【生誕地】 豫州汝南郡汝陽県
【生誕】 不明
【死没】 不明
【字】 仲績
【主君】 袁術

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概要 (説明はWikipediaより)

中国後漢時代末期の政治家・武将。

字は仲績。

豫州汝南郡汝陽県(現在の河南省周口市商水県)の人。

従兄は袁術。

袁術の下にいた孫策は興平元年(194年)からの討伐で、劉繇らを破って江東を平定した。

その後、袁胤は袁術の命により、周尚(周瑜の従父)の後任として丹陽太守に着任した。

しかし、袁術による丹陽支配を快く思わない徐琨に攻撃され、袁胤は丹陽から追放された。

怒った袁術は、宗部一揆(宗教共同体の一種)の首領の祖郎に山越を扇動させ、孫策を攻撃させた。

しかし、これも失敗に終わった。

建安4年(199年)に袁術が死去。

袁胤は袁術の女婿である黄猗らとともに、袁術の柩とその子の袁燿や袁燿の生母・姉妹らを守ることになった。

袁胤らは、かつて袁術配下だった劉勲の元へ逃れ、劉勲の本拠の皖城に身を寄せた。

しかし、劉勲が軍を出している隙に皖城は孫策に攻め落とされ、袁胤ら袁術の遺族たちは保護された。

そして、袁胤らは呉郡(当時の孫策の本拠地)に護送されている。

後に袁燿が孫氏に仕え、その姉妹の一人の袁氏も孫権の側室となったが、袁胤の消息は不明である。

小説『三国志演義』では、袁術の甥となっている。

没落した袁術に最期まで付き従うが、袁術は兵糧が尽きて野垂れ死にするように落命する。

袁術の死後はその遺族を守るが、曹操軍の徐璆によって皆殺しにされてしまう。

その際に玉璽も奪われ、曹操に献上されたことになっている。

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