合戦名 応仁の乱
合戦の期間 1467年 – 1478年
合戦の場所 京都
合戦の結果 和睦(西幕府が解体され、東幕府が存続)
交戦勢力 東軍 西軍
指導者・指揮官 細川勝元 山名宗全
細川政元 大内政弘
戦力 約160,000 約110,000

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概要 (説明はWikipediaより)

室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1478年)までの約11年間にわたって継続した内乱。

室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。

明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。

十数年に亘る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。

応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。

御霊合戦の後、細川勝元は四国など領地9カ国の兵を京都へ集結させるなど緊張が高まった。

文正2年(1467年)3月5日には元号が文正から応仁に改元された。

4月になると、細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起き、足利義視が調停を試みている。

京都では細川方の兵が宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。

片や宗全は5月20日に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置いた。

山名方は斯波義廉(管領)の管領下知状により指令を行っていた。

両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。

兵力は『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったと記されているが、誇張があるという指摘もされている。

京都に集結した諸将は北陸、信越、東海と九州の筑前、豊後、豊前が大半であった。

地理的には、細川氏一族が畿内と四国の守護を務めていたことに加えその近隣地域にも自派の守護を配置していたため、当初から東軍が優位を占めていた。

西軍は山名氏を始め、細川氏とその同盟勢力の台頭に警戒感を強める周辺地域の勢力が参加していた。

当初の東軍の主力は、細川家、斯波家、畠山家と、京極持清、赤松政則、武田信賢であり、西軍の主力は、山名家、斯波家、畠山家、義政の側近でありながら武田信賢との確執から西軍に奔った一色義直や、土岐成頼、大内政弘であった。

一方、関東や九州では鎌倉公方や少弐氏らによりたびたび大規模な紛争が発生しており、中央の大乱より前に戦乱状態に突入していた。

応仁の乱は御霊合戦を契機に前半は京都を中心とした山城一帯が主戦場となっていたが、次第に地方へ戦線が拡大していった。

鎌倉府が管轄する関東地方八ヶ国と伊豆・甲斐は享徳の乱が勃発していたが、足利義政が送り込んだ堀越公方に対し、古河公方側は西軍と連携する動きもあった。

更に、文明7年には関東管領上杉顕定の実父でその後見人でもあった越後守護上杉房定が、西軍の能登守護・畠山義統と共に東軍の畠山政長が領する越中を攻撃するという事件も起きている。

東軍は将軍・義政や後土御門天皇・後花園法皇を保護下に置き、将軍牙旗や治罰院宣を駆使して「官軍」の体裁を整えており、西軍は結果的に「賊軍」の立場に置かれていた。

しかし、正親町三条家・阿野家・葉室家などのように将軍姻戚の日野家と対立する公家の一部は義視と共に西軍に投じており、さらに西軍は「西陣南帝」と呼ばれた小倉宮後裔を担ぐなど朝廷も一時分裂状態に陥った。

宗教勢力の動きでは蓮如率いる浄土真宗本願寺派の活動が知られ、文明5年に東軍の加賀半国守護・富樫政親の要請を受けて下間蓮崇率いる一向一揆が政親方に加担。

本願寺派と敵対する浄土真宗高田派と結んだ西軍の富樫幸千代と戦い、翌文明6年に幸千代を破っている。

ただこの一件が後に加賀一向一揆を勃発させる遠因となった。

応仁元年(1467年)5月、細川勝元派である元播磨守護家の赤松政則が播磨国へ侵攻、山名氏から播磨国を奪還した。

また武田信賢、細川成之らが若狭国の一色氏の領地へ侵攻し、斯波義敏は越前国へ侵攻した。

美濃土岐氏一門の世保政康も旧領であった一色氏の伊勢国を攻撃している。

5月26日の夜明け前には室町亭の西隣にある一色義直の屋敷近郊の正実坊を成身院光宣が、実相院を武田信賢が占拠、続いて武田信賢・細川成之の軍が義直の屋敷を襲撃し、義直は直前に脱出、屋敷は焼き払われ京都での戦いが始まった(上京の戦い)。

勝元は匿っていた畠山政長を含む全国の同盟者に呼びかける一方、室町御所を押さえ戦火から保護するという名目で将軍らを確保、勝元は自邸今出川邸に本陣を置いた。

室町御所を奪還した勝元らは西軍方についた幕府奉行衆の責任を追及し、6月11日には恩賞方を管轄していた飯尾為数が殺され、8月には伊勢貞藤(貞親の弟)が追放された。

5月26日、宗全邸の南に位置する一条大宮の細川勝久邸を斯波義廉(管領)の配下の朝倉孝景、甲斐氏ら西軍が攻めかかり、応戦した細川軍と激戦を展開、東から援軍に来た京極持清を返り討ちにした。

続いて赤松政則が南下して正親町を通り、猪熊に攻め上がって斯波軍を引き上げさせ、細川勝久はこの隙を見て東の細川成之の屋敷に逃亡した。

西軍は勝久邸を焼き払い、続いて成之邸に攻め寄せ雲の寺、百万遍の仏殿、革堂にも火を放ち成之邸を攻撃したが、東軍の抵抗で決着が着かず翌27日に両軍は引き上げた。

この合戦で起きた火災で北は船岡山、南は二条通りまで延焼した。

足利義政は28日に両軍に和睦を命じ、細川勝元の軍事行動を非難しながら畠山義就の河内下向を命ずる一方、伊勢貞親に軍を率いて上洛させるなど復権の動きを取っていた。

しかし、6月3日に勝元が要請を行うと、義政は将軍の牙旗を足利義視が率いる東軍に下し、東軍は官軍の体裁を整えた。

義視率いる官軍は総攻撃を開始し、6月8日には赤松政則が一条大宮で山名教之を破った。

さらに義政の降伏勧告により斯波義廉ら西軍諸将は動揺して自邸に引きこもった。

東軍は斯波義廉邸も攻撃し、戦闘の巻き添えで南北は二条から御霊の辻まで、東西は大舎人町から室町までが炎上した。

六角高頼、土岐成頼、さらに、斯波義廉(管領)は投降しようとしたが、東軍に対し激しく抗戦する重臣の朝倉孝景の首を持ってくるよういわれて投降を断念した。

しかし6月14日には大和国の古市胤栄が、19日に紀伊国の畠山政国などの西軍の援軍が到着し始めた。

8月23日には周防国から大内政弘が伊予国の河野通春ら7か国の軍勢一万と2千艘の水軍を率いて入京したため西軍が勢力を回復した。

同日天皇・上皇が室町御所に避難し、室町御所の一郭が仮の内裏とされた。

一方では足利義視が伊勢貞親の復帰に危険を感じて出奔し、北畠教具を頼って伊勢国に逃亡した。

またこの頃から西軍は管領下知状にかわって諸将の連署による下知を行い始めた。

大内政弘は8月中に船岡山に陣取り、9月1日に畠山義就・朝倉孝景が攻めかかった武田勢を追い出し、武田勢が逃げ込んだ三宝院に火を放った。

6日に義政は再度義就の河内下向を命令したが、義就は従わず戦いを続けた。

9月18日に京都郊外の南禅寺山でも戦いが起こり(東岩倉の戦い)、10月3日に発生した相国寺の戦いは激戦となり、両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。

しかし、焼亡した相国寺跡に斯波義廉軍が陣取り、義就が山名宗全邸の西に移り東軍は劣勢に立たされた。

朝廷においては10月3日に後花園法皇が興福寺に山名宗全の追討を命じる治罰院宣を発したほか、12月5日(12月31日)に正親町三条公躬(公治)・葉室教忠・光忠父子・阿野季遠・清水谷実久ら西軍派とされた公家の官爵剥奪が決定された。

彼らは富子の実家である日野家と対立関係にあった三条家の一族や縁者が多く、義視を支持していた公家達であった。

応仁2年(1468年)3月17日に北大路烏丸で大内政弘と毛利豊元・小早川煕平が交戦、3月21日には、稲荷山の稲荷社に陣を張って山名側の後方を撹乱・攻撃していた細川方の骨皮道賢が攻撃されて討死し、稲荷社が全焼した。

5月2日に細川成之が斯波義廉邸を攻めたり、5月8日に勝元が宗全の陣を、8月1日に勝元の兵が相国寺跡の義就の陣を攻めていたが、戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、嵯峨で両軍が交戦した。

管領の斯波義廉は西軍についていたものの、将軍・義政から直ちに解任されなかった。

このため、将軍が主宰する御前沙汰など、幕府の政務も管領不在のまま行われていた。

だが、応仁2年(1468年)、義廉が幕府と敵対していた関東の古河公方足利成氏に和睦を提案、宗全と義就の連名の書状を送った。

この理由については、義廉は幕府の関東政策の一環として斯波氏の当主に据えられたため、成氏と幕府の和睦という成果を挙げて家督と管領職の確保を狙ったと推定される。

しかし、義政は独断で和睦を図った義廉を許さず、7月10日に義廉を解任して勝元を管領に任命、義廉の家督と3ヶ国守護職も取り上げられ、松王丸に替えられた。

書状が出された月は2月から3月と推定され、相国寺の戦いの後に西軍有利の状況で義廉が動いたとされる。

応仁2年(1468年)9月22日、しばらく伊勢国に滞在していた足利義視は細川勝元(管領)や足利義政に説得されて東軍に帰陣した。

帰京した義視は足利義尚派の日野勝光の排斥を義政に訴えたが、受け入れられなかった。

さらに義政は閏10月16日には文正の政変で義視と対立した伊勢貞親を政務に復帰させ、11月10日には義視と親しい有馬元家を殺害するなどはっきりと義尚擁立に動き出した。

勝元も義視擁立には動かず、かえって出家をすすめた。

こうして義視は再度出奔して比叡山に登った。

11月23日(12月19日)、西軍は比叡山に使いを出して義視を迎え入れて“新将軍”に奉った。

正親町三条公躬、葉室教忠らも西幕府に祗候し、幕府の体裁が整った。

以降、西幕府では有力守護による合議制の下、義視が発給する御内書によって命令が行われ、独自に官位の授与も行うようになった。

一方で幕府では日野勝光、伊勢貞親ら義政側近の勢力が拡大し、文正の政変以前の状態に戻りつつあった。

勝元には義視をあえて西軍に送り込むことで、親宗全派であった富子を幕府内で孤立させる目論見があったとも推測されている。

以降勝元は西軍との戦いをほとんど行わず、対大内氏との戦闘に傾注してい。

大内政弘の圧倒的な軍事力によって山城国は西軍によって制圧されつつあり(西岡の戦い)、京都内での戦闘は散発的なものとなり、戦場は摂津・丹波・山城に移っていった。

このため東軍は反大内氏の活動を活発化させた。

文明元年(1469年)には九州の大友親繁・少弐頼忠が政弘の叔父教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻、文明2年(1470年)2月には教幸自身が反乱を起こしている。

しかしいずれも留守居の陶弘護に撃退されたために政弘は軍を引くことなく、7月頃までには山城の大半が西軍の制圧下となった。

これ以降東西両軍の戦いは膠着状態に陥った。

長引く戦乱と盗賊の跋扈によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃した。

さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなった。

かつて守護大名達が獲得を目指していたはずの幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや得るものは何もなかったのである。やがて東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになった。

文明3年(1471年)5月21日には斯波義廉(管領)の重臣で西軍の主力となっていた朝倉孝景が義政による越前守護職補任をうけて東軍側に寝返った。

このことで東軍は決定的に有利となり、東軍幕府には古河公方足利成氏の追討を再開する余裕も生まれた。

一方で西軍は8月、擁立を躊躇していた後南朝勢力の小倉宮皇子と称する人物を擁立して「新主」とした(西陣南帝)。

同年に関東の幕府軍が単独で成氏を破り、成氏の本拠地古河城を陥落させたことも西軍不利に繋がり、関東政策で地位保全を図った義廉の立場は危うくなった。

文明4年(1472年)になると、勝元と宗全の間で和議の話し合いがもたれ始めた。

開戦要因の一つであった山名氏の播磨・備前・美作は赤松政則に全て奪還された上、宗全の息子達もかねてから畠山義就支援に否定的であり、山名一族の間にも厭戦感情が生まれていた。

しかし、この和議は領土返還や山名氏の再侵攻を怖れた赤松政則の抵抗で失敗した。

3月に勝元は猶子勝之を廃嫡して、実子で宗全の外孫に当たる聡明丸(細川政元)を擁立した後、剃髪した。

5月には宗全が自殺を図って制止され、家督を嫡孫政豊に譲り隠居する事件が起きたが、桜井英治はこれを手打ちの意思を伝えるデモンストレーションであったと見ている。

文明5年(1473年)の3月18日(4月15日)に宗全が、5月11日(6月6日)に勝元が相次いで死去した。

宗全の死を契機に、双方で停滞していた和睦交渉が再開されたが、畠山政長と畠山義就の大反対で頓挫している。

また、宗全の死後に西軍で擁立されていた西陣南帝も放擲されている。

12月19日(1474年1月7日)には義政が義尚に将軍職を譲って隠居した。

幕府では文明3年に長らく空席だった侍所頭人(所司)に赤松政則が任ぜられ、政所の業務も文明5年になると政所頭人(執事)伊勢貞宗によって再開されるなど、幕府業務の回復に向けた動きがみられた。

管領は義尚の将軍宣下に合わせて畠山政長が任じられたものの、一連の儀式が終わると辞任してしまい、再び空席になってしまったために富子の兄である公家の日野勝光が幕府の役職に就かないまま、管領の職務を代行した。

一方で富子の勢力が拡大し、義政の実権は失われていった。

文明6年(1474年)3月、義政は小河に建設した新邸に移り、室町御所には富子と義尚が残された。

興福寺別当尋尊は「天下公事修り、女中御計(天下の政治は全て女子である富子が計らい)、公方(義政)は大御酒、諸大名は犬笠懸、天下泰平の時の如くなり」と評している。

だが、義政の大御酒が平時と異なったのは、室町御所に退避していた後土御門天皇もその酒宴に加わっており、幕府のみならず朝廷の威信の低下にもつながる事態となっていた。

文明6年4月3日(4月19日)、山名政豊と細川政元の間に和睦が成立。

山名政豊は東軍の細川方と共に畠山義就、大内政弘らを攻撃した。

さらにこの頃、西軍の一色義直の子義春が義政の元に出仕し、丹後一色氏も東軍に帰順した。

その後も東軍は細川政元・畠山政長・赤松政則、西軍は畠山義就・大内政弘・土岐成頼を中心に惰性的な小競り合いを続けていた。

また、赤松政則は和睦に反対し続けていた。

一方、西軍の土岐成頼の重臣で従三位の奉公衆斎藤妙椿も文明6年の和睦に反対し、美濃の兵を率いて近江・京都・伊勢に出兵した。

更に越前にも出兵し、同年6月に西軍の斯波義廉の重臣甲斐敏光と東軍に寝返っていた朝倉孝景を停戦させている。

文明7年(1475年)2月、東幕府からの遠江守護代の任命により甲斐敏光が東軍に寝返り、孤立した西軍の斯波義廉(管領)は同年11月、斯波義敏派の又守護代織田敏定討伐のため、守護代織田敏広を連れて尾張国へ下国した。

翌文明8年(1476年)9月には、足利義政が西軍の大内政弘に「世上無為」の御内書を送り、12月には足利義視が足利義政に恭順を誓い、義政も義視の罪を不問に付すと返答し、和睦の流れが加速した。

文明9年(1477年)9月22日には主戦派の畠山義就が畠山政長の追討を名目に河内国に下国する。

そして、9代将軍足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵された大内政弘が、11月11日(1477年12月16日)に京から撤収したことによって西軍は事実上解体され、京都での戦闘は収束した。

足利義視・義材(後の10代将軍)親子は、土岐成頼や斎藤妙椿と共に美濃国に退去した。

なお、能登守護の畠山義統や土岐成頼はこの和睦に納得せず、京の自邸を焼き払ったという。

西軍の解体は僅か1日で終わったと伝えられる。

9日後の11月20日、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ大乱の幕が降ろされた。

この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いた。

しかし惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま終わった。

主だった将が戦死することもなく、戦後罪に問われる守護もなかった。

西軍の最大勢力であった大内政弘も富子へ賄賂を贈り、守護職を安堵されていた。

乱の終了後も畠山政長と義就は戦い続けていたが、山城国では度重なる戦乱に国人が団結し、勝元の後継者であった細川政元の後ろ盾も得て、文明17年(1485年)に山城国一揆を起して両派は国外に退去させられた。

また、加賀では東軍に参戦した富樫政親が長享2年(1488年)に加賀一向一揆に居城・高尾城を攻め込まれて自害、加賀は一向一揆が領有した。

これらは旧体制の支配下にあった新勢力が台頭しつつあることを示すこととなった。

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