合戦名 | 比叡山焼き討ち | |
合戦の年月日 | 元亀2年9月12日(1571年9月30日) | |
合戦の場所 | 現在の滋賀県大津市比叡山周辺 | |
合戦の結果 | 織田信長軍の勝利 | |
交戦勢力 | 織田軍 | 延暦寺山門衆 |
指導者・指揮官 | 織田信長、明智光秀、池田恒興、柴田勝家、佐久間信盛、木下秀吉、武井夕庵、中川重政、丹羽長秀 | 不明 |
戦力 | 120000 | 約4,000 |
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[sengoku-1]概要 (説明はWikipediaより)
元亀2年9月12日(1571年9月30日)に現在の滋賀県大津市の比叡山延暦寺で行われた戦い。
この戦いで織田信長は僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われている。
またこの戦いはルイス・フロイスの書簡にも記載されている。
一方、近年の発掘調査から、施設の多くはこれ以前に廃絶していた可能性が指摘されている。
比叡山と信長が対立したきっかけとして、信長が比叡山領を横領した事実が指摘されている。
永禄12年(1569年)に天台座主応胤法親王が朝廷に働きかけた結果、朝廷は寺領回復を求める綸旨を下しているが、信長はこれに従わなかった。
元亀元年6月28日(1570年7月30日)の姉川の戦いで勝利した信長であったが、同年8月26日の野田城・福島城の戦いでは逆に浅井長政・朝倉義景連合軍に背後を突かれ、浅井・朝倉連合軍は比叡山に立てこもり比叡山の攻防戦(志賀の陣)となったが、正親町天皇の調停により和睦した。
浅井・朝倉連合軍に加え、近江南部・甲賀では六角義賢がゲリラ的に活動し、三好三人衆も摂津・河内を抑えて再び京奪還を狙っていた。
更に石山本願寺を率いる顕如は、摂津・河内・近江・伊勢、そして信長のお膝元でもある尾張の門徒衆にも号令を発していた。
元亀2年1月2日、横山城の城主であった木下秀吉に命じて大坂から越前に通じる海路、陸路を封鎖させた。
石山本願寺と浅井・朝倉連合軍、六角義賢との連絡を遮断するのが目的であった。
この時の命令書が残っている。
「北国より大坂への通路の緒商人、その外往還の者の事、姉川より朝妻のでの間、海陸共に堅く以って相留めるべき候。若し下々用捨て候者これ有るは、聞き立て成敗すべきの状、件の如し」(『尋憲記』)。
信長は「尋問して不審な者は殺害せよ」と厳しく命じている。この時の通行封鎖はかなり厳重だったらしく、『尋憲記』には奈良の尋憲の使者も止められたので引き返したと記されている。
同年2月、孤立していた佐和山城が降伏し、城主の磯野員昌が立ち退いたため、信長は丹羽長秀を城主に据え、岐阜城から湖岸平野への通路を確保した。
5月には浅井軍が一向一揆と組んで、再び姉川に出軍し堀秀村を攻め立てたが、木下秀吉が堀を助けて奮戦し、一向一揆・浅井連合軍は敗退した。
同月、信長は伊勢で長島一向一揆に参加した村々を焼き払うと、8月18日には長政の居城となっていた小谷城を攻め、9月1日に柴田勝家・佐久間信盛に命じ、六角義賢と近江の一向一揆衆の拠点となっていた志村城、小川城を攻城した。
志村城では670もの首級をあげ、ほぼ全滅に近かったと思われている。
それを見て小川城の城兵は投降してきた。
また金ヶ森城も攻城したがこちらは大きな戦闘も無く落城した。
9月11日、信長は坂本、三井寺周辺に進軍し、三井寺山内の山岡景猶の屋敷に本陣を置いた。
[sengoku-2]当時の比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕法親王であった。
比叡山は京都を狙う者にとって、北陸路と東国路の交差点になっており、山上には数多い坊舎があって、数万の兵を擁することが可能な戦略的に重要な拠点となっていた。
先の比叡山の攻防戦では、比叡山側は信長が横領した寺領の返還を約束する講和も拒絶し、浅井・朝倉連合軍を援けたりもしたので、軍事的拠点を完全に破却しようと考えたとしている。
信長包囲網で各勢力から包囲される中、近江の平定と比叡山の無力化が戦線打破の重要課題と考えられていた。
比叡山の無力化とは、比叡山が信長方に属さない以上、軍事的役割の抹殺つまり比叡山の徹底的破壊を意味している。
しかし織田軍の武将の中に、この考え方に賛同しない者もいた。
佐久間信盛と武井夕庵らが、「この山と申す事は、人王五十代桓武天皇、延暦年中に伝教大師と御心を合せ、御建立ありしよう以来、王城の鎮守として既に八百年に及ぶまで、遂に山門の嗷訴をだに不用と云う事なし、然るに今の世澆季とは申しながら、斯る不思議を承り候事、前代未聞の戦にて御座候」(『甫庵信長記』)と「前代未聞の戦」という言葉を使い諌めたが、信長はこれに反論し全山焼き討ちが決定されたと思われている。
ただこの部分は「『信長公記』にも見えないから事実か否か明らかではない」と指摘されている。
この時池田恒興が進言し、夜になってしまえば逃散する者も出るであろうから、早朝を待って取り巻いて攻めれば全員討ち取る事が出来るとした。
信長はこの言を聞き入れ、11日夜中より比叡山の東麓を3万の兵が隙間なく取り巻いて、早朝の合図を待った。
また、明智光秀も攻撃準備を進めていたことが、元亀2年9月2日付にて地元の国人・和田秀盛宛に出された書状に記されている。
この動きを察知した延暦寺は、黄金の判金300を、また堅田からは200を贈って攻撃中止を嘆願したが、信長はこれを受け入れず追い返した。
ここに至り戦闘止むをえないとしたのか、坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達を山頂にある根本中堂に集合させ、また坂本の住民やその妻子も山の方に逃げ延びた。
元亀2年(1571年)9月12日、織田信長は全軍に総攻撃を命じた。
まず織田信長軍は坂本、堅田周辺を放火し、それを合図に攻撃が始まった。
『信長公記』にはこの時の様子が「九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ、山下の男女老若、右往、左往に廃忘を致し、取物も取敢へず、悉くかちはだしにして八王子山に逃上り、社内ほ逃籠、諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け、是は山頭において其隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其他美女、小童其員を知れず召捕り」(『信長公記』)
と記されている。
坂本周辺に住んでいた僧侶、僧兵達や住民たちは日吉大社の奥宮の八王子山地図に立て篭もったようだが、ここも焼かれた。
この戦いでの死者は、『信長公記』には数千人、ルイス・フロイスの書簡には約1500人、『言継卿記』には3,000-4,000名と記されている。
[sengoku-3]信長は戦後処理を明智光秀に任せ、翌13日午前9時頃に精鋭の馬廻り衆を従えて比叡山を出立、上洛していった。
その後三宅・金森の戦いでは近江の寺院を放火していく。
延暦寺や日吉大社は消滅し、寺領、社領は没収され明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀に配分した。
この5人の武将達は自らの領土を持ちながら、各々与力らをこの地域に派遣して治めることになる。
特に光秀と信盛はこの地域を中心に支配することになり、光秀は坂本城を築城することになる。
一方、延暦寺側では正覚院豪盛らが逃げ切ることができ、甲斐の武田信玄に庇護を求めた。
信玄は彼らを保護し延暦寺を復興しようと企てたが、元亀4年(1573年)に病死。
実現をみるに至らなかった。
天正7年(1579年)6月の日吉大社の記録には、正親町天皇が百八社再興の綸旨を出したが、信長によって綸旨が押さえられ、再興の動きは停止されてしまったとある。
その後本能寺の変で信長は倒れ、光秀も山崎の戦いで敗れると、生き残った僧侶達は続々と帰山し始めた。
その後羽柴秀吉に山門の復興を願い出たが、簡単には許されなかった。
山門復興こそ簡単には許さなかったが、詮舜とその兄賢珍の2人の僧侶を意気に感じ、それより陣営の出入りを許され、軍政や政務について相談し徐々に秀吉の心をつかんでいったと思われている。
そして小牧・長久手の戦いで出軍している秀吉に犬山城で度重なる要請を行い、ついに天正12年(1584年)5月1日、僧兵を置かないことを条件に正覚院豪盛と徳雲軒全宗に対して山門再興判物が発せられ、造営費用として青銅1万貫が寄進された。
比叡山焼き討ちの約13年後のことであった。
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