【生誕地】 冀州常山国真定県
【生誕】 160年代
【死没】 建興7年(229年)
【字】 子龍
【諡号】 順平侯
【主君】 公孫瓚→劉備→劉禅

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概要 (説明はWikipediaより)

中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍。

字は子龍(しりゅう・しりょう)。

冀州常山国真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。

封号は永昌亭侯。

諡は順平侯。

子は趙統・趙広。

父と兄の名は不詳。

袁紹の配下に名を連ねていたが、袁紹には忠君救民の心がなかったため、右北平太守公孫瓚のもとへ馳せ参じている。

そして公孫瓚の部下となるが、青州で袁紹と戦っていた田楷の援軍として公孫瓚が劉備を派遣した際、趙雲も随行して劉備の主騎となった。

建安13年(208年)、荊州の当陽県長坂で曹操自ら指揮を執る5,000の兵に追いつかれた劉備は、妻子を捨てて逃走した。

この時、趙雲が劉禅を身に抱え、更に甘夫人を保護したので、2人は危機を免れることができたが、劉備の娘2人は曹純に捕獲された(長坂の戦い)。

この戦いの後、牙門将軍に昇進した。

劉備の入蜀時には荊州に留まった。

建安18年(213年)、諸葛亮・張飛・劉封らと共に長江を遡って入蜀し、益州の各郡県を平定した。

趙雲は江州から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略した。

益州が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた。

「夷陵の戦い」では漢中と荊州方面両方を支援する江州の督として後方に留められたが、蜀軍の危機を知って前進し劉備の救援を行った。

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建興元年(223年)、劉禅が即位すると中護軍・征南将軍へ昇進し、永昌亭侯に封じられた。

後、鎮東将軍に昇進した。

建興5年(227年)、諸葛亮と共に北伐に備えて漢中に駐留した。

建興6年(228年)、諸葛亮が斜谷街道を通ると宣伝すると、魏の曹叡は曹真を郿に派遣し、諸軍の指揮を命じて駐屯させた。

趙雲は鄧芝と共にその相手をする事となり、諸葛亮は祁山を攻めた。

曹真は箕谷に大軍を派遣したが、兵の数は趙雲と鄧芝の方が多かったという(『漢晋春秋』)。

しかし曹真の兵は強く、趙雲と鄧芝の兵は弱かったので、箕谷で敗北した。

その際趙雲は自ら殿軍を務め、軍兵を取りまとめてよく守り、輜重もほとんど捨てずに退却できたため、大敗には至らなかったが、鎮軍将軍に降格された。

一方、『華陽国志』では位階ではなく禄を貶したとの記録がある。

諸葛亮は、箕谷では不戒の失があったと上奏している(蜀志「諸葛亮伝」)。

『水経注』によると、この撤退戦の際、赤崖より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで、魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、屯田を行っている。

建興7年(229年)、没した。

子の趙統が後を継いだ。

景耀4年(261年)、趙雲は順平侯の諡を追贈された。

法正・諸葛亮・蔣琬・費禕・陳祗・夏侯覇は死後すぐに、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠は景耀3年に追贈されており、趙雲は12人目である。

時の論はこれを栄誉とした。

陳寿は、黄忠と共に彊摯・壮猛であり、揃って軍の爪牙となったとし、灌嬰・夏侯嬰に比している。

『季漢輔臣賛』では「重厚な性質」とされ、陳到と共に「選り抜きの兵士を率い、勇猛でたびたび勲功をたてた」とされている。

趙雲別伝も含めた事跡から推測すると、劉備の荊州四郡制圧までの趙雲は、魏の許褚・典韋のように劉備の近衛隊長・親衛隊長に近い存在であった。

劉備の入蜀後、前線担当や地方駐屯の将軍に転じている。

陳到も同様の職にあったため、並べて評価されたと考えられる。

また関羽・張飛より昇進で後れを取っているのも、許褚がそうであったようにその職務によるものであろう。

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正史『三国志』の趙雲は同巻に収められた五人の中で最も位が低く、劉備が漢中王として即位した際、関羽・黄忠・馬超・張飛がそれぞれ前後左右の将軍位を授かっているのに対し、趙雲は翊軍将軍のまま据え置かれた。

しかし『三国志演義』においては、五虎大将軍として他四人と同格に位置付けられ、非常に勇猛かつ義に篤い、また冷静沈着な武芸の達人として描かれている。

「生得身長八尺、濃眉大眼、闊面重頤、威風凜凜」(身長八尺の恵まれた体格、眉が濃く目が大きく、広々とした顔であごが重なっている、威風堂々)と体躯堂々たる偉丈夫として描写されている。

長坂では、単騎で大軍の中を駆け抜け阿斗と甘夫人を救出する話が代表的な名場面であり、京劇でも人気がある。

また、中国各地に阿斗を抱いた趙雲像が建立されている。

ちなみに嘉靖版『三国志通俗演義』では、趙雲が逃げようとしない麋夫人を怒鳴ったことをきっかけに麋夫人が井戸に身を投げたことについて、趙雲は不忠者であるという註がつけられている。

劉備が、孫権の妹と縁談のため呉に向かった際には同行している。

そして、孫権による暗殺から劉備を守り、諸葛亮から与えられていた策を用い、呉から脱出している。

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