【生誕地】 徐州琅邪郡陽都県
【生誕】 不明
【死没】 甘露3年(258年)
【字】 公休
【主君】 曹丕→曹叡→曹芳

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概要 (説明はWikipediaより)

中国三国時代の魏に仕えた政治家・武将。

字は公休。

徐州琅邪郡陽都県の出身。

呉の諸葛瑾・蜀漢の諸葛亮兄弟の族弟(遠縁の従弟)にあたる。

諸葛誕は諸葛珪の末子という説もある。

子は王広夫人、司馬伷夫人(諸葛太妃)、呉の大司馬諸葛靚。

『世説新語』によると、若き諸葛誕が仕官した時に「蜀漢は其の龍を得、呉は其の虎を得、魏は其の狗を得たり」と言われた。

諸葛亮を龍、諸葛瑾を虎、諸葛誕は狗に喩えられた。

余嘉錫によれば、ここでの「狗」は「功狗」、「功ある者」の意味で、つまり彼への賞賛であり、魏・呉での名声は高かったという。

また文帝(曹丕)の遠征時に杜畿が船を建造し、試運転している際に風にあおられて船が転覆した時、若き日の諸葛誕も川に転落したが、諸葛誕は溺れながら「杜侯を先に助けてくれ」と言い、結果自身は意識不明となるも岸に流れ着き一命をとりとめ、杜畿は水死している。

中央において尚書令・吏部郎・御史中丞などを務め、人事には公正で夏侯玄・李勝・鄧颺らと仲が良く、共に名声を馳せ「四聡八達(四人の聡明な人物と八人の達人)」と呼ばれるほどになった。

諸葛誕らは表面的な華やかさを追い虚名を集めているため、蔓延らせてはならないと意見する者があった。

これを受けて、明帝(曹叡)から「名声は画に描いた餅のようなもので、飢えを満たすことはできない」と批判され、このため一度免職させられた。

なおこの故事が成句の「絵に描いた餅」や「画餅に帰す」の原典である。

明帝が崩御し、曹爽が権力を握ると、その下で夏侯玄や鄧颺が政治を掌るようになり、諸葛誕も御史中丞・尚書に復帰した。

後に揚州刺史となり昭武将軍に昇進した。

この時、文欽は横暴な人物として知られていたが、諸葛誕もやはり不仲であったという。

また呉の諸葛壱が魏への投降を申し出た際に、迎えに出陣したが、途中で偽装降伏であり、呉の伏兵が待機していると見抜いて、引き上げた。

曹爽失脚時に鄧颺は誅殺され、夏侯玄も閑職に追いやられた。

しかし、諸葛誕は新たに実権を握った司馬懿に引き続き用いられ、251年に謀反(王淩の乱)を起こした王淩を討伐した際に、仮節・鎮東将軍・都督揚州諸軍事に任命され、山陽亭侯の爵位を得た。

諸葛誕は、娘の一人が司馬懿の子の司馬伷(司馬師・司馬昭の異母弟で、東晋の元帝司馬睿の祖父)と結婚していたため縁戚関係にあり、家同士の付き合いもあった。

司馬師が実権を握った時代には、胡遵・王昶・陳泰・毌丘倹と共に四方の都督として名があがる存在であった。

252年、東関の役においては、提案者の一人である胡遵とともに呉の諸葛恪と戦ったが敗れた(東興の戦い)。

敗戦の責を取り、毌丘倹と職を交代させられ、鎮南将軍・都督豫州諸軍事に転任した。

255年、毌丘倹と文欽が反乱(毌丘倹・文欽の乱)を起こすと、毌丘倹からの同心の誘いを拒絶しその鎮圧に赴き、司馬師が寿春を制圧すると、鎮東大将軍・都督揚州諸軍事・儀同三司に任命され、再び揚州の守備を任された。

また、この混乱に乗じて侵攻して来た呉の孫峻らを撃破し、留賛を斬った。

この功績により高平侯に封じられ、三千五百戸の領邑を与えられ、征東大将軍に任命された。

正史には、征東大将軍に転任後、夏侯玄(曹爽一族の残党でもある)などと親密な間柄であったこと、同じ立場であった王淩や毌丘倹が滅ぼされたことから、司馬一族から誅殺されることを恐れ不安になっていたとある。

任地で施しを行い民の信頼を集め、屈強な者を選び私兵にしたのも、また256年に呉の侵攻に備えるため10万の兵の増強を要請したのも、正史では諸葛誕が自分の立場を確保するための行為だったと断じている。

257年、司馬昭が実権を握った時代、諸葛誕は司空(三公のひとつ)に任じられ、洛陽への召還を命じられた(魏志には朝廷が諸葛誕の疑心を察していたとあり、また洛陽召還は、諸葛誕の内心を見越した賈充の策であり、早めに諸葛誕を暴発させ、その芽を摘むという計算であったとされる)。

このとき諸葛誕は、三公になるのは序列からして王昶が先である筈と怪しみ、同年に司馬昭の専横に対抗するとして10数万の兵と共に反乱を起こし、楽綝を斬った。

諸葛誕は末子の諸葛靚と長史の呉綱を呉に送り、援軍を要請した。

皇帝曹髦と皇太后が親征する形で、司馬昭は、自ら鍾会・王基・陳騫・州泰・石苞・胡烈ら26万の大軍の指揮を執り討伐に赴き、王基・陳騫らに命じて寿春城を包囲させた。

呉は、文欽・全端・全懌・唐咨ら3万人の軍勢を諸葛誕の援軍に派遣し、文欽らは魏軍の包囲が完成する前に寿春城で諸葛誕と合流した。

諸葛誕の兵は精兵で、呉の援軍も来襲して来たため、司馬昭は堅固な砦に軍を移そうとしたが、王基は寿春城の包囲を続けるべきだと意見し、司馬昭も王基の意見に従った。

文欽らは何度も寿春城から出撃したが、魏の包囲陣に撃退された。

呉の朱異は、2度にわたり数万の軍勢の指揮を執り諸葛誕・文欽らの援軍に赴いたが、州泰・石苞・胡烈らに撃退された。

また、鍾会の計略にかかった全端・全懌らが、魏に寝返ってしまった。

258年、劣勢を強いられた諸葛誕・文欽らは出撃し、包囲を破り寿春城から脱出しようとしたが、魏の包囲陣に撃退された。

その後、諸葛誕軍は兵糧不足に苦しみ、投降者が続出した。

諸葛誕が昔から不仲だった文欽を殺してしまうと、文欽の子の文鴦・文虎が司馬昭軍に投降した。

司馬昭は文鴦・文虎を許し、この二人に数百騎の兵を与え、寿春城の周りを駆け巡らせ「文欽の子でさえ殺されないのだ。

他の者は何の心配があろうか」と城内に呼びかけさせた。これにより諸葛誕軍の士気は大いに落ち、司馬昭軍の攻撃により寿春城は落城しそうになった。

窮地に陥った諸葛誕は城外に撃って出たが、胡奮の軍勢により斬り殺され、首は洛陽へ送られた。

寿春城は落城し、唐咨らは魏に降伏した。

諸葛誕の一族も乱の平定とともに死滅した。

呉に送られていたために難を逃れた末子の諸葛靚は、呉に仕えた。

なお、司馬伷夫人は咎めを受けなかった。

諸葛誕が殺された後、その兵数百人は降伏しなかった罪で斬られたが、皆「諸葛公の為に死ぬのだから心残りは無い」と言って死んでいったといわれ、人望は厚かったとされる。

当時の人々は、秦末の田横(その死を聞くと、500人の食客は悉く殉死した)と引き比べたという。

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