【生誕地】 司隸河内郡温県
【生誕】 建安16年(211年)
【死没】 咸熙2年8月9日(265年9月6日)
【字】 子上
【諡号】 文王→文帝
【廟号】 太祖
【主君】 曹叡→曹芳→曹髦→曹奐

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概要 (説明はWikipediaより)

中国三国時代の魏の武将・政治家。

字は子上。

司隸河内郡温県孝敬里の人。

司馬懿の次男。

母は張春華。

息子は西晋の武帝司馬炎など9人。

蜀を滅ぼした功績で晋王・相国に封ぜられ、晋代に文帝の諡号と太祖の廟号を追贈された。

景初2年(238年)、魏の新城郷侯に封じられる。

正始年間初め、洛陽典農中郎将となる。魏帝曹叡が奢侈を極めた時代の後を受け、煩瑣な労役を中止し農時を奪わなかったので、万民から歓迎された。

のち散騎常侍に転任。

正始5年(244年)、興勢の役に際しては征蜀将軍に任じられ、夏侯玄の副将として従軍するが、戦果の挙がらぬこの計画に対して撤退を進言した。

正始10年(249年)正月、政敵の曹爽一族が都を出た隙を狙い、父の司馬懿に従って政変(高平陵の変)を起こす。

兄の司馬師はかねてからこの計画に参与していたが、司馬昭は前夜まで知らされていなかった。

政変にあたっては軍勢を率いて2つの宮殿を守り、曹爽排斥に貢献した。

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改元後の嘉平元年(同249年)、蜀漢の姜維が隴右に侵攻。

司馬昭は安西将軍・持節となり、関中に駐屯し、諸軍を監察する。

敵の本拠を突くと見せかけて姜維を撤退させ、先鋒の句安を孤立させ、降伏へと追い込んだ。

安東将軍に転じ、許昌へ戻った。

嘉平4年(252年)、都督として諸葛誕・胡遵らの征呉に随行するが、両軍は敗戦を喫する(東興の戦い)。

諸将の責を問う声も挙がったが、政権を担う司馬師は自らの責任として彼らは咎めず、身内である司馬昭が責任を取って爵位を削られた。

嘉平5年(253年)、再び姜維の侵攻を迎撃するため行征西将軍に任じられ、長安に駐屯する。

姜維は狄道を攻めると公言したが、司馬昭はこれを偽りと看破して動じず、姜維は撤退した(狄道の戦い)。

その後、新平郡の羌の叛乱を平定し、北方の異民族を相手に武威を轟かせ、功績によりまた新城郷侯に復した。

正元元年(254年)には新帝曹髦の擁立に貢献し、高都侯に進爵した。

正元2年(255年)正月、寿春で毌丘倹・文欽の乱が起こる。

司馬師が10万の軍勢を指揮して討伐する間、中領軍の官職を兼ねて洛陽を守った。

乱の鎮圧後、病で重篤となった司馬師を許昌で見舞うが、まもなく没した。

曹髦は司馬氏の兵権を削ぐべく司馬昭を許昌に留め、傅嘏に軍を率いて帰還するよう詔勅を下す。

しかし傅嘏は鍾会と相談の末にこれを拒み、司馬昭を奉じて洛陽に帰還した。

2月、司馬昭は兄の後継として大将軍・侍中・都督中外諸軍・録尚書事に昇った。

甘露元年(256年)には高都公・大都督となった。

甘露2年(257年)5月、寿春で諸葛誕の反乱が起こる。

司馬昭は曹髦と郭皇太后を奉じ、26万の大軍を率いて東征し、討伐の陣頭指揮を執った。

甘露3年(258年)2月に寿春は陥落、乱は鎮圧された。

降将の文鴦や唐咨をはじめ、降兵も全て赦し、徳義を称えられた。

甘露5年(260年)5月、曹髦は側近の王経・王沈・王業に「司馬昭の心は、路傍の人も皆知っている。

吾は座して廃位の辱めを受けることはできない」などと述べ、司馬昭排除の意志を打ち明ける。

王沈と王業はこれを司馬昭に密告した。

ここに至り曹髦は司馬昭排除のため挙兵。

対する司馬昭は護軍の賈充に進軍を阻止するよう命じた。

宮殿の南門付近で戦いが起こり、曹髦は賈充の命を受けた成済によって刺殺された(甘露の変)。

動乱の処理を相談した陳泰からは「賈充を斬り、天下に謝罪するしかありません」と告げられるが、腹心の賈充を罰することはできず、皇帝弑逆の罪は成済に帰し、一族皆殺しとした。

6月、新帝として曹奐を擁立した。

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景元4年(263年)、蜀漢討伐の軍を興し、鄧艾・鍾会・諸葛緒を指揮官とし、3方面から蜀へ侵攻させた。

司馬昭はこれまで「晋公に封建し、九錫を加え、相国に任じる」という勅命を、幾度にも渡って固辞していた。

同年10月、征蜀の優勢が伝えられたこともあり再びこの詔が出され、朝廷内の強い要請もあり、ついにこれを受けることとなった。

11月には蜀漢の皇帝劉禅が鄧艾に降伏し、征蜀を達成した(蜀漢の滅亡)。

これより先、司馬昭は西曹屬の邵悌から、「鍾会は信頼できないので(蜀へ)行かせてはなりません」と諫言を受けたが、「征蜀は容易なのに人々は不可であるという。ただ鍾会だけが私と同意見なのだ。蜀を滅ぼした後、中原の将士は帰郷を願い、蜀の遺臣は恐怖を抱いているだろう。鍾会に異心があっても何ができようか」と答え、取り合わなかった。

景元5年(264年)正月、果たして鍾会は反乱を企てたが、配下の衛瓘・胡烈らによって殺害された。

3月、司馬昭の爵位は晋王に進められた。

改元後の咸熙元年(同264年)5月、司馬一族の功績を称え、父の司馬懿が晋の宣王、兄の司馬師が景王に封じられた。

7月、五等爵を置くなど諸制度を改革し、荀顗が礼儀を定め、賈充が法律を正し、裴秀が官制を改め、鄭沖が全体を統括した。

兄の司馬師に後嗣がなかったため、その職責を継いだ司馬昭だが、自分の庶子の司馬攸を司馬師の後嗣とし、世子に立てようと考えていた。

しかし何曾らが嫡子の司馬炎を立てるよう強く勧め、この年、司馬炎が晋王の世子となった。

咸熙2年8月9日(265年9月6日)、55歳で没した。死の床で司馬昭は司馬攸の行末と、兄弟が相争うことを憂い、司馬攸の手を司馬炎に預けた。

9月、崇陽陵に葬られ、文王と諡された。

晋が禅譲を受け、司馬炎が皇帝として即位した後の咸寧元年(275年)12月、司馬懿が高祖、司馬師が世宗、司馬昭が太祖の廟号を贈られた。

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