた。

孫韶のおかげで、他の部署の軍を遠征に回すことができるようになった。

淮南や長江沿いの駐屯軍や偵察部隊は、みなその兵を引き上げて遠征にまわされ、徐水・泗水・長江・淮河の流域で、軍の駐屯しない土地がそれぞれに数百里に及んだ。

孫権は都を武昌に移すと、西方での軍事に没頭し、しばらく孫韶と顔を合わせることがなかった。

のちに建業に都を戻すと、十年あまりに孫韶と対面した。

孫権は、青州や徐州一帯の各駐屯地の守りの固さ、そこまでの距離、兵馬の多寡、魏軍の指揮官の姓名などについて尋ねたが、孫韶はそれらすべてを詳しく知っていて、質問された事柄のすべてに返答をした。

孫権はすっかり気に入り、よろこんでいった、「久しく孫韶どのを見ぬままであったが、思いがけずもかくも立派になられていたのだ」。

孫韶は幽州牧に任命され、仮節を与えられた。

241年に死去。

子の孫越が跡を継ぎ、右将軍となった。

また、その兄の孫楷は武衛大将軍・臨成侯となり、のち孫越に代わって京下の督となった。

孫異・孫奕・孫恢もそれぞれ領軍将軍・宗正卿・武陵太守までなり一門が栄えた。

『三国志』の撰者である陳寿は『冷静沈着な性格、非常に洞察というか、情報収集に精力的な人物。

斥候を巧みに使って敵の動静をつかみ、ほとんど敗戦しなかった』だと評される。

小説『三国志演義』では、血気盛な性格(正史の性格とは異なる)、魏との戦い(224年と225年の二回の広陵侵攻がモデルとなっている)で、総大将の徐盛の作戦に異を唱え、怒った徐盛から斬られそうになったところを、仲裁した孫権に助けられる。

しかし、孫権に徐盛への謝罪を要求されると、それを拒絶したため孫権の怒りをも買うことになる。

一方で、孫韶が魏軍を奇襲しようと無断で単独行動をすると、徐盛はそれをも策に利用しようと考え、丁奉に命令して孫韶を援助させている。

徐盛の偽城の策にかかった魏軍が撤退を始めると、孫韶はこれに対し奇襲を行ない大打撃を与えることに成功し、徐盛も追撃をかけ魏軍に大打撃を与え、最後は葦の生い茂った箇所を魏の大船団が通過しようとしたところを火攻めにして魏の大軍30万を粉砕した。

徐盛と共に孫権から賞されることになっている。

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