【生誕地】 不明
【生誕】 不明
【死没】 建安17年(212年)
【主君】 劉璋

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概要 (説明はWikipediaより)

中国後漢末期の武将。

劉璋配下。

高沛は楊懐と共に劉璋配下の名将であり、強力な軍勢を擁し白水関を守備していた(蜀書龐統伝)。

また劉璋に文書を送り、劉備を荊州に撤退させるよう諌めていた。

その一方で、劉備の英名には服していたという。

建安17年(212年)、劉璋の要請による張魯討伐のため、すでに招聘されていた劉備は葭萌に駐屯した。

劉備は張魯を討伐するよりも住民たちの人心収攬に勤め、益州平定に向けて準備を整えた。

龐統は劉備に「(劉備が)荊州へ戻るとの知らせを受けた高沛は、楊懐と共に喜んで自分から会いに来るだろうから、そこで2人を捕えればよい」との趣旨の策を進言した。

荊州帰還の知らせを聞いた高沛は、楊懐とともに拝礼のため訪れたが、捕えられて斬られ、その軍勢を奪われてしまった。

劉備はこれを機に、成都へ向け進軍を開始した(蜀書龐統伝)。

小説『三国志演義』でも登場し、楊懐と共に涪水関を守備している。

『演義』では劉備暗殺までも謀る役回りにされ、荊州へ帰るという劉備を見送る際に決行しようとする。

しかし、機先を制した劉封・関平に取り押さえられ、龐統の命令により楊懐共々斬首されている。

ただし史実では、高沛らが劉備暗殺までをも謀っていたとの記述は見当たらない。

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