【生誕地】 不明
【生誕】 不明
【死没】 赤烏13年(250年)
【字】 子威
【主君】 孫権

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概要 (説明はWikipediaより)

中国三国時代の人物。

呉の皇族。

字は子威。

父は孫権。

兄は孫登・孫慮・孫和。

弟は孫奮・孫休・孫亮。

妻は劉基の娘。

子は孫基・孫壱。

『三国志』呉志「呉主五子伝」に記録がある。

生母に関して直接的な言及はないが、子の孫壱の祖母が謝姫という記録がある(「姫」は女官の汎称)。

赤烏5年(242年)、兄の孫和が太子に立てられた際、群臣たちはその母を皇后に、また孫覇の兄弟たちを王位につけるよう懇願した。

孫権は一度拒絶したが、半年後に同様の請願があり、孫覇を魯王に封じた。

教育係として是儀が付けられた。

史書にはその人柄についての記載はないが、羊衜から「東宮と並んで徳のある人物として美名が高い」と称された記録が残されている。

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孫覇は孫権から寵愛され、兄と同様の待遇を受け、同じ宮殿に住み続けた。

この扱いが批判されると、孫権は別々の宮を設置し、それぞれに幕僚をつけた。

しかし、この措置は孫覇の不満を買っていた。

兄との仲が険悪になった。

かえって派閥抗争を加熱させ、重臣達を巻き込んだ二派の争いに発展した。

孫覇派(魯王派)は、楊竺・全奇・孫奇・呉安といった取り巻きや外戚の孫魯班(全公主)の他、歩騭・呂岱・全琮・呂拠・孫弘らが支持していたという(『通語』)。

孫権が、2人の不和を案じて人の出入りを禁止し、学問に励むよう訓戒をしたが、対立は止まなかった。

楊竺・全寄・孫奇・呉安は孫和の廃位を実現させるため、陸遜や顧譚といった孫和を支持する者に対する讒言を、孫権に対し何度か上奏した。

一方の孫覇も同様のことをしたことがあったという。

是儀は何度か孫覇に諫言したが、聞き入れられることはなかった(「是儀伝」)。

一時は孫和派(太子派)の重臣の排除に成功したものの、歩騭や全琮といった有力者が世を去ると、孫覇派も勢いを失い、孫和派との一進一退の抗争が続いた。

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赤烏13年(250年)、孫権は抗争を解決するため、どちらを擁立しても後々しこりが残る事を考慮し、新たに孫亮を太子とした。

一方で孫和を廃太子とし、孫覇にも自殺を命じた上で、楊竺・全寄・孫奇・呉安らを誅殺した(二宮事件)。

『通語』によると、孫峻と相談した上での措置だったという。

五鳳年間、子らはそれぞれ、呉侯・宛陵侯に封じられたが、孫和の子の孫晧が即位すると、爵位を削られ謝姫と共に会稽郡へ押し込められた。

小説『三国志演義』には登場しない。

記事の引用元であるWikipediaはここをクリック

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